ランニング仲間に、フリーランスの医師がいた。
私は彼を「ドクターT」と呼んでいた。
ドクターTとは、小金井公園で知り合った。
東京武蔵野に住んでいたころの私のフランチャイズは、小金井公園だった。
週に1、2回、昼間に小金井公園内を10キロ程度走った。
そのとき、たまに遭遇したのが、ドクターTだった。
向こうも私が気になっていたようだ。「ガイコツが走っているぞ」。
あるとき、唐突に「なんで、走っている足音が聞こえないんですか」と聞かれた。
それは、私が幽霊だからです、と言って両手を胸の前でだらりと下げた。
「ハハハ」
真面目な話をしましょう。ただ足に力を入れれば早く走れるというものではない。膝と足首の角度が大事なんです。それを意識すれば、力を入れなくても早く走ることはできます。ドタバタと走るのは、無駄な力を使っているからです。
「ああ、それ、わかるような気がします」
(テキトーに言っただけですけどね)
それ以来の付き合いである。
小金井公園で出くわすたびに、一緒に走るようになった。
ドクターTは、私より20歳近く若い。しかし、走力は私の方が上だった。ドクターTに合わせて、ゆるいスピードで一緒に走った。
「Mさんと走ると何時間も走れるような気がしますよ」とドクターTが言った。
フリーランスの医師って、そんなにヒマなのか。私は1時間で十分ですよ。
そんなゆるい関係が続いたあと、我が家族は武蔵野から国立に引っ越すことになった。
小金井公園が遠くなった。
私のランニングフランチャイズは、私を振った一橋大学がある大学通りに変更を余儀なくされた。
ドクターTとは、疎遠になった。
だが、引っ越して一年も経ったころ、ドクターTから電話があった。
「やっぱり、Mさんと走らないとモチベーションが上がりません。どうでしょうか、僕が車で送り迎えをしますから、また小金井公園で一緒に走ってくれませんか。ご飯も奢らせてもらいます」
しかるべく。
またドクターTと走ることになった。1ヶ月に1度程度だ。
ゆるいスピードで1時間走り、そのあと、隣接する「おふろの王様」で汗を流し、2人でそばを食った。
裸の付き合い? 気持ち悪くて、毎回えずいてますよ。
先月末も走ったあと風呂に入り、そばを一緒に食い、えずいた。
そのとき、ドクターTが、「相談があるんですが、よろしいですか」と、まるで医者歴18年のような雰囲気を漂わせて言った。
まさか、俺を手術の実験台にするつもりか。
違った。
ドクターTには、弟がいた。フランス人女性と結婚して今はフランスに住んでいる遊び人だ。
この弟は、フランス人女性が2度目の奥さんだった。つまり、初婚ではない。
初婚の相手は、日本人だった。その人との間に、9年前1人の命を授かった。女の子だ。今年9歳になる。
弟がフランスから日本に帰ってきたときは、娘の母親の許可があれば、弟は娘に会うことができることになっていた。
昨年の娘の誕生日。弟は娘から「犬が欲しい」とおねだりされた。彼にとって、ただ1人の子どもだ。離れて暮らしていたとしても愛おしくて仕方ない。彼は、その要望を叶えた。
犬に娘をプレゼントした。
娘は、涙を流して喜んだという。弟は、父親の役目を果たせて安堵した。
しかし、その娘から、今年の7月に電話があった。
「ねえ、パパ、犬に飽きたから、なんとかして」
はあ! 秋田きりたんぽなまはげ男鹿半島いぶりがっこ? はあ! 犬に飽きたって何?
まだ8ヶ月しか経ってねえじゃないか!
