ヘタレ投資家ヘタレイヤンの読書録

個人投資家目線の読書録

未来から来た男 ジョン・フォン・ノイマン

アナニヨ・バッタチャリヤ 訳・松井信彦 みすず書房 2023.9.19
読書日:2024.3.21

ハンガリー出身の数学の天才で、数学の力を量子力学、コンピューター、ゲーム理論、AIなど、純粋数学の枠を越えて貢献し、手がけた分野のすべてがその後大きく発展して、いまだに現代に大きな影響を及ぼして、未来から来た男と呼ばれたジョン・フォン・ノイマン(1903ー1957年)の評伝。

わしはなぜかジョン・フォン・ノイマンクロード・シャノンをごっちゃにしてしまう。どちらも情報工学に関係があるからだろう。今回ジョン・フォン・ノイマンの評伝を読んだから、あとはシャノンの伝記を読めば、もうごっちゃになることはないだろう。

ノイマンは数学者なんだけど、数学者におさまらないところがあって、数学以外の分野にも詳しい。子供のころに家にあった分厚い歴史書を読んで、ほとんど暗記してしまっている。だからこれから起きる歴史の流れがはっきり見えていたんだろう。歴史の展開の見通しも完璧で、故郷のハンガリーから婚約者を第2次世界大戦の直前に脱出させたりしている。この辺の見極めは、ぐずぐずしてひどい目にあった他のユダヤ人や上流階級の人たちとは異なっていた。

ノイマン全体主義共産主義を嫌っていた。そして当時は、ナチスドイツやソ連といった、どうしても負けるわけにはいかない相手がいたのだ。それで、原爆や水爆の設計にいそしんだ。爆発でプルトニウムを集中させる爆縮の設計をしたし、核爆発で核融合を起こす水爆の基本構成を示した特許も書いている。

爆縮の設計のためにコンピューターが必要になると開発を強力に進めた。コンピューターというものがなかった時代に、処理装置(CPU)とプログラムとメモリと入出力装置からなるノイマン型という構成を考え出している。いまこの文章を書いているコンピューターも、普段使っているスマートフォンノイマン型のコンピューターだ。ここで大事なのは、この構成だけでうまくいくということを、ノイマンが数学的に証明していることだ。(同時に限界も理解している。)なので、自信をもって開発することができた。あるアイディアがどこまで普遍的に使えるかを正確に見通すことができる人なのだ。

そしてコンピューターを考え出すと、すぐにそれが人間の能力を追い越すことも理解している。コンピューターが人間の知能を追い越すことを「シンギュラリティ(技術的特異点)」というけれど、この言葉を初めて使ったのはノイマンなんだそうだ。ものすごい先見性がある。

安全保障の分野で有名な研究所にランド研究所があるけれど、マンハッタン計画の影響で誕生したこの研究所にもノイマンはかかわっている。もちろん核戦略の立案関係なのだが、必要だったのはテクノロジーの知識だけではなく、ノイマンの開発したゲーム理論だった。ソ連という異質の相手にどのように戦略を組めばいいのか、ゲーム理論が役に立ったのだ。

ノイマンは論理を使う学問について全般的に何でもできる人で、物理のような数学をつかう分野ではもちろんだが(量子力学のハイゼンベルグ行列式シュレディンガー波動方程式は原理的に同じであることを示している)、ゲーム理論を使った経済学の本も書いている。

ゲーム理論も興味深いかもしれないが、それ以上に経済学で効用のスコア(例えば人の満足度のこと)という基本概念を作ったというほうが興味深い。そのためのユーティルという単位まで作った。驚いたことにノイマンが経済について考えるまでに、このような効用を数値化するという発想はなかったのだそうだ。このノイマンの発想の結果、経済学は効用を数値で表せられるようになり、いろんな計算に使われるようになり、合理的とかそうでないとかという議論が数字でできるようになった。わしはノイマンの単純な効用の数値化に疑問を感じるけど、計算できるようになったのは確かで、結果、ゲーム理論は電波の周波数オークションの設計に欠かせないのだという。なるほどね。

結局、ノイマンがやったことというのは、世界を単純なモデルで還元して考えたということなのだろう。しかもノイマンはその単純なモデルがどこまで有効かも数学的にすっかり把握していた。限界はあるのだけど、その単純なモデルでも有効範囲は広く、彼は見通せられる範囲を極限値まであっという間に見通したわけだ。

