それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

通学路の危険

2021-07-11 00:56:18 | 教育



 先頃、千葉県八街市で、下校中の小学生の列にトラックが突っ込み,二人が死亡、一人が重体、二人が重傷という悲惨な事故があった。
 
 現場は、「見通しの良い直線道路」だという。この常套句は,どういう言う意味で使用されているのか。恐らく,「見通しの良い直線道路」「なのに」というつもりであろう。しかし、実際は、「見通しの良い直線道路」「だから」危険なのである。しかもこの道路には「歩道」がない。写真で見る限り、車道の端を示す白線すらない。恐るべき危険な道路である。

 責められるべきは、まずトラックの運転手であることはいうまでもない。しかも飲酒していたというから論外である。酩酊した仕事帰りの人間が、歩道のない真っ直ぐな走路を相当なスピードで疾走するなど、想像するだに恐ろしい。

 一方で、歩道もない(当然ガードレールもない)道路が、なぜ通学路になっているのか不思議である。報道では、ガードレールの設置を要望したが実現しなかったという。要望したが応じてくれなかった危険な道路を、そのまま通学路に指定していた学校の行為も理解しがたい。常識のレベルでの想像力の欠如である。

 歩道もガードレールもない道路の恐怖を知るためには、そのような道路を歩いてみればよい。簡単なことである。手を伸ばせば触れるほどのところを高速で走るトラックや乗用車に恐怖を覚えない鈍感な人間はいないはずである。

  日本の道路には、歩道のみならず、自転車、バイクの専用レーンのないものが多い。交通安全を呼びかけながら欠陥ないし不完全道路を放置しているのは筋が通らない。しかしそれがわが国の現状であるのなら、命を守るためには、距離は遠くなっても、より安全な道路を利用するしか方法はない。通学路などは,その代表である。

 思えば「車」とは恐ろしいものである。あの大きな金属の塊を、壊れ物である人間が操作するのである。運転中に意識を失う,居眠りする、道路を逆走する、速度超過をする,ペダルの操作を誤る、脇見をする等、誰でも犯しがちなことである。ちょっとしたミスが歩行者をはじめ,他の人にとり返しのつかない悲劇をもたらす。そういう危険可能性をもつものから実を守るためには、歩行者にのみ注意をうながすことでは不十分である。上記の道路の構造の改善などは急ぎ解決しなくてはならないことの一つであるが、さらに,運転者にも意識改革を求めたい。横断歩道で、歩行者優先ができない運転者を目撃することは珍しいことではない法定速度など気にしない運転者は,更に珍しくない。パリでは、市内全域が時速30キロ制限になるという。実態は、現状でも渋滞で、10キロ台でしか走行できないそうだから,画期的な措置とも思えないが、歩行者、交通弱者は、いくらか安心が増す。交通安全の実現は、歩行者、道路管理者、運転者、自動車生産者が、あらゆる角度から、可能な限りの努力をするしかない。


政治家と言葉

2021-06-08 18:12:27 | 教育

 最近のテレビ番組のうちで視聴の価値ありと判断できるものはごく稀である。

 その中で,最も魅力のないのは,国会中継、委員会中継ではなかろうか。政治は言葉と言われることもある。政治家にとって言葉による主張、説得は生命線である。これは,言葉巧みな人間(巧言令色の人間)を推奨する意味ではない。言葉は人間の本質の反映である。覆い隠しようのない人間の質の証明書のようなものである。

 私が視聴した,国会中継では、首相がコロナと五輪実施の関係を質問されて,答えにならない発言を繰り返していた。国民の安心安全を、「しっかり」確保しつつ、五輪は行うという抽象論である。安心安全と五輪の関係(どうすれば両者が可能になるのか)が一向に具体的にならない。翌日のネットニュースでは、この答弁を12回繰り返したと報じている。課題解決の姿勢は皆無である。学術会議会員の任命拒否の理由の中で使用された「総合的、俯瞰的観点」が完全に欠落している。

 この問題に関しては,質問者、特に野党議員の質問も悪い。質問者が替わっても,質問は全く同じであった。首相にしてみれば,同じ質問12回に、同じ答えを12回繰り返したということになるのであろう。

