史書から読み解く日本史

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魏志:卑弥呼と卑弥弓呼

2019-09-06 | 魏志倭人伝
其の八年、太守王頎、官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史の張政等を遣わして、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為りて之を告喩す。

正始八年、太守の王頎が帯方郡に着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と平素より不和であった。(女王は)倭の載烏越(人名か)等を郡に遣わし、(載烏越等は)相攻撃する状を説いた。(王頎は)塞曹掾史の張政等を倭に遣わし、(張政等は)詔書と黄幢を持って行き、難升米に預け、これを告諭して激励した。


太守王頎の赴任
正始八年(西暦二四七年)、玄菟郡の太守だった王頎が、帯方郡へ転任となりました。
これはこの前年に帯方太守の弓遵が、韓との紛争で戦死したことを受けての人事で、恐らくは高句麗遠征等で見せた王頎の手腕に期待してのものでしょう。
そして女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼とかねてから不和であり、王頎が赴任すると載烏越等を郡へ遣わし、彼等は自国と狗奴国が戦争中であることを説いたといいます。
倭人伝の文章をそのまま読み下すと、恰も卑弥呼が郡へ戦況を伝えるために使者を送ったような内容ですが、いつの時代のどこの国であろうと、(それが支援の要請でもない限り)国内の紛争を他国に報告する義理はないので、この時の載烏越等の訪郡の目的は、あくまで太守交代に伴う表敬のようなものだったと思われます。
高句麗征伐に代表される数々の武功によって、玄菟太守王頎の名声は東夷に鳴り響いていましたから、倭国が彼の就任早々に使者を立てたのは外交的にも自然な行為でした。
無論それに先立って、予め郡の方から太守交代を告げる使者が倭国へ来ていたのはいうまでもありません。

狗奴国との戦争
そして王頎と女王の使節団が面会する中で、今まさに女王国が戦争中であることを郡側も知った訳です。
そこで王頎は、詔書と黄幢を手配すると、これを塞曹掾史(職名)の張政等に倭国へ届けさせました。
倭の女王が魏帝から冊封を受けている以上、倭国が魏に臣従した見返りに、魏は倭国を守らねばならぬ立場にある訳ですから、倭国との外交を任されている郡としては、後になって無為無策の責任を追及されぬよう、何らかの行動を起こしておく必要があります。
来倭した張政は、難升米に詔書と黄幢を預けると、檄を作って卑弥呼にこれを告諭したといいます。
この二年前にも難升米は、詔によって郡から黄幢を賜っており、景初以来一貫して彼が倭国側の窓口だったことが分かります。
そして張政等が邪馬台まで赴いていなかったとすると、恐らく難升米もまた普段は九州に滞在したまま魏との外交に当たっていたのでしょう。

その難升米も授かったという黄幢については、この贈答品の魏朝内に於ける位置付けや、それが難升米と卑弥呼に賜与された理由など、詳しいことは余りよく分かっていません。
幢そのものは式典や軍の指揮に用いる旗の一種で、彩色した布を垂幕にして、(籏鉾とも呼ぶように)旗の先端に鉾や金細工等を付け、柄に差して掲げるのが一般的な様式となります。
どちらの例でも詔と黄幢が一式となっているように、見る者が見ればそれが皇帝に許された品であることは一目で分かるので、魏朝内での待遇を顕すには効果的なものでした。
例えばそれが難升米であれば、外国の使者と面会するような場に黄幢を立てておけば、自分が魏の代理人であることを相手に示すことができますし、郡へ赴いた際の道中に掲げて行けば、国境や関所でも要人としての扱いを受けられるでしょう。
またそれが邪馬台であれば、陣中に黄幢を靡かせておくことで、自国が魏の同盟国であること、つまり魏は自国の側に付いていることを内外に明示できる訳です。