その真骨頂を表しているのが最後の仕事となったオートマトン理論だろう。ここで彼は生物を単純なモデルで表そうとしたのだ。生物を座標において、移動やコピーを作るという単純なルールを3,4行の少ないプログラムで書く。このプログラムを膨大な回数繰り返すと、複雑だが特徴あるパターンが生まれることがある。ノイマンはいくつかの基本的なルールを繰り返すことで、知性のある生命だって生まれると考えたわけだ。なるほど。これならマンデルブローの複雑系の科学に理解を示したのも納得だ。

ノイマンは意外に純粋数学への貢献は少ない。たぶん世の中の先を見通す力が強すぎて、純粋数学では物足りなかったのだろう。このころは数学の限界もいろいろ明らかになったことも関係しているのかもしれない。ノイマンがまいた種はいろいろな分野で大きな研究分野に育っている。未来から来た男というあだ名はだてじゃない。

ガンによって50代で亡くならなければもっと人類に貢献してくれたんだろうけどねえ。

アナニヨ・バッタチャリヤの文章は、各領域の学問について、適度に好奇心を満たしてくれるストレスの少ない文章で、とてもよかった。これだけの範囲を明快に説明するなんて、なかなか稀有な才能です。

****メモ****
・爆縮のシミュレーションは、モンテカルロ法(粒子の動きを一定時間ごとにランダムに割りふる方式)だったそうだ。世界初のコンピューターシミュレーションがモンテカルロ法だったとは。このとき、ランダムな数値を作る方法も考案している。

ソ連核兵器を作る前、ノイマンは先制核攻撃を主張していたそうだ。ソ連核兵器を得る前につぶすべきだと考えたのだ。しかし、ソ連が開発に成功したことを知ると、ゲーム理論の人らしく、先制攻撃が無意味になったと理解して、その主張をやめた。しかし世間では逆に先制攻撃論が盛んになったそうだ。

ノイマンはお金が大好きだった。純粋数学の世界にあまりいなかったのも、お金を稼ぐのが好きだったことも一因らしい。まあ、だからアメリカ社会にはとてもよくなじんだ。生まれはハンガリーの上流階級で、大きな屋敷に住んでいた。はじめてアメリカに来た時、アメリカの住宅事情に、こんなところで数学はできない、とこぼしていたそうだ。後半生では、国家的重要人物となっていたノイマンは、アメリカ中を軍用機で飛び回っていたそうだ。お金が好きだったが、コンピューターの知識を独占しようとかそういうことはしなかった。

・機械の知能と人間の知能の違いについても、すぐに人間の脳は超並列型の計算機だということを理解して、指摘している。

★★★★☆

怪獣保護協会

ジョン・スコルジー 訳・内田昌之 早川書房 2023.8.15
読書日:2024.3.17

(ネタばれあり。注意)

パンデミックで職を失いフードデリバリーをしていたジェイミーが、偶然得た仕事は、パラレルワールドのもう一つの地球で怪獣を保護する仕事だったが……というおばかSF。

スコルジーって「老人と宇宙(そら)」という本で有名なんだそうだ。知りませんでした(笑)。もともと小説には疎いが、たまに読むSFについてすら、ほとんど知らないんだね、わし。

まあ、それは置いといて、この人SFマニアらしくて(そうでしょうね)、スタートレック愛にあふれた作品とかも書いているんだとか。それで日本の怪獣映画についても詳しくて、この本は楽しく書けたそうだ。基地名とかに日本のゴジラ映画関係者の名前がたくさん使われている。

怪獣について誰もが思うであろう疑問についても考察がされていて、なんであんな大きな生物が動き回れるんだ、という疑問には、怪獣は進化の結果、生物原子炉を持っていて、食料を食べなくてもエネルギー使い放題なんだそうだ。まあ、この辺はゴジラからの類推したんだろうから分からないでもない。笑ったのは、怪獣が死ぬと体内原子炉が暴走して爆発するというところかな。わしは子供のころ、なぜ生物である怪獣はやられると爆発するんだろうと思っていたが、これで納得だ(笑)。

別の重要な設定は、もう一つの地球とわしらのいる地球の境界が薄くなるのは核分裂エネルギーの結果というところかな。そんなバカなと思うけど、この辺さえ飲み込めれば、あとは人間のドタバタを楽しめればそれでいい。

