(前篇)からの続きです。
★『赤線跡を歩く』に登場する転業アパート、この姿を二度と見ることはできないのです。
江戸時代から続く日本最大級の遊廓「吉原」。
その歴史は戦前、戦中、そして戦後にわたるのだが、実は大きいものだけで3度も焼失を経験している。
映画『吉原炎上』にも描かれた明治44年の大火、大正12年の関東大震災、そして昭和20年東京大空襲がそうだ。
その度に復興を繰り返しているのだが、現在の街並みは戦後のもので、戦前の建物はほとんど見られない。
因みに、戦後はGHQの指令により"表向き"は公娼廃止となったが、間もなく進駐軍兵士を対象とした慰安施設RAAに指定される。
しかし、進駐軍兵士の女給に対する乱暴に性病の蔓延が続いて「リミッツオフ」、つまりは将兵の立入禁止とされ、やがて「赤線」に移行される。
昭和30年当時の様子を『全国女性街ガイド』より引用。
灯ともし頃ともなれば水を打ち、盛花をした石割道の両側に千本格子がならび、廊下で草履を叩く音やねずみ啼きがきこえていた時代の吉原は情緒があってよかった、という人がある。ぱたんぱたんとフェルト草履の音をさせ花魁が自分の部屋の障子を開けるのを待っていた気分はたとえようがないと洩らす人がいる。トキを告げる拍子木の音や、「お時間ですョ」と起こしにくる新造の無情な声や、ショーウィンドゥに飾る商品のように花魁衆の修正された写真の羅列してあったのや……もう、そんなものは戦後の吉原にはなくなった。通用門もおはぐろどぶも妓楼作りもなくなった。だからといって、その当時の吉原だけに夢のような抒情があり、現在の吉原には味も何もないというのは間違っている。まず、梅毒と淋病の感染率が激減した。陰気な抑圧的な花魁道は地に落ちたけれど、やはり、吉原にはお女郎の古い伝統が残っている。女給と名を変えた千二百名〈二十九年版"吉原図"によると組合加入店二百七十軒〉の女たちは種々雑多で、八つあん熊さんにも向けば、ジャパンコムミニストにも、お上りさんにも、汚職族にも、破瓜試験にも向く。いうなれば、その道のオーソドックスである。
その吉原は、今年に入って更に変り、天然温泉が湧くという革命的飛躍期に入った。吉原病院向井の検査場のとなりにボーリングを植えつけ、この夏から二十七軒ほどが天然温泉の看板をかけて営業をはじめた。 (以下略)
昭和33年の赤線廃止後、「吉原」は「"特殊な"お風呂屋さんの街」という姿を変えながらも色街の命脈を保っているが、昭和41年の風営法改正ではその類の店舗の急増に歯止めをかけるべく「営業禁止指定」のエリアを設けた。
前回も触れたが、「京町一丁目と二丁目」全域と「江戸町一丁目と二丁目」の東側がそうで、このエリアにはそういった店舗を建てることができなくなった。
しかし、このことが幸いして、そんなエリアには今でも赤線当時の建物が解体を免れながらも残っている。
☆吉原大門があった辺りから伸びている細い路地、かつて「伏見通り」と呼ばれた通りが特に顕著だ。
☆木村聡氏残っている著書に『赤線跡を歩く』というのがある。
全国の赤線跡をくまなく歩き、写真と共に記録したものだ。
その冒頭が他ならぬ「吉原」なのだが、上写真の特徴のある外観の建物も登場している。
コーナーには女給が客を呼び込むためと思われる窓がある。
☆戦後になって"表向き"は公娼制度が廃止されたのだが、店側は妓楼を「カフェー」、娼妓を「女給」と名を変えて従来通りの営業するわけで、当局も黙認の形だったが、その際に地図に赤い線で囲ったエリアということで「赤線」と呼ばれていた。
逆に名実ともにモグリで営業していたエリアは「青線」という。
赤線エリアでは、客の気を引かせるためにこうした奇抜な外観の店舗をこしらえるところが多かった。
それがいわゆる「カフェー建築」だ。
☆その隣には広い空き地になっているのだが、そこにも最近までカフェーの遺構が建っていた。
★前回訪問当時、同じアングルで撮った写真がこちら。
右側の建物が最近まであったカフェーで、赤線廃止後は「モリタ荘」というアパートとして余生を過ごしていた。
★道路沿いに入口がいくつもあるのが特徴的だ。
これは客同士が対面しないための工夫だという。
★「モリヤ」とはカフェーだったころの屋号だ。
訪問当時は住人もおらず、いつ消えるかわからない状態になっていたが、とうとう力尽きた。
赤線廃止後60年も経っているから、建物の老朽化で解体されるパターンが多い。
☆はす向かいの建物には、屋号と思われる文字「マスミ」がそのまま見える。
こちらは住居として今も大事に使われている。
両側に円柱が施されているのも特徴的だ。
★またはす向かいにも、独特のファサードを持っている一軒がある。
こちらは「親切」という屋号のカフェーだった。
