マスクもねえ 消毒液もねえ 衛生用品がそれほどそろってねえ
俺らこんな村いやだあ 東京さ出るだ
ちょっとお待ち下さい。
東京にもありませんから。
土曜日、国立駅近くのバーミヤンで、大学時代の2学年下、芋洗坂係長にしか見えないカネコと昼メシを食った。
カネコとの話のつかみは、いつもこうだ。
カネコが言う。
「おまえ、そんなに痩せていてよく生きているな」
私が言い返す。逆に、おまえこそ、そんなデブでよく生きていられるな。いま何豚(トン)だ?
「99キロだ」
おまえ、この10年間、ずっと99だな。むしろ、それって、凄くないか。10年間、同じ体重を維持できるなら、体重コントロールなんか簡単だろ。その気になれば、ダイエットできるだろうよ。
カネコの前にあるのは、油淋鶏とキムチチャーハン、餃子、ご飯、ドリンクバー。
私は、ダブル餃子と生ビール。
カロリーの違いは、歴然。
カネコは、あれほど食っても私と食い終わる時間が変わらないのだ。豚だって、もっとゆっくり食うだろうよ。
もう豚以下にしか見えないわ。いや、食欲は豚以上か。
食い終わったあとで、私は言った。
確認したいのだが、今回はおまえの奢りか。
「もちろんだ」
じゃあ、ダブル餃子を追加。生ビールはまとめて2杯追加だ。
「あのな」
喋るな。餃子とビールが車で来るまで、俺に話しかけるな。豚はバラになって冷蔵室に並んでいろ。
ダブル餃子、車で来るまでに意外と時間がかかるのですよ。ジョッキ2つが先に北野来たので、豚の顔を見ながら一杯目を飲んだ。まずかった。
餃子が来た。ありがたや。これで豚の顔を見ずにビールが飲める。
しかし、芋洗坂係長は、お構いなしに話しかけてきた。鼻の穴が、いつもより広がっていた。ブヒブヒ言いそうだ。
「なあ、WHOって、今回なんの役に立っているんだろうな」
それに関して、昨晩、娘とこんな話をしたのさ、と私は言った。
あるところにテドロス指揮官という人がいました。
「指揮官? 事務局長ではなく?」
豚は、黙って話を聞け。
「ブヒ」
大きな海で、でっかい船が荒い波に揉まれていた。沈むことはないにしても、かなり危険な状態だ。
指揮官の部下が言った。「これは想定外の荒波ですよ。助けに行きましょう」
しかし、指揮官は乗り気ではなかった。「もう少し様子を見よう」
そのCの旗を掲げた船の隣に、Jの旗を掲げた船が、隣の大きな船の波に煽られて、波に翻弄されていた。
「指揮官、助けに行かないと」
「いや、様子を見よう」
そのあと、Kという旗を掲げた船が波をかぶり、Irの旗を掲げた船が大きく傾き、Spaの旗を掲げた船が大波をかぶった。Itaの旗を掲げた船は、もっと大きく揺れて沈没寸前になっていた。
「指揮官、とてつもない大波ですよ。『大しけ情報』を宣言するときです。これは、大津波と同じです。一刻もはやく宣言してください」
「いや、様子を見よう」
だが、一番大きな船、Aの旗を掲げた船が波に飲み込まれそうになったとき、指揮官は「大しけ情報」を初めて宣言した。
そして、言った。
「では、いまのうちに我々は安全な港に避難しようか。あとはそれぞれに任せよう」
WHO(世界保健機関)って、WHO(誰だ?)
ようするに、自分の命は、自分で守れということでしょう。
みなさん、乗り越えましょう。
私は、紅の豚に、おまえは持病があったっけ、と聞いた。
「軽い高血圧。心臓も若干弱いか。呼吸器は問題ない」ブヒブヒ。
気をつけてもらいたい。おまえとの付き合いを俺はあと最低30年は続けたい。だから、痩せろ。
「そうだな、あと30キロは痩せないとな。3人目の孫もできたからな」ブヒブヒ。
お互いブヒブヒ、ガイコツしながら、新型を蹴散らそうぜ。
私がそう言ったとき、カネコがバッグの中から封筒を取り出して、私の前に置いた。
「オオクボ先輩が心配してたぞ。いま、フリーランスはピンチだから、マツも大変じゃないかってな。マツには、優良なクライアントを何人も紹介してもらっているから、こんな時こそってな」
オオクボというのは、大学時代の陸上部の同期で、新宿でいかがわしいコンサルタント会社の社長をしている男だ。
カネコは、いまバッファロー・オオクボの仕事を手伝っていた。
カネコは、2歳うえの私のことを「おまえ」と呼ぶのに、オオクボのことは「先輩」と呼んだ。
その違いはなんだ。
愛車がBMWとママチャリの違いか。それとも飼っている猫がマンチカンとブス猫の違いか。あるいは、行きつけの店が、とびきりネタのいい寿司を食わせる高級寿司店と中央線沿線の立ち食い蕎麦屋の違いか。
カネコが言うには、「違うな。貫禄の違いだ。バッファローとハリネズミの違いだ」とのことだ。
ハリネズミか。俺って、そんなに可愛かったっけ。チクチク。
封筒の中身を見てみた。
お札らしいものが、入っていた。指で厚みを計ってみたら、私の耳たぶよりだいぶ厚かった。
確かに、フリーランスは安定しない職業だ。すべてが相手次第。簡単に仕事がゼロになる。
今のところ、生活が圧迫されることはないが、今月は、イベント関係の仕事が2つキャンセルになった。
それが6ヶ月も続けば、いつかアルバイトをしなければいけなくなるだろう、とも考えていた。
助かるな、ご厚意は、ありがたく受ける。
だが、オオクボが直接来ないで、なぜおまえが来たんだ。初めてのお使いがしたかったのか。
「先輩が、マツが自分に頭を下げる姿は見たくないって言うんだよ」
気を使わせてしまったようだ。
私はiPhoneをけつのポケットから取り出して、カメラを自分に向けた。
そして、精一杯ふてくされた顔を作って大声で言った。
ど〜も、すいませんでした。
その動画をLINEでオオクボに送った。
すぐに返事が来た。
「懐かしいな。響の漫才か。今では、まったく見かけることはなくなったが、あのギャグは傑作だ。いいものを思い出させてもらった。今度会ったときは、生で見せてくれ。俺も懐かしいギャグを仕入れておく」
オオクボからのLINEを読み終わって顔を上げたら、紅の豚がまわりを指さしているのが見えた。
見まわすと冷笑を浮かべた老若男女のお顔が、ぐるり270度。
「こんな大変な時期に、なにやっているんだよ」と言いたそうだ。
(小声で)どうも、すいませんでした。ぺこり41度。
芋洗坂係長を置き去りにして、私は一人で店の外に逃げた。
見上げると桜。
綺麗だ。
桜は散っても また翌年花を開く。
だが、人間は散らない。
咲き続ける。