【三重県・四日市市】富田住吉町(住吉遊楽園)
正月の北勢日帰り散策のラスト、富田住吉町。
四日市の赤線「港楽園」「春告園」の項で『全国女性街ガイド』を引用した箇所をいま一度。
また、このほか、次の駅の富田にも住吉町、旭町に赤線があり、四日市にも春告園、港華園、港楽園と赤線があるが、先きを急いで赤線の本場名古屋へ―
「桑名」の項で簡潔に述べているだけだが、四日市市街地だけでも3つ赤線が存在していた点にまず驚かされる。
そして、更に驚かされるのは、富田にも2つ赤線が存在していたというのだ。
まずその一つが「旭町」で、これは現在の東富田、関西本線の線路沿いに存在していた。
(上の地図で「四日市東富田郵便局」がある辺り)
そして、もう一つが「住吉町」で、これは現在も地番として残っている。
地図を見ると運河に三方囲まれて半島状に突き出ている形になっているが、これは遊里を設置するために新たに埋め立てられてできた新開地ゆえだ。
この経緯、東京にも似たケースがあった。
根津遊廓を移転する形で人工的に作った洲崎遊廓がそれだった。
前回の富田一色から運河を回り込む形で住吉町へ向かう。
「住吉町」交差点があるので、わかりやすいだろう。
早速ベンガラ色の、明らかにビンゴだろうという一軒に出くわす。
お茶の店の看板が出ているが、元々は何だったんだろう。
先ほど書いたように、この住吉町は遊里の設置のために埋め立てられてできた新開地だった。
富田一色に芸妓置屋や料理屋、遊廓が置かれたのを、風紀上の理由でこちらに移したものだ。
そして、現在も当時の名残りと思われる建物が所々に残っている。
和風の妓楼と洋風ののカフェー風が同居している一軒。
見ていて壮観だ。
更には平入の妓楼が続いている。
この通りがメインストリートらしい。
こちらは二軒隣り合うように並んでいる。
そして、こちらがラスボス的存在の一軒。
恐らく料理屋だった一軒だろう。
奥にも妓楼らしきものが続いている。
軒下には軒燈の跡らしきものも見える。
この住吉町は遊里として戦後まで存続するが、純然たる赤線というよりは芸娼同居の遊里だったようだ。
妓楼っぽい住居だけでなく、料亭だったと思しきものも見られる。
昭和29年に刊行された『実話雑誌』に出ている「全国主要赤線地区案内」で、三重県の赤線について触れている。
三重県は山によし、海によしの全県を通じての美景です。まず四日市天賀須賀と東富田の『住吉遊楽園』と『富田新地』港にちかい西新地の『港楽園』をふりだしに......
と続いて三重県内の赤線について記している。
先の『全国女性街ガイド』と突き合わせると、「旭町」が「富田新地」で、「住吉町」が「住吉遊楽園」ということだろう。
いずれも昭和33年を持って赤線廃止となり、その後は遊里として存続することなく静かに余生を過ごしている。
遊里跡は時とともに朽ち果てる運命なのだが、ここは決してそんなことなく、住宅として大事に使われている。
出島みたいな地形が幸いしたのか、開発の手も加わることなく当時の姿を残しながら。
そんな中で、一軒だけ現役の料亭が営業を続けている。
見越しの松がそれらしく風貌を漂わせる。
看板には「料亭 魚半」と書かれている。
"食べ〇グ"とか"ぐる〇び"などでも取り上げられているようで、ウナギがウリらしい。
今回は富田一色から住吉町と回ったが、立ち寄って正解だった。
いずれも濃密な街並みに満足だったわけだが、欲を言えば、「富田新地」だった旧「旭町」も行きたかった。
あそこにも当時の遺構が残っているそうで、レトロな銭湯の建物もあるらしい。
帰り、運河に夕空が広がる風景を臨む。
季節が季節だけに日が暮れるのは早い。
左側が住吉町で、右側が富田一色だ。
そんな感じで正月の北摂日帰り散策を終えて、一路東京へ帰った。
(訪問 2019年1月)