で、怪獣映画で展開される人間のドラマって、あんまり面白くないという印象がわしにはある。まあ、この作品でもその辺はどうかな、という感じだった。一般的な展開としては、怪獣を利用して一儲けしたい金持ちが悪人となって、という展開が多いような気がするけど、この作品でもその辺を踏襲しているようだった。

アマゾンの書評とかを読むと、ジョーク満載の軽いタッチを楽しんでいる人が多いようだけど、正直に言って、その辺はあまり面白くなかったな(笑)。でもまあ、これまでの設定をうまく生かしたラストの盛り上がりは、なかなかよかった。

主人公のジェイミーは最初は女の子かと思っていたんだけど、読んでいるうちにどっちかわからなくなって、男にスイッチして読み進めたけど、訳者の解説では、どちらにも設定されていないんだそうだ。これは最近はやりのスタイルだね。

★★★☆☆

イーロン・マスク

ウォルター・アイザックソン 訳・井口耕二 文藝春秋 2023.9.10
読書日:2024.3.13

著名人の伝記を次々発表するウォルター・アイザックソンの最新作であるイーロン・マスクの伝記。

ウォルター・アイザックソンといえば、著名人の伝記を次々発表していて、いちばん有名なのはアップルの「スティーブ・ジョブズ」だろう。この本のおかげで、「現実歪曲フィールド(or空間)」という言葉が一般化してしまった。

最近では「コードブレーカー」という本でキャスパー・キャス9でノーベル賞を取ったジェニファー・ダウドナを主人公にノンフィクションを発表している。

驚くのは、主人公の周囲にいる人のほとんどすべての人に対してインタビューを成功させていることで、それはその人を嫌っていたり、敵対しているような人に対しても成功している。おかげで伝記に厚みができるわけだが、アイザックソンはまるでどんな人とも関係を築けるようなのだ。よほど誠実な人物なのだろう。

そして、アイザックソンのスタイルのもっともたるものが、本人と長期間にわたって行動をともにして、その実情に迫るというスタイルで、おかげでアイザックソンの伝記は前半がそれまでの生い立ちだが、後半は最近の出来事のドキュメンタリーという二重構造になっている。何しろ有名人の人たちだから、彼らの日常自体がすでに波乱万丈で、「コードブレーカー」では、中国でこの技術を使ったデザインベビーが生まれたり、コロナ・パンデミックが起きたり、なにより最後にはダウドナがノーベル賞を取ってしまったりした。

この二重構造はこのイーロン・マスクでも遺憾なく発揮されていて、後半のハイライトはツイッター(現X(エックス))の買収とそのリストラの話だろう。そしてこの本で一般化した言葉が、イーロン・マスクがときどき陥るという「悪魔モード」だろうね。

イーロン・マスクは、本人が認めるように共感性に乏しいアスペルガーであり、子供時代は父親から虐待的な扱いを受け、友達を作るのが苦手なのに寂しがり屋で自分の周りに家族を常に置きたがり、たくさんの女性に子供を作らせて自分の周りに置いている。ただし女性については、関係をつくるとほぼ放ったらかしで、関係をメンテナンスすることもあまりないようだ。すぐに離婚となるのはそのせいだが、不思議なことに関係が完全に切れることもない(たぶん子供のおかげ)。

親族にリスクを偏好する人たちが多数いて、マスクのリスク好きは遺伝のせいでもある。ゲーム好きで、プログラムのコーディングもゲームがやりたかったかららしくて、プログラミングを覚えると、自分でもゲームを作っている。ゲームは戦略的なゲームが好みで、システムの中でどのようにすれば高得点を取れるかを集中的にやり込むことで獲得し、すぐに達人の域に達してしまう。

そして、実際のビジネスでもまったくゲームと同じように取り組んでいて、集中的にやり込むというモードを次々に繰り出して(アイザックソンはシュラバと呼んでいる)、短期間に成果をあげることを繰り返している。生きていくために、このようなリスクを取る超ストレス状態が常に必要で、何かをやり遂げると次の目標を無理矢理にでも作り出してしまう。障害があっても、物理的な第一原理に反しなければ、すべて無視する。とくに人間が作った規則は無視しがちである。

