史書から読み解く日本史

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記紀神話:高千穂

2020-03-20 | 記紀神話

高千穂峡(高千穂町HPより)

木花咲耶姫と三子
高千穂に到ったニニギは、現地の山祇の娘の木花咲耶姫を見初めて、彼女を妻に迎えます。
舅に当たるヤマツミは、海の神ワタツミと並んで本来は単に山の神という意味であり、神を人に直してこれを山の首長と解すれば、新たな土地へ入植した農耕民が、在地の先住民と姻戚関係を結ぶことで、開発を平和裏に進めようとしたものと思われます。
平安時代以降の武士の社会でも、都から天下って土着した武家や中級貴族が、新天地での地盤を固めるために有力豪族の娘を娶るのは半ば常識でした。
因みにニニギの話には続きがあって、『古事記』や『日本書紀』一書によると、コノハナサクヤヒメには磐長姫という姉がおり、初めヤマツミは姉妹を共に嫁がせようとしたのですが、美しい妹に反して姉のイワナガヒメは醜女だったため、ニニギは妹だけを手元に残して姉は実家に返してしまったといいます。

ニニギはコノハナサクヤヒメとの間に三人(または四人)の男子を設けました。
これにも逸話があり、彼女を見初めたニニギが一晩召したところ、しばらくして天孫の子を身籠ったとの報告を受けました。
ニニギはこの妊娠を疑い、いかに天孫とは言え、どうして一夜で孕ませることができようか、それは我が子ではあるまいと言い、『古事記』では更に「必ず国つ神の子ならむ」とも言ったといいます。
これを聞いて怒り悲しんだコノハナサクヤヒメは、戸口のない建物を作ってその中に籠り、もし自分の身籠った子が天孫の子でないならば必ず無事ではないだろう、もし天孫の子ならば火も害うことはできないだろうと言って、出産に臨んで産屋に火を点けました。
そして無事に生まれたのが三子だといいます。
また『日本書紀』一書では、多少細部に違いのある異伝をいくつか載せていますが、いずれの書でもほぼ共通しているのは、あくまでニニギは彼女を一晩召しただけで、必ずしも最初から妻に迎えた訳ではなかったということ、そして三人(四人)の子は同時に生まれたとしていることです。

海幸山幸
この時に生まれた三子について『古事記』では、生まれた順に火照(ほでり)命火須勢理(ほすせり)命、火遠理命またの名を天津日高日子穂穂手見(ほほでみ)命とし、火照命を隼人阿多君の祖とします。
対して『日本書紀』本文では、生まれた順に火闌降(ほのすせり)尊彦火火出見尊火明(ほあかり)尊とし、火闌降尊を隼人の祖とします。
また『日本書紀』一書でも、生まれた順番や人数、名前とその当て字等で各書に相違が見られるなど、かなり曖昧な系譜となっています。
そして『古事記』では長子のホデリを海幸彦、末子のホホデミを山幸彦とするのに対して、『日本書紀』は全書に於いてホノスセリを海幸彦、ホホデミを山幸彦としますが、どちらも兄の海幸彦を隼人の祖先、弟の山幸彦を皇室の始祖とすることでは共通しています。
従って元来この物語は、どちらも日向を起源とする大和朝廷と隼人が、かつて同じ祖先から枝分れしたという、九州の古い伝承が原型となったものでしょう。

海幸山幸の神話については、八岐大蛇や因幡の白兎と並んで、日本人ならば知らぬ者のない物語の一つと言ってよいでしょう。
しかし類似の伝承が国外各地にみられることから、やはりこれも日本固有の神話という訳ではありません。
またこの国の古代史の解読に不可欠な史話でもないので、ここでは割愛します。
ただ海幸山幸の名が示す通り、兄の方は五ヶ瀬川下流の海に面した土地、弟の方は高千穂周辺の山に囲まれた土地が、それぞれニニギから相続した所領だったと解するならば、既にニニギ一代で臼杵郡一帯はほぼ領有していたことになります。
そして山の幸を領する弟と海の幸を領する兄の間で争いが起き、海神を見方に付けた弟が勝ってニニギの後継となり、敗れた兄は弟に臣従して隼人の祖になったというのが、この神話の趣旨です。