★こちらは「大和田荘」という名のアパートとなっていたが、残念ながら取り壊されてしまい、こじゃれたマンションと化している。
★この「伏見通り」だけでもカフェー建築が数軒ほど残っている。
とはいえ、建物にも耐用年数があるわけで、いつ消えてもおかしくない状況ではある。
★「伏見通り」から「江戸町通り」を臨む細い路地。
それこそ現役色街として有名な「吉原」だが、「営業禁止指定」となったエリアは下町の風景とさほど変わらない。
★"その類"の店が並ぶ通りにも遺構は残っている。
一番上の窓は"飾り"で、看板建築にはこうした意匠も少なくない。
こちらは送迎車の車庫として使われている。
☆「伏見通り」から離れた場所にも特徴のある外観の建物が一軒。
これも『赤線跡を歩く』にも登場する。
現役店舗が密集する「角町通り」と京町通りの間の狭い路地にそれがあった。
★外観の凹凸は艶かしい曲線で描かれている。
これはハートを表しているのか、あるいは女体を表しているのか。
そして、軒下には菱型の意匠やら遊客を呼び寄せるための照明やらが残っているのも見逃せない。
☆その並びにも面白い意匠の一軒が残っていた。
以前の訪問では見逃していたのだが、こんな所に在ったのか。
鮮やかな石張りと丸柱に囲まれた四角い窓は客を呼び寄せるためのものだったのか。
★「京町通り」には先に触れた「営業禁止指定」エリアだったことで、いわゆる「お風呂屋さん」が全く存在していない。
当時は旅館も何軒か残っていたが、今ではマンションなどに変わっている。
手前にある「生ビール」「軽食とカレー」の看板が掛かっている店も、実は元カフェー。
「正直」という屋号で、後にビアホールに替えて最近まで営業していた。
看板にあるように、洋食メニューも扱っていたらしい。
★ショーケースに並ぶサンプル。
年数が経っているせいか、色褪せ具合が渋い。
☆再び訪れると、何と1階が駐車場に変わっていた。
周辺もマンションが建ったりと変わりつつある。
★赤線廃止後の「吉原」では、件の「お風呂屋さん」だけでなく、アパートや旅館に鞍替えしているのも少なくなかった。
「京町通り」に旅館が並んでいるのは、その類だろう。
手前の「旅館常盤」も、かつては「ときわ」という名のカフェーだった。
注・「旅館常盤」は現存せず。
★夕暮れ時の「吉原」の光景。
どの店もこの時間帯から書き入れ時だろう、看板に灯りが燈され送迎と見られるタクシーもひっきりなしに出入りする。
この街の本番はこれからだ。
さて、以前に書いた記事はここまででだったが、今回は吉原から更に足を伸ばして、遊廓で働いていた遊女たちの投げ込み寺に立ち寄った。
☆吉原から離れるが、地下鉄日比谷線の三ノ輪駅近くにある「浄閑寺」。
「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と川柳に詠まれていたほどだから、どんなお寺か察しはつくだろう。
ところで、山門の前に佇む地蔵は、京町一丁目にあった妓楼「四つ目屋」の抱え遊女「小夜衣」の供養地蔵像である。
小夜衣は火付けの罪を女主人に着せられ火炙りとなってしまうが、一周忌、三回忌、七回忌の度に廓内から火の手が上がり、ついには「四つめ屋」も全焼して潰れてしまう。
そんなこともあって、廓内の人たちが霊を鎮めるために建立したのがこの地蔵像だった。
☆境内には多くの史跡が残っているが、吉原遊廓の投げ込み寺だったこともあって当然ながら遊郭にかかわるものが多い。
大店「角海老楼」の芸妓若紫の墓。
客に心中を強いられて亡くなったと言われている。
☆こちらの「新比翼塚」は、心中した「品川楼」の遊女と客だった内務省の小使を祀ったものだ。
永井荷風が浄閑寺を導いたのは、この塚の存在からだった。
☆荷風は最期の際にここ浄閑寺に葬ることを望んでいたといわれているが、結局叶えられずに雑司ヶ谷霊園に墓所が置かれている。
境内には荷風の記念碑が建立されていて、中には荷風の歯2本と実際に使っていた小筆が安置されている。
この日を設計したのが谷口吉郎、帝国劇場や東宮御所を手掛けた建築家である。
☆こうして史跡が多く残ってたりするのだが、やはり「新吉原慰霊塔」にとどめを刺す。
身寄りのない吉原遊女たちが死して後に家族のもとに帰ることもできず、行きつく先がこのお寺だった。
投げ込まれた数は2万5千人といわれている。
☆脇の小窓からは骨壺が丸見えで、生々しい。
この中に遊女たちが眠っているのか。
彼女たちの情念がひしひしと伝わる気がする。
そんなわけで、大人のお風呂屋さんが密集している町で躊躇してしまいそうだが、赤線や遊廓の名残りを所々に見られる「吉原」。
恐らく今後も足を運ぶことになるかもしれないが、その時は改めて(再訪編)と銘打って書きたいと思っている。
(訪問 ★2015年10月 ☆20200年3月)