こういったマスクの特徴だが、わしがいちばん興味を持ったのは、マスクが取り組んでいるのが「製造業」だということだな。お金を稼ぐだけなら、他のテック会社のように、情報だけを扱っても良かった。実際、最初にお金を稼いだのは、情報システムの構築だったのだから。GAFAMのなかで一番マスクに近いのはアップルだろうけど、アップルはデザインだけで自社工場で製造しているわけではない。でも、マスクは実際にロケットを製造しているし、EVも自分で作ることにこだわっている。

それは単純に、他に外注して作れるものなど扱っていない、ということもあるのだろうけど、やっぱり世の中を変えていくのは情報だけでなく、実物なのだということを信じているんだろうなあ、と思う。だから、情報しか扱っていないツイッターを買ったけど、なんとなくつまらなさそうだ。

工場に住み込んでいろいろ改善していくのが好きで、そんなマスクを見ていると、なんかスズキ自動車の鈴木修氏を思い出す。マスクの得意技は余計なものを省くということで、製品でも工場でもなにか省けないかといつも目を凝らしている。省きすぎて失敗して、少し戻すくらいがちょうどいいんだそうだ。鈴木修氏も余分なものを省く名人で、「重力はただ」が合言葉だけど(物の動かすときには動力を使わずに重力の落差を使って動かせという意味)、マスクはITもAIも理解している新時代の製造業者だなあ、と思う。

マスクは材料の種類も省いて、特殊な材料を使うのを嫌って普通のステンレスを愛用しているという。ロケットもそうだし、自動車もそうしてしまった。

省く、の中には人ももちろん入っていて、ツイッターを買ったときも、人が多すぎると言って、社員数を4分の1以下にしてしまった。でもツイッター(現X)は今もつつがなく動いていて、マスクの見立てが正しいことを証明している。少数精鋭が好きで、しかもその少数も中身を変えることに躊躇しない。

マスクの写真がたくさん載っているけど、ブヨブヨに太ったり、逆にダイエットして痩せてすっとしたりしていて、なんだか健康状態が不安だな。超ストレス状態に身をおかないと生きていけないようだけど、こんな調子ではなんかあまり長生きしないような気もする。長生きしたら長生きしたで、父親のエロールのように、妄想と陰謀論にとりつかれるような気もするなあ。

なんとも危なっかしい人だけど、人類からアスペルガーが進化論的になくならないのは、アスペルガーが人類の役に立つからなんだろうね。なにより、マスクが人類文明的な視点から考えるアスペルガーだったのは、幸いでした。

★★★★☆

日本企業はなぜ「強み」を捨てるのか 増補改訂版『日本”式”経営の逆襲』

岩尾俊兵 光文社 2023.10.30
読書日:2024.3.4

日本発の経営戦略がアメリカ経由で逆輸入され、もともと持っていた経営戦略を日本企業が捨てている現状を憂え、日本自身が世界に広めなければいけないと主張する本。

日本で流行っているアメリカ由来の経営戦略には、もともと日本発のものがたくさんあるんだそうだ。なのに、日本人自身がそれに気が付かずにありがたがっている状況だという。

たとえば次のようなものだ。

(1)両利きの経営:既存のビジネスでしっかり稼ぎながら、新分野の探索を行う経営。
提唱者のオイラリー教授とタッシュマン教授は、両利きの経営の典型例は「トヨタ生産方式」だと述べている。(ただし有名になってからはそんなことはまったく言っていない)。

(2)オープン・イノベーション:自社の技術を提供するかわりに、自社以外の技術の提供を受け、イノベーションを加速すること。
提唱者のチェスブロウ教授は、日本は早くからオープン・イノベーションを展開していたと紹介。日本企業が下請けを巻き込んで、企業の垣根を越えて協調して技術開発を行うことを指している。

(3)ユーザー・イノベーション/フリー・イノベーションイノベーションにユーザーや無関係な一般人を巻き込んで、その発想や知識を取り入れて開発を行うこと。
提唱者のヒッペル教授は、生産設備のユーザーである日本企業の従業員が改善の知恵を出している、QCサークル活動を参照している。

(4)リーン・スタートアップ/リーン思考:不完全でも取り得ずプロトタイプを作ってみてすぐに改善する、というプロセスを高速に回転させること。
著書内で源流は「トヨタ生産方式」だと何度も言及。