山幸彦ことホホデミは、ワタツミの娘の豊玉姫を娶り、その助力を得て海幸彦を破ることに成功します。
本来ならば海幸彦の方がワタツミと誼を通じるべきかと思われますが、そうならなかった辺りは何か理由があったのでしょう。
日向臼杵郡の沿岸部は、北に豊後海部郡と接しており、その海部郡について『豊後風土記』では、この郡の百姓は皆海辺の白水郎(あま)であり、よって海部の郡というのだと記しています。
また『日本書紀』神武紀には、神武帝が日向東岸から舟軍を率いて東征に出立し、豊予海峡を北上して宇佐へ向かう途中、合流してきた珍彦という土着の神に先導させたとあります。
この珍彦についても同書では漁人(あま)としているので、恐らくホホデミが姻戚関係を築いたワタツミというのも、そうした漁撈を生業とする海の民だったのでしょう。

従ってここまでの流れを整理しておくと、家臣を従えて高千穂の地に入植したニニギは、まず現地の山人と同盟を結ぶことで地盤を固め、五ヶ瀬川を下る形で領土を広げて行きました。
このようにまず河川の上流に本拠を定め、下流に向けて農地を広げて行くという手法は、後世関東の開発地主等にも顕著に見られるもので、農耕民が新天地で領国を築く際の基本形態と言ってよいものです。
そして一代で五ヶ瀬川流域をほぼ領有したニニギは、その領土を息子達に分割して治めさせ、兄には海に面した下流域を、弟には山に囲まれた上流域を与えました。
実はこれもおかしな話で、後の開発地主の例を見ても本家が上流で水を押さえ、分家を下流に配するのが一般的であるように、本来は本貫のある上流が兄で、新地の下流が弟である筈なのですが、これを素直に受け取れば最初から弟のホホデミが嫡子だったことになります。
やがて兄弟間で争いが起きると、海人の娘を妻とした弟が勝利して、ニニギの旧領を全て相続した訳です。

豊玉姫と玉依姫
ホホデミとトヨタマヒメの間には、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(なぎさたけうがやふきあへず)命(書紀では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊に作る)という男児が生まれました。
記紀共に他子があったとは伝えていないので、ホホデミにとってこのウガヤフキアエズが唯一の後嗣になります。
トヨタマヒメは嫁ぐに当たって妹の玉依姫を連れて来ていましたが、出産後に我が子を育てることができなくなったため、以後はタマヨリヒメが母親代りとなってウガヤフキアエズを養育したといいます。
嫁入りに妹が付き添っている辺り、生来トヨタマヒメは病弱だったのかも知れません。
やがてタマヨリヒメはウガヤフキアエズと結婚し、二人の間に生まれたのが神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)命(書紀では神日本磐余彦天皇)、即ち神武帝だといいます。

実の叔母と結婚するという行為は、(それが母親の同母妹でなければ)世界中に実例もあることなので、ワタツミとの関係を強化するための政略結婚として、後日改めてウガヤフキアエズにタマヨリヒメを迎えたというのであれば、まだ話は分かります。
しかしタマヨリヒメはウガヤフキアエズの養育者であり、実質的な継母であることを考えると、この設定には些か無理があるでしょう。
また『日本書紀』本文には、イワレヒコの諱が「彦火火出見」と記されていることを見ても、恐らくタマヨリヒメは姉に代るホホデミの後妻で、後の宮中等でも多くの事例があるように、神武帝はウガヤフキアエズの子ではなく、系図上は祖父とされるホホデミの子であろうかと思われます。
無論それは必ずしもウガヤフキアエズとタマヨリヒメが夫婦だったということまで否定するものではないのですが。



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