読み下しの注意点
そしてこの一節を読むだけでも分かる通り、もともと漢語と日本語では文法がまるで異なるので、漢文をそのまま読み下して和訳すると、主旨から外れた誤訳を招き易くなります。
加えて古い時代の漢文では、主語が省かれたまま前後の文章で主語が入れ替っていたり(顕著な例に『孫氏』がある)、使役形や受身形のような語法の使い分けもないことが多いので、読む側がその点に留意しなければなりません。
実は冒頭の「太守王頎、官に到る」も訳の分かれるところで、大抵は前記のように郡への着任と読みますが、本来「官」は中央官庁を意味する語であることから、王頎が上洛したと訳す読み方もあります。
要は倭王への詔書と黄幢を要請するために、太守の王頎が自ら洛陽まで赴いたとする読み方で、確かにそれはそれで筋の通る話ですから、この場合はどちらの訳に依っても構わないでしょう。

張政が作ったという「檄」は、一般に回状(触れ文)を表す単語として知られますが、漢人の張政が倭人に触れを回したところで意味がないので、この場合の檄は「急を告げて励ます」書式となります。
また「告諭」などという言葉が使われているのは、文明国である魏の中華思想に加えて、上位者である皇帝の詔書が絡んでいるためで、本来郡の一役人に過ぎない張政から一国の王に奉じられた書に用いる言葉ではないので、「諭す」の部分は無視してよいでしょう。
従って「因って詔書黄幢を齎し(中略)檄を為りて之を告喩す」を自然な日本語に訳すと、「之」は「詔書黄幢を齎し」に係りますから、「詔書と黄幢を持って来たことを告げて励ました」という意味になります。

帯方郡の対応
また張政が卑弥呼に対して、檄を作ってまで詔書と黄幢の存在を示したのは、魏が邪馬台の側に立っていることを伝えるもので、裏を返せばそれは狗奴王に対して、魏帝から親魏倭王に封ぜられている女王に従うよう通告するものでもありました。
これはいつの時代でも外交の基本であって、例えばある二国間に国交が開かれていて、その一方が内戦状態となった場合、(紛争当事者間の是非善悪は別にして)もう一方は当然国交を結んでいる政府の方を支持しなければなりませんし、その態度を明確にすることを求められます。
ましてそれが現代のアメリカ合衆国や歴代の中国王朝のように、世界的な影響力を持つ超大国ならば猶更です。
無論そうした意思表示が、すぐさま援軍や支援物資を約束するものではありませんし、先方がそれを要求するとも限りませんが、相手が火急または苦難の時ほど、(同盟国ならば言うに及ばず)友好国としての本質が問われることに変りはありません。
少なくとも相手国に対して、自国の姿勢だけは正確に伝達しておかないと、その後の信頼関係に亀裂が生じ兼ねないからです。

狗奴国の位置と外交
邪馬台国と交戦していたという狗奴国や、卑弥呼と不和だったという狗奴王卑弥弓呼についても、周知の如く今以て定説は得られていません。
倭人伝では狗奴国の場所を女王国の南としているので、当然これは邪馬台国の所在地も絡んでくる問題なのですが、いずれにしても郡から見て女王圏の更に奥であることに変りはありません。
そして邪馬台の推定地を九州とした場合、狗奴の比定地は九州南部ということになり、邪馬台国九州説を支持する識者の中では、ほぼこれが定説と言ってよいでしょう。
後の大和朝廷でさえ九州南部を支配下に置くのは、景行帝による九州親征と、倭建命の熊襲征伐以降のことなので、卑弥呼の時代であれば猶更でした。

一方で邪馬台の推定地を畿内とした場合、その南(東)にあったという狗奴の比定地を探るのは、甚だ困難な作業となります。
と言うより同国の所在地を特定するような条件が、殆どないというのが実情なので、巷に溢れている数多の邪馬台国論と同様に、それこそ人の数だけ狗奴国の候補地を主張できる訳です。
そこで狗奴国の場所を考察する際に、まず念頭に置いておくべき案件として、果して狗奴もまた女王圏諸国と同様に、帯方郡との間に交流があったのかどうか、つまり狗奴と魏の外交関係があります。
倭人伝では帯方郡へ通じている倭人の国を三十国としており、同書内で国名を挙げられているのが狗奴を含めてちょうど三十なので、素直に読めば狗奴もまた郡と交流している(邪馬台傘下ではない国としては唯一の)国の一つと解釈するのは、それほど不自然な話ではありません。