というわけで、オリジナルは日本なのに、なぜかアメリカがそれを商品化してコンサルタントとして大儲け(売上数兆円)をしている状況で、岩尾さんとしてはじくじたるものがあるようだ。しかも買っているのは、日本企業なのである。

なぜそんな事が起きるのだろうか。

アメリカは抽象化、一般化、コンセプト化に優れている。一方、日本は特定の個人や組織の文脈に依存しており、そのままでは外に持ち出せないものになっているという。さらには、日本企業は自分たちの経営技術を信じる力で負けているのだという。

この結果、「カイゼン」という明らかに日本発のものまでが、アメリカで商品化されて、世界を席巻しつつあるのだそうだ。

こんなことではいけないと、岩尾さんは、日本の経営技術をいかに抽象化するか、ということを検討している。抽象化というのは、簡単に言えば、科学的な装いを施すことである。なので、どのようなカイゼンのタイプだとどのような効果があるかというのをシミュレーションを用いて抽象化する研究をして、発表したりしている。

なるほどねえ。

まあ、言いたいことはよく分かるけど、それならアメリカのコンサルタント会社を買収したり出資したりすればいいのではないかしら。お互いの得意分野で協力すればいいだけのことで、日本だけで全部やろうとしなくてもいいのでは?

★★★★☆

同志少女よ、敵を撃て

逢坂冬馬 早川書房 2021.11.25
読書日:2024.2.21

(ネタバレあり。注意)

第2次世界大戦、モスクワ近くのイワノフスカヤ村にドイツ軍が現れ、村人が虐殺される。一人、生き残った少女セラフィマは、もと女性狙撃兵イリーナに導かれ、狙撃兵として訓練を積み、ドイツ軍への復讐を誓うのだが……。

2021年アガサ・クリスティ賞受賞作であり、2022年本屋大賞受賞作である。あんまり小説は読まないわしではあるが、まあ、読んでみようかな、という気になり、遅ればせながら手にとってみた次第。

ところで、第2次世界大戦の独ソ戦に参戦した女性兵士の話となると、どうしてもスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが元女性兵士にインタビューした「戦争は女の顔をしていない」を思い浮かべてしまう。わしは読んでいないけど、NHK−Eテレの「100分で名著」で取り上げられたから概要は知っている。そこでは、戦争から帰った元女性兵士たちが、村人から差別を受けるという理不尽な様子も描かれている。(戦場で男とやりまくったんだろう、などと言われる)。そこまで書かれるのだろうか、というのが読む前からの疑問だった。

さて、結論を言うと、お話の冒頭、故郷の村は主人公以外、全員虐殺されるわけで、故郷に帰っても彼女を非難する村人はいないのである(笑)。なーるほど、これなら戦後の面倒くさい状況は説明しなくてもいいわけだ。(どうせつまんない話になるし)。というわけで、物語の最初の段階で問題はクリアだ。

さらにネタバレをすると、主人公のセラフィマと女性上官イリーナは最後には恋人同士になってしまうので、男とやりまくったんだろう、なんて非難はされるはずがない。さらにスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ本人が小説に出てきて、セラフィマに戦争の話をインタビューさせてほしいと連絡が入る、ということになっている。そういうわけで、この本は最近流行りの百合もフェミニズムもいれているわけで、なかなか状況を逆手に取って流行りを入れているなあ、と感心した。(当然、最後の参考文献には「戦争は女の顔をしていない」が入ってました。)

お話自体はとても面白かった。

行ったこともない歴史上のソ連の様子を文献情報と想像力だけで描くのことには、まあ、小説家の基本技能のひとつかもしれませんが、やっぱり感心します。

訓練の様子、スターリングラード、クルクス、ケーニヒスベルクの攻防とか、狙撃兵が一般兵士に嫌われていて、さらにそれが女性だと嫌悪が倍加するとか、撃つ瞬間、心が無になる様子とか、まるで見てきたように状況が目に浮かびます。

少女同士の関係も、天才的な狙撃手アヤが初戦であっさり死んでしまうとか、仲間と思わせて実は監視していたオリガは憎まれ役だけど、最後に主人公を助けて死んでしまうとか、ありがちかな展開かも知れませんが、とても良くできています。

