日本最大の遊廓は”お風呂屋さん”の街/カフェーストリート/永井荷風が入りたかった投げ込み寺
☆遊廓から続く色街の命脈はそのまま受け継いでいます
「吉原」―その名を聞くと、真っ先に思い浮かぶイメージといえば、「日本最大の"特殊なお風呂屋さん"が集まる街」。
確かに間違ってはいない。
しかし、その歴史は意外に古く、江戸時代に遡る。
徳川家康が江戸に幕府を開いて間もなくの元和4年(1618年)、現在の日本橋人形町に遊女屋を構えたのが始まり。
もともと葦が生い茂る湿地帯だった場所から当初は「葦(葭)原」と称していたが、「悪(あ)し」につながるからということでやがて「吉原」と改められ、遊女のいる廓ということで「吉原遊廓」というわけだ。
しかし、明暦の大火を契機に遊廓は現在の場所に移転、以後、戦前から戦後と350年もの歴史を連ね、現在の"お風呂屋さんの街"につながる。
因みに、人形町にあった時代の吉原遊廓と区別するために、移転後の遊廓は「新吉原」とも呼ばれるようになった(同時に移転前のものは「元吉原」と称されることに)。
では「吉原」ってどこって話だが、まず前提として、現在の東京の地名に「吉原」という名は存在しない。
昭和41年の住居表示にて、それまで「台東区新吉原」と冠していた町名は消滅し、「台東区千束四丁目」と称している。
(国土地理院地図に陰影起伏図と識別標高図を合わせて編集)
上記地図でいうと、千束(四)の辺り、斜め向きの長方形の微高地が「吉原遊廓」があった場所。
浅草一帯、下町というと低地で真っ平のイメージだが、実は微妙に高低差がある。
明暦の大火で新たに遊廓を造成する際、もともと田んぼだった場所に土盛りして築かれた人工的な微高地なのだ。
その北には「日本堤(吉原土手)」が続き、初めは吉原大門へ通じる唯一の道だった。
土手に沿って、王子から音無川が隅田川に注がれていたが、それを「山谷堀」として整備され、浅草と新吉原はこの山谷堀と隅田川を介して舟で行き来していた。
因みに、地図を見るとエリアが斜めになっているのがわかる。
これは北枕を防ぐためにわざとこうして区画されたのではないかといわれている。
アクセスとしては、地下鉄日比谷線の入谷駅か三ノ輪駅、もしくは銀座線の浅草駅が最寄り駅となろうが、いずれにせよ中途半端に離れている。
むしろ、上野や浅草から出ている都営バス(上46か草64系統)に乗って、「吉原大門」停留所で下車した方がいいか。
この吉原には何度も足を運んでいるが、表題にある通りもっとも古いのが2015年10月、直近が2020年3月。
このブログを始めた最初のテーマがその「吉原」だが、もとの記事をベースに直近の訪問も加えて再編する。
註 ギャプションの☆印は2020年3月、★印は2015年10月に撮影したものである。
☆以前と同じ、浅草駅を出て吉原に向かうコース。
江戸時代の人は吉原に向かう際、舟で隅田川から流れる「山谷堀」と呼ばれた水路を通っていた。
戦後に水質汚染や悪臭で悩まされたことで暗渠化され、跡地は「山谷堀公園」と公園化され、あるいは遊歩道となっている。
☆かつて山谷堀に架かっていたとされる橋の親柱が所々に残っている。
この「紙洗橋」もその一つだ。
この付近では古くから"浅草紙"と呼ばれたちり紙が作られていたが、その原料は古紙や紙くずだった。
まあ、今で言うところのリサイクル紙なのだが、その工程の中で、原料とされる古紙や紙くずを堀の流れにさらしておくという「冷やかし」というのがあった。
この作業が2時間あまりと長く、紙職人はその間に暇をもて余して吉原を見に出かけるのだが、遊女を買う時間がなく登楼せずに帰ってしまうというのがよくあったそうだ。
