史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

東征の完了

2020-06-16 | 古代日本史
磯城攻略
中洲(奈良盆地)討入りの前哨戦で宇陀を平定した神武帝は、次いで磯城に兵を進めようとしました。
宇陀の西側に隣接する磯城は、奈良盆地の南東側の入口に当たり、中洲攻略のためには避けて通れない土地です。
しかし『日本書紀』によると、神武帝が宇陀の高倉山の頂から国中を眺めてみると、国見丘の上に八十梟帥(やそたける)がおり、男坂には男軍を置き、女坂には女軍を置き、墨坂にはおこし炭を置いていました。
また磯城の頭の兄磯城の軍は磐余邑に満ち、敵の拠点は皆要害の地であり、道は絶え塞がれて通れる場所もなかったので、帝はこれを憎みました。
弟猾が言上するには、倭国(やまとのくに)の磯城邑に磯城の八十梟帥がおり、高尾張邑(或いは葛城邑)に赤銅の八十梟帥がおり、この輩は皇軍を拒んで戦おうとしている。これは臣が帝のために憂うところであり、ここはまず天の香具山の赤土を取って平瓦を造り、天社国社の神を祭った後に虜を撃てば除き易いだろうと。

そして同書ではこれに続いて、椎根津彦と弟猾にそれぞれ老人と老婆の格好をさせ、敵陣に潜行して天の香具山まで土を取りに行かせた話や、無事二人が持ち帰った土で多くの平瓦や土器を造り、それを用いて天神地祇を祀った話、道臣命を巫女に見立てて斎主とし、高皇産霊尊を顕祭した話、国見丘に八十梟帥を撃ち破って斬った話、また八十梟帥は討ったものの、その残党は猶多く、その情も測り難かったので、道臣命に大来米部を率いさせ、饗宴を設けて敵を誘い、歌を合図に騙し討ちした話や、敵を皆殺しした後に来米部が歌を詠んだ話などが詳細に語られますが、ここでは割愛します。
尤も、前に兄猾による神武帝謀殺の計画が露見した時には、その性根を責めてこれを誅しておきながら、八十梟帥の余党に対して皇軍が全く同じことをするというのは、何とも言いようのない話なのですが。

皇軍は大挙して磯城彦を攻めようとしました。
まず使者を遣わして兄磯城を召しましたが、兄磯城は応じませんでした。
更に頭八咫烏を遣わして、兄磯城の軍営に行き鳴いて呼ばせましたが、兄磯城が怒って弓を構えて射たので、烏は逃げ去りました。
次いで弟磯城の宅へ赴くと、弟磯城は烏が鳴いて呼んだのを吉兆として、平皿八枚に食物を盛ってもてなし、烏に導かれるままに皇軍に詣で到りました。
そこで弟磯城が申して言うには、兄磯城は天神の御子が来たと聞き、八十梟帥を集め武具を整えて共に戦おうとしている、速やかに備えるべきであると。
無論ここで言う頭八咫烏というのが、果して鳥類としての烏なのか、それとも烏と呼ばれた忍びなのかは分かりません。

神武帝は諸将を集めて、兄磯城にはやはり戦意がある、召しても来ない、これをどうしたものかと問いました。
諸将が答えて言うには、兄磯城は悪賢い奴なので、まずは弟磯城を遣わして教え諭し、併せて兄倉下と弟倉下に説かせ給え。それでも帰順しなければ、その後に兵を挙げても未だ遅からじと。
そこで弟磯城を通して利害を説かせましたが、兄磯城は応戦の構えを崩さず承伏しません。
そのため両軍は合戦となりましたが、椎根津彦の献策によって皇軍が完勝し、兄磯城を斬って磯城を占領しました。
ただ誰しも気付く通り、この辺りの経緯は宇陀のそれに酷似しており、大伴氏の祖である道臣命と倭国造の祖である椎根津彦という、皇軍側の功臣が入れ替っただけのようにも見えます。