最初のイワノフスカヤ村で母親を狙撃したドイツ兵が天才的な狙撃手ハンス・イェーガーだと分かり、ケーニヒスベルクのラスト付近で対決します。このラスト部分、やりすぎと言っていいくらい衝撃的な展開がつぎつぎ待っているのですが、まあ、現代ではこのくらいの展開がなければだめなんでしょうね。もっと静かな展開のほうが現実感はあると思うのですが。

この辺はほとんど許容範囲なのですが、でもちょっと一箇所だけ違和感があるところがありました。

ケーニヒスベルクでハンス・イェーガーの行動パターンの情報を手に入れたセラフィマは、ひとり対決に行くのですが、実は狩ってるつもりで実は自分が狩られていると気がつきます。そこで彼女は、捕虜になる寸前にとっさにある行動を取ります。次の展開では、セラフィマは拷問にあっており、机に左手を釘で打たれています。でも、じつはセラフィマの取った行動というのが、自分の左手に麻酔を打つことだったので、この拷問は効いていないのです。

このシーンだけちょっとあり得ないなあ、と思いました。だって、左手に拷問が行われることをセラフィマは予期していたことになりますが、そんなの誰にも分かりようがないんじゃないですかねえ。拷問は他の部位にもいくらでもできますからねえ。麻酔薬を持っていることは、その前のシーンで自分を警備していた兵士を眠らせるのに使ったから、理解できるけど。

わしが良くないなあ、と思ったところはここだけで、その他の部分は全部良かったです。なぜかセラフィマは偉い人と直接会うというようなことができてしまうのですが(上級大将のジェーコフ、伝説の女性狙撃手リュドミラなど)、そのくらいは、まあいいです。

逢坂冬馬さんは、これからたくさんの小説を書いてくれそうですね。なんか小説を書くのが天性の人のような気がするので、長く続けてくれるでしょう。残念ながら、わしはほとんど読まないと思いますが、ぜひ頑張っていただきたいです。

(おまけ)

この本を読んだ後、気になって、ジャン=ジャック・アノー監督の映画「スターリングラード」を見た。実在の狙撃手バシリ・ザイツェフを主人公にしている。冒頭のスターリングラードの戦闘シーンは必見。よくこんなの撮れたなあ。

★★★★★

再び窓の世界へ



わしはあまりウィンドウズが好きではない。とはいっても、マックはもっと性に合わない。わしは垂直統合がそもそも嫌いなのだ。それならウィンドウズのほうがまだまし。そして、わしはCPUをぶん回すよりも、非力なCPUでサクサク動くことを喜ぶタイプなのだ。

そんなわしが数年前に3万円のChromebookを買った。このマシン、acer製だが、なんとCPUは格安スマホに使われているようなものだった。しかもタッチパネル機能付き。つまり、ざっくりキーボード付きアンドロイドタブレットのようなものだったのである。

しかしながら、大変サクサクよく動く。わしはすぐに気に入ってしまった。それにわしはグーグルの環境やアプリをがんがん使っているから、相性が悪いはずがない。この文章だってGoogleドキュメントで書いているのだ。

だが、買うときには気が付かなかったが、このマシン、OSは確かにChromeOSだったけど、OSのビット数を見て驚いた。なんと32ビットだったのである。

32ビット! いまどき32ビットOSのパソコンが存在しているなんて!

Chromebookは、ブラウザに当然Chromeブラウザを使う前提なのだが、OSが32ビットだから、Chromeブラウザももちろん32ビットバージョンなのである。時々、「これは最新のChromeではありません。アップデートしてください」と表示されるが、そもそも64ビットバージョンをインストールできないのだから無視するしかない。

しかしまあ、買った当初は、32ビットでも別に問題なかったのである。すべての作業は32ビットでも問題なくできた。

しかし、これがだんだん問題になってくるのである。

徐々に、64ビットじゃないと正常に動いてくれないサイトが出てきたのである。わしの場合、Chromebookの一番の使い道は、このサイトの維持管理である。ところが、ついに、32ビットのブラウザでは、「はてな」の管理画面に入れなくなった。これはとても困る。

はてな」に問い合わせたが、「そのOSには対応していません」と言われて、おしまいだった。まあ、そうでしょう。

それで仕方なく、ほぼ使われていなかったウィンドウズマシンを引っ張り出したが、なんとも使いにくいなあ、という感じである。仕事ではもちろんウィンドウズを使っていて、別になんの不満もないのだが、自分の個人的な作業をウィンドウズで行うと、とてもいらいらする。Chromebookのレスポンスの良さになれると、ウィンドウズはどこかワンテンポ遅く感じる。タッチパネルでないところもイライラする。