  議長にも問題がある。議長は大相撲の「呼び出し」ではない。不毛な質問や答弁がつづくなら注意、叱責をすべきである。小学校の学級会で、この種のやりとりが行われるなら教師は、「真面目に話し合いなさい」と注意するはずである。18歳の有権者たちは, こんな議員に国の舵取りを任せて良いのかと、絶望的になるのではなかろうか。国民に,特に若い世代に国会中継を見せることには慎重でありたい。

 政治家に限らず、日本人の言葉のやりとり,特に話し言葉によるそれは,決して上手とは言えないが、その一つの例は,スポーツ選手へのインタビューの稚拙さに見ることができる。野球や相撲におけるインタビューで問いかける言葉は、ほぼすべて、「……のお気持ちは?」である。問われる方は,同じ問いに対して幾度も同種の答えを,真面目な選手は多少ニュアンスを変えて答え,最後には選択に窮して「最高でーす!」と叫んで終わりにすることになる。私の贔屓チームのある捕手は、「今日は、一番の最高です」という名言を残した。こういう気楽な会見なら、選手生命を賭して会見拒否を表明することもなかったろうにと,テニスのO選手のことを思い浮かべている。

  私たちの日常は,言葉によって維持されているところが大きい。特に話し言葉に拠るところ大である。建設的な対話,会話っを実現するためにはどうすればよいのかを考える手がかりを政治家や記憶力の減衰した官僚たちが、豊富に提供してくれていると考えて活用しよう。


国政選挙に関わる「?」-追加

2021-05-30 23:21:44 | 教育

 丸亀市長選で当選した新市長は、選挙公約として市民全員に10万円を支給することを公約にしていた。ところが当選後、現段階では市から給付できるのは5万円であるとして減額した給付金のための補正予算案を発表したという。

 財源は「ボートレース」だが,もくろみが外れたのと、将来の市への影響を考えた上での金額決定だという。市民の受け止め方は様々なようであるが、支給は8月を目指すという。

  さて、問題はどこにあるのだろうか。

 先頃、失脚した国会議員夫妻の「私の妻に票が集まるように尽力して下さい。」と言って,こっそり数万円を渡したのと、「私を市長にしてくれたら10万円あげる。」ということとの間にどれほどの違いがあるというのだろうか。利益供与の実行と事前約束というささやかな相違でしかない。思い切って「30万円!」とでも言っておけば楽勝だったかもしれない。

  先日の国政選挙である「再選挙」について,選挙区の住民として、随分恥ずかしい思いをしたが、ネットニュースの報じる丸亀市民の「……7万円なら納得するのに。」という趣旨の反応も随分恥ずかしい。


国政選挙に関わる「?」

2021-04-30 23:56:10 | 教育

 何とも恥ずかしい参議院議員再選挙の投票を済ませた。今回だけではないが,選挙に関するいくつかの疑問点を書き記しておきたい。

1 立候補者の扱いは公平か?
 今回の再選挙には6名の立候補があった。同じスタートラインに立った6名であり、選挙人には大した情報は与えられず、選挙公報も配布されないうちに、新聞、テレビを通して、「実質的にA氏とB氏の一騎打ち」等の余計な情報が飛び込んでくる。各候補者の選挙活動の報道時間も不公平であるこれは、いわば、A氏、B氏以外で「その他」扱いをされた候補者のポスターを剥がす行為と同じであり,公選法違反と見るべきではなかろうか。選挙人の判断力を軽視したメディアによる傲慢な誘導行為である。候補者も意義異義申し立てをすべきである。
  
2 投票時の「本人確認」は不要か?
  郵便で配達された入場券をもって投票所に行く。このところ期日前投票に行くことにしているのだが、投票日当日も同じであろう。受付で,投票用紙取得のための手続きを開始し,用紙を渡されるまでに2,3人の事務担当者が関与するが,その間,一度として,入場券に記載された人名と,目の前で投票用紙の取得をしようとしている者が同一人物かどうかの確認はない。他人の入場券を使用して不正な投票をすることなど,いとも簡単なことである。先日問題になった,愛知県知事のリコール署名の不正問題で不正の内容が部分的にであれ明らかになったが,期日前投票で不正な代理人投票が行われたら実態解明は、ほぼ不可能であろう。