東征の大まかな進路図

長髄彦と饒速日命
皇軍は遂に長髄彦を撃つことになりましたが、連戦しても勝つことができませんでした。
すると突然空が陰って氷雨が降り、そこへ金色の霊しげな鵄が飛び来たって、帝の弓の先に止まりました。
その鵄は光り輝き、それは雷光のようだったので、長髄彦の兵士は皆幻惑されて力戦できなくなったといいます。
ただいかに相手が饒速日命の主力とは言え、野戦で長髄彦を相手に苦戦したのが事実ならば、中洲討入りまでの間に、神武帝の軍勢は相当減少していたと見てよいでしょう。
そもそも大船団を率いて吉備を発った時の軍備や兵力のままで、徒歩による熊野越えなどという芸当が可能な筈もなく、辛うじて宇陀に至った時点で既に、かつての両軍の兵力差は著しく縮小していたか、下手をすると逆転していた可能性もあるでしょう。

長髄彦は使者を送って神武帝に言いました。
かつて天神の御子が天磐船に乗って天降られた。櫛玉饒速日命という。この方が我が妹の三炊屋姫を娶って子が生まれた。名を可美真手命という。故に吾は饒速日命を君として仕え奉っている。天神の子は二種もあるというのか。どうして更に天神の子などと称して人の地を奪おうとするのか。思うにそれは偽物だろうと。
神武帝はこれに応えて、天神の子は多くある。汝が君とする者が真に天神の子ならば、必ず表物(しるしの物)があるだろう。それを示せと言いました。
そこで長髄彦が饒速日命の天羽羽矢一隻と歩靫を取って神武帝に示すと、帝はそれを見て「偽りではない」と言い、営に還って自ら所持する天羽羽矢一隻と歩靫を示しました。

長髄彦はそれを見て、神武帝もまた天神の子であることを悟りましたが、既に戦陣は布かれていて、その勢いを途中で止めることは難しいものでした。
抗戦の構えを崩さない長髄彦に対して、主君の饒速日命が天道を説いて翻意を促しましたが、理解しようとしない義兄を見てこれを殺し、配下を率いて帰順しました。
神武帝は饒速日命が天神の子であることを認め、忠誠の意を表したことを褒めて寵愛したといいます。
この饒速日命は物部氏の祖です。
その後に神武帝は士卒を選んで訓練し、倭国平定後も帰順しなかった三カ所の土蜘蛛を撃つと、更にもう一カ所の土蜘蛛を殺したところで東征が終っています。

以上が『日本書紀』の流れですが、『古事記』の方はもっと単純で、兄宇迦斯を誅して宇陀を平定した後の経緯については、師木(磯城)へ向かう途中に尾の生えた土雲八十建が皇軍を待ち受けていたため、饗宴を設けて敵を酔わせ、歌を合図に殺した話を伝えるだけで、その後は登美毘古(長髄彦)を撃とうとした時に歌った歌、兄師木と弟師木を撃った時に歌った歌、そして邇芸速日が降参したことを記して東征を終えています。
案外『古事記』の記述のように、もともと後世に伝わっていたのは歌だけで、『日本書紀』の詳細な物語は、歌の内容や諸氏の家伝を元に創作されたものかも知れません。

ヤソタケルとツチグモ
ここでヤソタケルとツチグモについて触れておくと、ヤソタケルは言葉の通り「多くの雄者」という意味で、特定の個人や集団に当てた名称ではありません。
ただ『古事記』に土雲八十建とあり、来米歌の中に彼等を「エミシ」と呼ぶ箇所があることから、ここではニギハヤヒ方に与していた土着民の兵士を指しているものと思われます。
ツチグモという言葉の意味はよく分かりませんが、やはり農耕民(倭人)とは一線を画す存在だったようで、史書には景行紀で再び登場します。
崇神帝の孫に当たる第十二代景行帝は、祖父の偉業を受け継いで史上初の日本統一を成し遂げた天皇ですが、神武帝から数えると実に十一代の孫に当たります。
従って神武紀と景行紀という(本来ならば)遠く時を隔てた二つの治世に、ツチグモという名の共通の集団が出現するという事実は、東征の真の実行者が誰であったかを暗示しているとも言えるでしょう。


コメントを投稿