まあ、きっとそのうち慣れるんでしょうけど、64ビットのChromebookを買おうかなあ、という気もしている今日このごろなのでした。

ちなみに、頻繁に自動アップデートされるというのが特徴のChromebookですが、32ビット版はこの3年間、買った直後に一度アップデートがあっただけで、その後まったくありません。

グーグル、ぜんぜんケアしてないじゃん。しょうがないなあ。なんとか自動アップデートで64ビットにしてくれないかなあ。

日本はデジタル封建制を楽に乗り越えられると信じる理由

新しい封建制がやってくる」では、超富裕層と有識者のエリート階級とそれ以外のデジタル農奴との階級が固定化して、「デジタル封建制」とか「ハイテク中世(by堺屋太一)」の時代が来るという。自由と民主主義を愛する人たちにとってはとんでもない事態で、危機感を抱くのはとても理解できる。

だが、この本を読んで、これだったら日本は大丈夫なんじゃないか、というよりも日本こそ次の時代のライフスタイルをリードするんじゃないか、という気がしてきたのである。

なにより、この本の著者自身が、最後にこう言っているのである。

「日本は、たとえ経済の成長が止まっても、その代わりに精神的なものや生活の質の問題に関心を向けられる高所得国のモデルになると考える学者もいる。日本は将来世界を征服するようなことはないであろうが、高齢化が急速に進む一方で快適な暮らしが遅れる、アジアにおけるスイスのような存在になりうると考える専門家もいる。」

いや、まったく、そうじゃないんですかね。

では、わしが日本は大丈夫だと思う理由をあげていこう。

(1)江戸時代、江戸市民は楽しく暮らしていた

直近の日本の封建制といえば、江戸時代ということになる。

江戸市民の暮らしはどうだったのだろうか。これについては多くの記録が残されており、江戸のほとんどの市民は豊かでなかったかもしれないが、それなりに楽しく暮らしていた。このことには異論はないだろう。

江戸という都市は、市民は小さな住居に押し込められていて、自分の家を所有している人はあまりいなかった。しかも未婚率が非常に高く、生涯独身という人が多かった。つまり、コトキンが描く暗い未来ということになるのだけれど、別に江戸の市民が悲観的に暮らしていたということはまったくない。市民はそれぞれに楽しみを見つけて、日々暮らしていたのである。

毎日の生活も、今の現代人では考えられないくらいに、仕事の量が少なかった。日中の半分くらい働いて、午後の早くにはもう仕事をしていなかった。(もちろん業種によるけれど)。

(2)農民も楽しく暮らしていた

江戸は大都市だから市民は楽しく暮らせた、しかしその陰で大多数の農民は税金を搾り取られて、自由のない辛い生活を強いられていた、などと考えるかもしれない。だが、それは間違いである。

ときの為政者は侍だったが、基本的に農民に関しては放ったらかしだった。住民台帳すらとっていなかった。(台帳はあったが、農民自身が管理していた)。自分たちのことは自分でせよ、ということで、農村は庄屋を中心に自治を行っていた。そして農村は意外にも豊かだった。

農村が豊かだったのは税金が低かったからである。江戸時代の最初に村ごとに納める税金が決まると、江戸時代のあいだ、変わらなかった。一方で新田や高額換金商品がどんどん開拓されたので、実質的な税率は低く、10%以下というところもあった。

農民は働き通しというのも間違いである。多くの農村では働かない休みの期間を設けていた。年間30日〜60日の休みがあった。

移動の自由もあった。というか、勝手に移動していた。農民が村ごといなくなったという話がある。家族で何年かごとにあちこちに移動したという話もある。(たぶん侍たちは気が付かなかっただろう)。

では、こうした状況で農民は何をしていたのだろうか。

基本的には遊んでいたのである。

祭りやスポーツなどのイベントは盛りだくさんで、きっと地域のヒーロー、ヒロインはたくさんいたに違いない。芸事などに励む人も多かった。旅行も、お伊勢参りとか、いろいろやっている。