そうは思っても弟は娘に甘かった。「わかった。犬好きの人に引き取ってもらうよ」
それを聞いた私は、犬はおもちゃじゃねえぞ、とドクターTを睨んだ。
「すみません、きっと本当の愛情を知らないのだと思います。だから、自分も人や動物に愛情を注げないんですよ」とドクターTは神妙な顔で頭を下げた。
俺に、頭を下げられてもね。下げるのは、ワンちゃんにだよね。
そのあと、弟もドクターTも引き受け先を探したが、引き取ってくれる人は見つからなかったという。
それはそうだ。犬猫じゃないんだから、簡単には見つからないだろうよ(イヌ?)。
「Mさん、動物が好きでしたよね。いかがでしょうか、助けてもらえませんか」と言いながら、勝手に生ビールを注文しやがった。
安いなあ、俺を生ビールで買収できると思っているのか。まあ、生ビールは素直にいただきましたけどね。
しかし、私は追加の生ビールを飲みながら、毅然として言ったのだ。
我が家には、俺と強い運命で結ばれたブス猫がいる。俺は彼だけを見ていたい。無理だ。
強く言ったが、ドクターTはしつこかった。「では、お知り合いに犬好きの方はいませんか。Mさんの頭にそんな方は思い浮かびませんか」
浮かんだ。
犬好きのアホが。
その犬好きは、ボルゾイ犬を2人家族にしていた。しかも金持ちだ。
彼なら、犬はおろか、馬や鹿やアホウドリだって家族にできるに違いない。
私は、結果はすでにわかっていたが、テクニカルイラストの達人・アホのイナバにLINEを送った。
「犬を譲りたいという人がいる。彼はいま大変困っている。引き受けてくれるか」
アホからすぐに返信が来た。
「いいですよ」
ほらね、犬種も聞かずに即答ですよ。いさぎよいくらいアホな人格者だ。
引き取り手が見つかった、と言ったらドクターTは、もう一杯生ビールを注文してくれた。
ありがたくいただきました。
授与式は、ドクターTがイナバ君の家に直接行って行われた。ちなみに私はノータッチ。
メルセデスでドクターTが、犬を運んだ。金持ちだね。そして、イナバ君もメルセデスが愛車だ。
君たちは、「富の分配」という経済学の理論を知らんのか。どーでもいいけど(あ! 私は2人から分配を受けていた。毎回メシを奢ってもらっていた、前言撤回)。
ワンちゃんは、イナバ家にすぐに馴染んだ。2人のボルゾイ犬も歓迎してくれたという。
めでたしめでたし。
木曜日、イナバ君と国立のバーミヤンで打ち合わせをした。
メシを食ったあとで打ち合わせ。そして、打ち合わせが終わると、いつも通り噛み合わない世間話に移った。
どうだい、新しいワンちゃんは元気かい。名前はハピハピだったよね。
「はい、マピヨンはとっても元気ですよ」
パピヨンね。何度訂正しても直らないねえ。
たとえば、LINEで、パピヨンちゃん、何してる?、と送ると「マピヨンは寝てますね」と返してくる。
こちらが、パピヨンと言っているのに、答えはマピヨンだ。ほかに、バーミヤンで1時に打ち合わせ、と送ると「バーミンガムで1時ですね」と返してくる。それなのに、きちんとバーミヤンにやってくるのである。
最初は、わざとかと思ったが、過去の諸々のことを検証すると、わざとの可能性はゼロパーセントだ。
本気で頭がねじれているようだ。
「でも、マピヨンってへんな名前ですよね」
パピヨンね。
パピヨンは、フランス産の犬なんだ。フランス語でパピヨンは、蝶々を意味するんだな。耳が、蝶々みたいだから、そうつけられたらしい。
「え? 蝶々ですか。でも、ハピハピは飛びませんよ」
当たり前だ、ダンボじゃあるまいし。
「ああー、ダンボは飛べますもんね。ハピハピも飛んでほしいなあ。訓練してみましょうか」
これ以上掘り下げるのはやめよう。大きく脱線する気がする。
そのとき、アホが「あ! ガラスだ」と言った。
私は窓ガラスを見た。窓ガラスに異変があるのだろうか。しかし、見たところ異変はないように思える。
なんだ、ガラスが変なのか。
「いえ、窓の外にガラスが」
ああ、カラスだねえ。なんで、カラスがガラス?
「え? 八咫烏(やたがらす)はガラスですよね。だからガラスです。サッカー日本代表のエンブレムは八咫烏じゃないですか。同じガラスですよ」
アホは、サッカーだけは異常に詳しい。海外のサッカーをWOWOWで見るのが趣味だ。他のことは聞き間違ったり言い間違ったりするのに、サッカー選手の名前だけは間違えないのだ。
なんじゃ、その才能は。
八咫烏は神話の世界の話で存在しないんだよ、と私が言うと、イナバ君は、「でもガラスはガラスです」と譲らない。
まあ、いいや、で・・・そのガラスがどうしたの?
「僕、ガラスが苦手なんですよね。見るといつも鳥肌がたちます」
鳥肌は普通に言えるんだね。チョウ肌とか言うと思った。あるいは、カラス肌。
「それでですね、苦手といえばイカじゃないですか」
アホはいつも唐突だ。イナバ君はイカアレルギーなのである。このあたりを理解しないとアホとは付き合っていられない。
「外食すると、たまに知らないところにイカが使われていて、アレルギーが突然来ることがあるんですよ。10回以上救急病院に駆け込みました」
「4年くらい前でしたけど、打ち合わせ終わりにお腹が空いたのでラーメン屋に入って、塩ラーメンを食べました。でも、半分以上食べてから呼吸が苦しくなって、店員に聞きました。これイカ使ってますか?」
「店員が言うには、出汁を取るときにスルメとか魚介類を使ってますってことでした。タクシーを呼んで救急病院に行きました。すぐに診てもらって治りました」
ん? この話は、どう続くのだ。全然読めん、五面、六面。
「10回以上、救急病院で診てもらったんですけど、そのうちの2回はきっとドクターTだったと思いますよ。ガラスを見て思い出しました。絶対にあれはドクターTです」
意外な結末。
カラスを見て、苦手なものを思い出した。それがイカアレルギーにつながった。そして、救急病院。そこにいた医師がドクターT。
すごいな。アホの連想は、天才的ですな。
今日も、イナバ君は安定だーー。