3 低投票率でも問題はないのか?
  参院広島選挙区再選挙投票率は、33パーセント台であった。この低投票率をどう考えればよいのか。実に,有権者の3人に一人しか投票していないのである。国会の定足数は,以下の通りとされている。
 両議院の本会議の定足数は『各々その総議員の三分の一』とされている(憲法56条1項)。
 国会の本会議の定足数と奇妙に符合する数字である。が3人に一人しか投票しない選挙で、さらに50パーセントほどの票を獲得すれば国民の代表として国会議員になれるという仕組みはあまりに基準が緩すぎないか。せめて過半数とすべきで,これに満たない場合は「不成立・再選挙」とすべきではなかろうか。そもそも、かくも低率になった原因を考え、政治家、国民ともに、深く反省する必要がある。何度選挙をしても低率というのなら、国は破綻しているのである。


「読むこと(読書)」とは「創ること」

2021-04-25 00:12:57 | 教育

 文章や作品を書くことは「創造的行為」であり、文章・作品を読むことは「受動的行為」であると、常識的には考えられている。しかし、果たして、そう断言していいのかどうか。
 
 引退以来、一日の大半の時間を読むこと(読書)に宛てている身としては、読書=受動的行為という常識的な考えには違和感がある。以下、違和感が生じる所以を説明していきたい。

 私は、毎日、眠りに就くまでの時間、ベッドで横になって読書を楽しみ、うとうとしながら、いつの間にか眠り込んでしまうのが習慣になっている。枕元には常に、ジャンルを問わず、読みかけの数冊の本が置いてある。

 時に、眠りに落ち込みそうになりつつ、ふと覚醒することがある。この夢うつつの出来事が奇妙である。例えば、ある小説を読んでいて眠りに落ちる寸前に覚醒し、さてどこまで読んだのかと確認しようとしてみると、読んだはずの叙述が見つからない。どうやらテキストとは別の世界を勝手に創り上げていたようなのである。時には数ページにも及ぶ規模になる。このような現象は、まれなことではない。むしろ自覚しない場合も、常に生じていることなのではないかと考えている。この現象は、ジャンルを問わず生起するが、文学作品の場合が分かりやすいようである。

  無論、他人である書き手による書物を読んでいるのであるから、自分自身の執筆活動とは性格の異なる創造活動である。いわば、他者による情報やイメージ、意味づけ等を手がかり、素材にしつつ、読み手自身の既有知識や経験、認識、価値観等を駆使しつつ、自分の作品を紡いでいるのではないかと思い至ったのである。似たようなことは、既に、本ブログの「ステイホームと読書」でも書いており、そこでは、穏やかに、読みとは、書き手と読み手の「双方向的行為」であるとしている。今回は、さらに読み手の内部に入り込んでみよう。

 物の見方・感じ方、生活経験、知識、読みのスキルといった読書という創造活動を実現する要件の点で、同じ人間は存在しない。つまり読者の数ほど個性的、特徴的な活動が存在するのであり、それらが創造的活動であり、自分自身の世界を構築する創造活動という観点からすれば、読み手の数ほど多様、多レベルな活動が存在するのである。このことを検討する手がかりとして、一つのエピソードを取り上げておこう。

 もう50年も前のことになるが、私が大学院生のとき、アメリカの現職教員の団体が、夏期研修のために大阪に来ることがあり、大阪の大学に勤める先輩のお世話で、私もその研修会に参加することができた。10日間ばかりの交流によって、日米間の国語科教育に関する考え方や実践の違いを学ぶことができたが、そのうちの一つが、次のことであった。  

 ある小学校で文学教材の授業を観察していた。わが国の典型的な授業で、教師による発問について全児童が取り組んでいた。教師も児童も真剣にと入り組み、いわゆるよい授業のひとつであった。授業の最中に、隣席の女性教師が小さな声で囁いた。
 「どうして、すべての児童が、同じ発問について取り組んでいるの?」
 意表を突かれた私は、とっさに質問を返した。
 「アメリカでは、どういう授業をしているんですか?」
  帰ってきた答えは、以下の通り。
 「アメリカで,私はこういう授業はしない。教室内を動き回って、個々の児童や小グル ープの指導をします。」