参考:貧農史観を見直す

www.hetareyan.com

(3)日本人の基本思想はやり過ごすこと

欧米の哲学者は、自由とか平等とか、人間や社会の根本的な部分に思いを馳せるのかもしれないが、日本人はまずそんなことはしない。なぜなのだろうか。

ヨーロッパでは一番怖いのは人間自身、という発想になると思う。なにしろ、民族皆殺しの歴史が普通にあり、人が何10万人も死ぬという事件は人間が起こしている。アメリカでも人間が一番死んだのは南北戦争だろう。中国も何100万人も殺している。

このような状況では、人間とは何かについて考え、道徳や倫理、さらには政治体制を構築することでなんとかしようと考えるだろう。

でも日本で一番人が死ぬのは、人間が起こしたものではなく、地震などの災害である。地震とは人間にはどうしようもないことである。ここで人ができることは、なんとか厳しい状況をやり過ごすことだけである。

さらに、日本では政治的、社会的なひずみが溜まっている場合、地震などの災害を契機にガラッと変わってしまうことがある。人間が変えるのではなく、まるで自然の脅威が社会を変えていくように見えてしまう。安政の大地震関東大震災が日本の歴史を変えたと養老先生が言っているとおりである。

そうなると、社会が変わるのは、人間がなんとかするような問題ではないのである。自然現象のようなものである。自然現象の一部だとすると、それに対処する基本方針はやり過ごすことである。変える必要はない。無理に変えなくても、社会はどうせ自然に変わっていくものなのである。だからそれをやり過ごすことが大切だ。

だから日本人は社会を変えようとするのではなく、勝手に変わっていく社会に適応しようとする。日本で侮辱的な言葉は、「間違っている」ではない。「遅れている」「古い」である。社会の変化に適応できないことをなじる。

このようなわけであるから、日本では新しい封建制が起こってもスムーズに適応するだろう。

なお、同じ理由で、日本では天皇制も憲法も永遠に変わらない。変えるということは原理から考えるということを意味している。日本人はそんなことはしない。そんなことをしなくても、勝手に変わっていくからだ。形式的には変わっていなくても、運用が変わり、実質的に変わっていくが、それを不思議と思わない。

さらに同じ理由で、戦争も反省しない。戦争を起こしたことも敗戦も原爆も特別大きな災害の一種だと思っている。日本沈没みたいな? 原爆はゴジラという荒ぶる神ということで納得している。自分は被害者として認識していて加害者とは思っていない。

参考:日本の歪み

www.hetareyan.com

(4)日本人は基本、享楽的

江戸時代の状況を読んでも、ほとんどの人は違和感を覚えないだろう。今の日本人、そのままだから(笑)。

今の日本人も、超富裕層かどうかに関係なく、自分のできる範囲で享楽的に生きていると思う。自分が生きている間、なんとかやり過ごして生きていければ幸せだ。

日本人はある程度の収入があれば、遊んで暮らせる人たちである。1億人がなにかにはまって生きていくならば、それは膨大な多様性が確保されているということである。そんな多様性があれば、世界に売っていくものは何かしらあるだろう。これからは日本は文化を売っていくのだから。

したがって、新しい封建制は日本人にとっては江戸時代に戻るだけのことで、それはそんなに悪いことではない。江戸時代に比べれば、まだ働きすぎのように思うので、ぜひもっと休みを取って遊んでもらいたい。お金がなければ、お金を使わない遊びをしてほしい。時間があればなんとかなる。

そして、政府にはベーシックインカム的な施策をどんどん進めて、遊ぶ不安を減らしてほしい。著者のコトキンは国家への依存を増やすことに反対のようだが、わしは別に構わないと思っている。すでに日本人は、健康保険と年金でどっぷり国家への依存を深めている。これをさらに進めてなにか問題があるのだろうか。何かあっても生きていけると思えれば、日本人の自殺も減るのではないか。

もう一度確認しよう。これからは日本人が遊ぶことそのものが日本の売りになる。日本はこれからは(これからも?)「文化」を売っていくのである。大いに遊ぼう。

(個人的にはもっとサイエンス、テクノロジーの分野で遊んでいただきたいです。科学こそが最高のエンタメだと信じています。国家支援、よろしくお願いいたします! そんなにたくさんでなくていいから、自由に使えるお金を研究者に配ってください)。

参考:中村元選集〈第3巻〉/東洋人の思惟方法〈3〉日本人の思惟方法

www.hetareyan.com

にほんブログ村 投資ブログへ
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