今では「冷やかし」といえばモノを買うを気のない客を指す言葉だが、その由来がこれなのだ(諸説あり)。
★最初に訪れた時はこんな感じで、恐らく架橋当時のものだろう。
★来歴には「昭和四年」という文字が見える。
「帝都復興事業トシテ改築」とあるように、関東大震災で一度崩壊した橋を改築したものだ。
☆山谷堀の跡をだどり、土手通りへ。
かつては「吉原土手」とか「日本堤」と呼ばれた土手が連ねていたので、この通りの名前がついている。
関東大震災後に土手が切り崩されて現在の「土手通り」になるが、「日本堤」も台東区の地名として残っている。
☆土手通りには戦前に建てられた古い木造建築が残っている。
写真左には桜鍋の「中江」(大正13年築)、その隣が天ぷらの「いせや」(昭和2年築)、いずれも登録有形文化財に指定されている。
馬肉も天ぷらも精がつく食べ物なので、登楼前にここで精をつけようという遊客が多かったと想像できよう。
☆ 土手通りの裏手には出桁造りの町家が残っていて、下町風情が残っている。
正面にはスカイツリーがよく見える。
★「吉原」の地名は消えたものの、交差点やバス停に「吉原大門」と名前が残っている。
交差点のガソリンスタンド前に立つ一本の柳の樹が「見返り柳」と呼ばれている。
☆因みに今回訪れた時の見返り柳、葉がほどんど付いておらず、淋しい感じに。
京都の島原遊廓の柳を模しているといわれるこの見返り柳、何度も植え替えられている。
遊客が名残惜しそうにこの柳のある辺りで遊郭を振り返ったということから、この名が付いたといわれる。
★石碑の表には、「新吉原衣紋坂 見返り柳」と刻まれている。
★裏には「吉原六ヶ町々会」という文字が見える。
現在の町名に変わる前は、「京町一丁目」「同二丁目」「揚屋町」「角町」「江戸町一丁目」「同二丁目」と六つの町に分けられ、いずれも「浅草新吉原」と冠していた。
☆さて、交差点から"廓内"へ入る。
そこに待ち構えるのがS字型のカーブで、前出の石碑にも出てきた「衣紋坂」と呼ばれる通りだ。
今でこそ平坦だが、かつては"坂"と付いていたように勾配もあったようだ。
カーブは外部から廓内が見えないようにわざと作られたものらしいが、これは当時のままだ。
ちなみにこの通り、廓に入るまで五十間ほどの距離だったことから、「五十間通り」という名も付いている。
★そして、郭の入口である「吉原大門」は交番のある辺りにあった。
かつては遊女が廓から逃げ出すのを防ぐ目的も兼ねて大門の前に交番が建てられたのだが、それが今でもこの位置にとどまっている。当初はこの「大門」のみが廓への出入り口だった。
(筑摩書房『遊廓をみる』より)
かつてはこのようなモダンなアーチを持った門だったようだ。
★大門を抜け、南北を貫く通りがメインストリートの「仲之町通り」。
かつては通り沿いには、登楼前の遊客をもてなす「引手茶屋」などが並んでいた。
現在建ち並ぶ怪しい喫茶店などは、さながら現代風の「引手茶屋」といったところか。
道幅は広く、ここでは花魁道中が行われた。
年中行事に従って春は桜などを植えるなど「ハレ」の舞台でもあった。
☆仲ノ町通りには唯一の現役料亭「金村」がある。
ここでは芸妓や幇間を呼び寄せることができるらしい。
☆仲之町通りを過ぎると再びSの字状のカーブに差し掛かる。
これは「水道尻」と呼ばれていた。
☆仲之町通りを突き進んだところに建つ「吉原神社」。
浅草名所七福神の一つに数えられている。
もともと吉原大門の近くにあった玄得稲荷社と廓の四隅に祀られていたお稲荷さんを一つに合祀した。
☆両脇に建つ狛犬を見ると、男性器がついているのが分かる。