  いろいろな児童が混在する教室の中で、個々の児童や小グループの児童に対応するのはほとんど不可能に近い、大変なことである。一斉授業は問題克服のためのひとつのちえではあろうが、読書という個別的、個人的創造活動に照らして考えれば、外国人教師が抱く疑問は無理からぬものであったろう。

 「叙述に即して正確に読む」(読解)活動を、教師の提示する「発問」を手がかりに進めていくためには、児童の個性や主体的、個人的反応はひとまず措いて、読みの対象たる文章・作品の客観的価値の尊重に傾かざるを得ない。学習者全員が、一斉に、同じものを目指して彼岸に渡り、彼岸に置かれた輝ける「主題や要旨」にたどり着くという、不自然な読みが普及することになった。これは、読み手の個性を尊重するという難題を回避して、指導の画一化、合理化を目指すという、いわば、教師の都合による読みの性格付けである。公教育の目標と内容を示す『学習指導要領』には、さすがに「読解」に対する「読書」の尊重、生きる力の尊重など、実の場における言語活動を視野に入れる気配を見せることはあっても、教育の根幹を揺さぶるような構造になってはいない。
                                 
  読書をするとは、思考力、想像力、知識、経験、読みのスキル等、読み手、学習者という人間を形成しているすべてをかけて、読みの対象たる文章や作品に触発され、同意したり、反発したり、作品を超えて想像したり、自ら意味づけしたり……、要するに自分自身の作品世界を構築することなのである.目の前に提示された物を一方的に受容する行為などではない。少なくとも教材として選定された物を読むということは,受容のみの行為であってよいはずはない。このことを再確認しておこう。

 読み手にとっての創造的で意味のある行為は,学習指導という観点からは,なんとやっかいな存在であろう。一人一人異なる特性、個性を有する学習者という人間を、それぞれの事情に即して認め、鼓舞し、叱咤しつつ,創造活動を開始させ、彼ら自身の作品構築に至る道筋をつけなくてはならないのである。ややもすると,指導の合理化のために、楽しく,創造的かつ多様であるはずの行為を制限したりすることになる。読書好きの人間が学校の国語の時間によって,読書嫌いになる、教室での読みの授業に違和感を覚えて読むことに消極的になるということは珍しいことではない。こうなると、これまでのような一斉指導の方法で、創造的、個性的行為である読書の指導は可能であるのかという根本的な疑問に行き当たる。

  読むこと(読書)の多様性と個性について国語教育の実践者による理解の努力がなかったわけではない。読みの過程における反応の把握に取り組み、児童が読みの過程でどのような反応をするかを克明に書き込ませる授業の記録もある。しかし、これらの反応は、共通の学習課題に集酌され,反応の個別性や全体性は失われていく。意欲的で有能な教師にとっても,読書指導とは至難の仕事なのである。しかし、至難ではあっても「読書の指導」を目指すのなら,読者の個々の内面に踏み込み,個々の読み手が読みの対象の提供する手がかりに触発されたり,時に反発さえしたりしつつ独自の作品を創りあげる姿を見守り、造り上げた結果を鑑賞,評価することに取り組まなくてはならない。これは「読解指導」という正確な読みのためのスキルの指導とは別種の仕事である。『学習指導要領』からいつのまにか読書の気配が希薄になったのは,読書なる行為の特性が取り扱い困難なものであることを認めざるを得なかったためであろう。このような状況下にあっては,学習者は個性的な「感想文」など書けはしない。原稿用紙の最低枚数を指定され,悩んだあげくに、感想でもなんでもない「読んだ本の粗筋、概要」を書いてしまうのであり、なんとか感想らしいものを書いた文章は,指導者が,教室で教えてもいない感想文に仕立て上げて,本来の書き手である子どもをびっくりさせることになるのである。

  このように考えてくると、読書の指導の難しさなどに悩まされることなく,自由自在に自分の世界構築できる読書を楽しんでいる今の自分がいかに幸せであるのかに思い至ることになる。