しかし因幡から西の沿岸航路と瀬戸内海の制海権、関門海峡と対馬海峡を女王圏が押さえてしまっており、その頂点に立つ女王国と狗奴国との関係が良好でなければ、狗奴の船団はこれらの海域を通って郡へ渡ることができません。
これが九州説であれば、仮に女王の統治が九州北部から対馬海峡にまで及んでいたところで、南部の狗奴も直接魏へ渡航することが可能なので、何も問題はありません。
ところが邪馬台が畿内にあって、その外縁のどこかに狗奴があったとすると、狗奴が女王の領域を通らずに郡へ赴くには、(規模はまるで違いますが)日露戦争時のバルチック艦隊宜しく九州南部を迂回して行くか、後の渤海使と同じく北陸から直接朝鮮半島へ渡るか、その二つに一つしかありません。
そして当時の舟の能力や航海技術で、しかも道中の寄港地が制限されることを考えると、やはり九州を迂回する航路は現実的ではないでしょう。
無論途中の沿岸に信頼できる複数の寄港地が確保してあって、尚且つ九州南部の勢力とも誼を通じていたというのなら話は別ですが。

従って狗奴が女王に属しておらず、女王圏とは別に単独で魏との関係を築いていたとすると、狗奴が郡へ来訪するために選択できる行程は、北陸から一気に朝鮮半島へ渡る航路しかなくなります。
とにかく第三者の領海に入ってしまいさえすれば、いかに両国の関係が不穏であろうと、まさか他人の領域で喧嘩をする訳にもいかないので、それなりに道中の安全は保障されるからです。
無論狗奴国の名が倭人伝に刻まれたのは、単に女王国と交戦したことに因るもので、狗奴自体は魏との間に交流がなかったか、もしくは狗奴王が女王に服していなくとも、邪馬台と狗奴との関係が良好で、狗奴の船団が女王圏の領海を通れれば何も問題はないのですが、今となっては全て推測の域を出ません。


狗奴国と女王国の大陸(半島)への渡航ルート考


狗奴国王卑弥弓呼とは
倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず」という一文も些か腑に落ちない箇所で、これをそのまま読み下すと、まるで両者が個人的に不和だったという意味にも捉えられ兼ねません。
もしそうだとすると卑弥呼と卑弥弓呼はお互いに知った間柄で、もともと両者共に先代の男王の治世には一つの国家に属していたものが、王の死後に国内が乱れて卑弥呼の下で再び統合された際に、卑弥弓呼の一派だけが女王に服さぬまま独立していたとも考えられます。
また正始元年に卑弥呼を親魏倭王とする詔書と印綬が届けられた時点で、唯一女王だけが倭人の代表として魏との外交権を許された訳ですから、狗奴国王が郡との交流を継続しようと欲するならば、以後は諸事邪馬台を通さなければならなくなります。
その際に両者の関係が良好ならば何も問題はないのですが、敵対しているようであれば狗奴は交易の機会を失ってしまい、大陸の文化や先進技術を輸入できなくなります。
或いは両国が戦争に至った経緯というのも、案外そうしたところに起因しているのかも知れません。



1 コメント

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Unknown (岩嵜智久)
2023-09-09 12:50:44
南九州にあった狗奴国は熊襲国の旧国名だったと思います。
狗奴国は神武東征した後に兄の御子息が建てた国家だと思います。
神武天皇を先祖とする王朝は邪馬台国に倒されたと思います何故なら第10代の崇神天皇は北九州から東征した天皇だからである。

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