場所柄だろう。
☆その石灯篭の台座には、妓楼の屋号が世話人の名前として刻まれている。
この神社に対する遊廓の信仰が如何に厚かったかを物語っている。
「昭和二十九年」という文字があるように、この灯篭が立ったのは戦後、吉原遊廓が赤線として存続していた時点だ。
★吉原神社の裏手に建つ「台東病院」。
現在は総合病院なのだが、元々は花柳病専門に警視庁が明治44年に設立した「吉原病院」だった。
(因みに、同様に警視庁が設立した病院は他に洲崎、新宿、千住、品川、八王子、府中それに板橋と6カ所、ほとんど遊廓があった場所だった。)
当時の遊女たちは花柳病のみならず結核や伝染病などで若くして命を落とす人も少なくなく、いわば命がけだった。
☆その「台東病院」のはす向かいに鎮座する「吉原弁財天」。
前出の「吉原神社」の飛び地境内社でもある。
☆玉垣には、妓楼関係者の名前が屋号とともに刻まれている。
「大文字楼」は吉原でも有数の大店だ。
☆こちらには「角海老楼」、「大文字楼」と並ぶ大店だ。
★境内には、関東大震災で命を落とした遊女たちの供養塔が立つ。
震災の際に起きた火災から逃れるために境内にあった弁天池に飛び込み、溺死した遊女も多かった。
当時、遊女の逃亡を防ぐために大門が閉ざされ、その結果として悲劇につながったのだ。
築山の上に立つ観音像だが、前出の写真にあった吉原大門のアーチ上に飾られていた乙姫像に似ている。
★かつては多くの遊女たちの逃げ場だった程に広大な弁天池も、今では埋め立てられ、小さい池にとどまっている。
☆一気に大門通り(仲之町通り)を突き抜けたので、今度は外周を通りながら大門があった辺りに戻る。
この通りは現在「花園通り」と呼ばれているが、かつては「お歯黒どぶ」という水路が通っていた。
「お歯黒どぶ」は廓全体を囲っていた水路で、もちろん遊女の逃亡を防ぐ目的だ。
この通りには、かつては「羅生門河岸」と呼ばれていて、水路沿いに下級の遊女屋が並んでいた。
☆反対側の通りにも同様の光景が見られたそうで、そっちは「浄念河岸」と呼ばれていた。
☆外側の通りから廓内を臨むと、通りが若干盛り上がっているのがわかる。
もともとこの地は「浅草田圃」と呼ばれた湿地帯で、遊廓の造営にあたってはその湿地帯に土砂を埋め立てたのだ。
それ故に廓内は周囲より若干ながら高い土地になっている。
☆通りの入口を見ると、角度のある勾配がハッキリと見て取れる。
☆ところで、今でこそ「吉原」は「"特殊な"お風呂屋さんの街」として有名だが、写真の通り(江戸町通り)を見るとその類の店舗は片側に偏って並んでいて、反対側には全く見当たらない。
というのも、昭和41年の風営法改正で「営業禁止指定」が設けられていたためで、「吉原」の場合、旧町名でいうところの「京町一丁目と二丁目」全域と「江戸町一丁目と二丁目」の東側にあたる。
☆「お歯黒どぶ」は今では埋め立てられてしまったが、その痕跡が見られる場所はある。
「吉原大門」があった辺りの小さい通りに黒ずんだ石垣が見える。
これこそが「お歯黒どぶ」の痕跡に他ならない。
「お歯黒どぶ」から"廓内"を臨むと、ものの見事な段差。
☆その先にも段差が見られる場所がある。
☆段差の上に広がっているのは広大な児童公園(吉原公園)。
実はかつて「稲本楼」「角海老楼」と並ぶ大店「大文字楼」の跡地で、敷地そのまま公園になっている。
☆その背後にはけばけばしい店舗の群れ。
"子供の遊び場"と"大人の遊び場"が一緒に見られる光景だが、場所柄のせいか子供の姿は見えない(笑)
そんなわけで前編はここまで。
次は後編、赤線の遺構が多く残る通りに入ります。
(後篇につづく)