金曜日、今年初めて、ランニング仲間のフリーランス医師、ドクターTと小金井公園を走った。
ティー、ティー、ティー、ティー、ティー、と言いながら10キロ走った。
「Mさん、まだまだ若いですね。全然息が上がっていないじゃないですか」と感心された。
だって、ペースが遅いんだもの。医者相手だもの(ドクターの方が15歳くらい若いはずだが)。
いつものルーティンとして、走ったあとは小金井公園に隣接する「おふろの王様」で風呂に浸かったあと、ソバを食いつつビールを飲むのだが、今回は「不特定多数利用のお風呂、脱衣室はヤバいよね」ということで、タオルで汗を丁寧に拭き取ったのち、吉祥寺のステーキハウスでメシを食った(毎回ドクターの奢り)。個室だ。客が変わるたびに、消毒がなされているという。
部屋の隅っこに、でっかい空気清浄機があった。試しに、近づいてお尻をフリフリしたら、緑だったマークがすぐ赤に変わって、全力で換気しはじめた。すごいな、俺のお尻って、悪魔的に臭いんだな。
サーロインの200グラム、春野菜の温野菜とビールを注文したドクターは、金持ち特有の余裕のある仕草で、おしぼりをこねるようにして手を拭いた。
そして、そのあとで、小型の消毒スプレーを手に振りかけ、入念に消毒した。
ドクターにとって、ステーキを食うことは、手術と同じなのかもしれない。
私は、スペアリブ、ジャコとトマトのサラダ、生ビールを頼んだ。
「Mさんも消毒しましょう」ドクターが私の両手をシュッシュしてくれた。
お久しぶりだったのは、やっぱりウイルスの影響? と私が聞くと、「いや、僕は外科が専門ですから、呼吸器系のお呼びは、滅多にかからないです。たまたま忙しかっただけです」と言いながら、ステーキをメスでスパッ。ピンセットでつまんでパクッ。鉗子で私の指を固定して、イテテテテ!
「僕は、感染症は門外漢ですが、日々色々な病気に関して勉強しています。医者が『知らない』というのは患者さんに対して許されないことなので、絶えず新しい知識を仕入れています。門外漢だからと言って、言い訳はしたくないです」
カッコいいね、ドクター。
スペアリブ、30数年ぶりに食ったけど、美味いね。もっと肉肉しいイメージを持っていたが、麻生太郎氏よりは、憎たらしくないな(麻生先生は、毎日、人を食っているからな)。
今回の新型について聞いてみた。
「新型は、『新型』と言うくらいですから、未知のウイルスなんですよね。ようするに、人類が初めて経験する菌なわけです。すべてが手探りです。不幸にも感染してしまった人たちの経過を、あらゆる医学的経験をもとに観察するしかないです」
特効薬は、いまだない。ウイルスが、体内でどれくらい生きるかもわからない。感染経路も明確ではない。予防方法も手探りだ。
「こうしたほうが、いいでしょう」とは言うが、鵜呑みにするのはよくない、とドクターは言った。
我々は、日々の情報が、どれほど信憑性があるかを独自に判断するしかない。今回の感染症に関しては、誰もが素人なのかもしれない、ともドクターは言っていた。
「だけど、ウイルスよりも人間の方が強いことは間違いないです。いま人類が克服できないのは、癌と一部の病気だけですが、負けたわけではありません。人類は、いま物凄い熱量で、ウイルスの弱点を探っています。負けません。負けは絶対にありえません」
「医療関係者が、患者さんでもない人に、あまりベラベラと話すのはご法度なので、この話はこれくらいで」
そうですね。
でも最後に一つだけ教えて、ドクター。
マスクって、新型に対抗できるの。
ドクターは、キッパリ言った。
「あらゆる呼吸器系の予防、伝染に、マスクは欠かせません。過信をしてはいけませんが、人にうつさないという視点で言えば、するべきです」
「オリンピックは、どうなるんでしょうかね」
食後のジントニックを飲みながら、ドクターが少し遠くを見るような目で、語りかけた。
なにせ、初めての事態、初めての経験だ。誰にも予測がつかない。
世界各国の人の命と、ごく一部の一級アスリートに群がる金の亡者たちの祭典。
どちらが大事なのだろう。
私が、そう言うと、ドクターは、「ということは、Mさんは中止派ですか」と聞いた。
違いますよ。どれだけの歳月と、どれだけの人の労力が費やされたと思っているんですか。莫大なお金もかかっています。
近所のお祭りなら自粛してもいいが、世界を巻き込むイベントを軽々しく中止にはできない。さらに、金の亡者のIOCと米国オリンピック委員会が、中止を選ぶはずがない。
中止ではなく延期じゃないですか、トランプさんが言っている通り。中止は、絶対に選択肢にないと思いますよ。
中止しろよ、というのは無責任な意見だ。その意見は、責任のない人の短絡的ご意見だ。
私も無責任極まりない「昭和の無責任男」で、昭和、平成、令和で無責任を貫いてきたが、人の努力は尊重している。
オリンピックは、その努力をした一人ひとりのためにも、やるべきだ。
一番搾りの生をグイッ。
「でもMさん、まえ言っていましたよね。『俺、オリンピックの中継見ていても、15分くらいで眠くなって寝落ちしちゃうんだよね。オリンピックは俺にとって子守唄みたいなもんだ』って」
私は、ナショナリズムと聞くと鳥肌がたつタイプだ。
ナショナリズムには、排他主義しか思い浮かばない。
アメリカファースト、チャイナファースト、ロシアファースト、ノースコリアファースト、ジャパンファースト。
そういう国のアスリートさんたちは、決してその国の政治家を喜ばせようと思って高みを目指しているわけではないだろうが、結果的にナショナリズムの道具にされていると思うのだ。
だから、鳥肌がたったのち眠くなる。眠れば、とりあえず平静になれるから。
それは、私の事情であって、世界中で楽しみにしている人たちと、この大会のために、険しい坂道を登って頂上近くまで来たアスリートさんたちは、絶対に報われるべきだ。
アスリートさんたちに見えている世界は、俺たちとは絶対に違うと思うんですよね、ドクター。
あなたが手術前に見えている世界と同じように、特殊な世界だと俺は思いますよ。
その世界を彼らから奪ったら、絶対にダメだ。
ウイルスに打ち勝って五輪開催が理想ですが、最後決めるのは政府ですからね。権力主義のIOCの圧力という別の問題もありますけど。
現状、パンデミックと言われても、感染者は、爆発的に増えてはいない。だが、もちろん安心できる数字でもない。
そのくせ、今まで打った対策の何が有効だったのかを見極める時間は、それほど多くない。
たとえば、国の垣根を超えた有能な専門家主導の全世界的な対策チームというのは、作れないんでしょうか。
ONE WORLD。
アメリカ映画だったら、「アメリカが世界を救う」と言わんばかりに、有能な一人の政治家が、星条旗のもとに、各国から名医、科学者をかき集めるという展開になるだろう。
そして、危機に瀕しながらもブルース・ウィリスがウイルスを蹴散らして、エンディングでは、ヒュー・ジャックマン、アーロン・ジョンソン、ロバート・ダウニーJr、ジェニファー・ロペス、ジャッキー・チェン、ケン・ワタナベ、イ・ビョンホン、クレヨンしんちゃんなどが肩を抱き合い、それぞれの死闘を讃えあうだろう(主題歌はリアーナかな)。
悲しいことに、それは、ないものねだり。
サルバドール・ダリ。
(すみませんねえ。もっと真面目なことを書きたかったのですが、根がバカなもんで、話の落としどころがわからないのですよ)
帰りは、いつものようにドクターのアウディを駐車場に置いてタクシーで帰った。
アウディは、夕方ドクターの奥様が回収に来ることになっていた。
タクシーで国立駅前まで送ってもらい、ドクターは、そのまま中央線国立駅近くの超高級マンションに帰るのがルーティンだ。
タクシーの中で、ドクターが遠慮がちに言った。
「言うか言うまいか迷ったんですけど、Mさん、右下の前歯、上の部分が欠けてませんか」
バレていたのか。なるべく見せないように努力したのだが、ドクターには、バレバレだったのね。
朝、納豆ご飯を食っているときに、間違って箸の先っちょも一緒に食ってしまったのだ。
それで欠けたのですよ。情けない。
「Mさん、おわかりかと思いますけど、健康な歯は箸を噛んだだけでは欠けません。それ虫歯ですよ」
わかっておりやす。お殿様。
これから歯医者に行って参りやす。
だもんで、今年の年貢の取り立ては勘弁してくだせえ。おねげえしやすだ。
私がそう言ったら、タクシーの運転手さんが、ハンドルを叩いて喜んだ。
この話、誰が得したんだ?
運転手さんだけか。