【群馬県・太田市】上毛遊里探訪その3「太田」後編 | 日本あちこちめぐり”ささっぷる”

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休日に街をあてもなく歩き回って撮った下手糞な写真をだらだらと載せながら綴る、お散歩ブログ。
東京や近郊メインも、ごくまれに遠方にも出かけています。
観光案内には全くなっておりませんのであしからず。

【群馬県・太田市】太田本町

 

戦前はゼロ戦戦闘機を数多く生み出した中島飛行機。

しかし敗戦後GHQに睨まれ、創業者の中島知久平はA級戦犯容疑に指名され(結局不起訴も公職追放に)、財閥解体で中島飛行機も解散に追い込まれる。

しかし、軍需産業で培われたその高い技術力は、後継会社の自動車産業へ受け継がれる。

それが、SUBARUブランドで知られる富士重工業だ。

戦前から戦後を通してそこで働くブルーカラーたちのための遊里が、太田駅周辺に広がっていた。

今回は前編に続きその界隈を彷徨い続けます。

 

*  *  *

 

 

遊里に付き物の床屋さんに質屋さん、とくればありました。

高い煙突が見えるように、ここにも銭湯温泉が。

 

 

恐らく病院だろうと思しき一軒。

窓の桟がいい感じですね。

 

 

並びには太田本町基督教会。

築年代はわからないが、三角屋根に鐘楼風のファサードがモダンだ。

 

 

これはクロでしょう......

下見板張りに蔦が絡まり、放置状態に。

いつ消えても不思議ではなさそう。

 

 

日光例幣使街道の宿場町ということで飯盛女の流れを受け継いだ乙種料理店は、戦後になるとそのまま赤線に受け継がれたらしい。

しかし、その詳細はトンと判然としないのだ。

あの『全国女性街ガイド』にも太田に関する記載はないのだ。

 

 

そんな感じで、今回の太田散策は事前に先人達のサイトをリサーチし、その場所と思しきエリアを歩き回っている。

確かに、戦後の赤線街の雰囲気が所々に残っている。

 

 

しかし、先人たちが撮っていたインパクト大な妓楼建築がどこを歩いても見当たらなかった。

恐らくは最近になって解体されたのだろう。

 

 

何しろ虫食いのように広大な空き地が所々にぶち当たっていて、色街の名残りが消えゆくのも決して遠くない勢いだ。

 

 

広大な空き地にはいったい何があったのか。

そして、その後にできるのは何だろうか。

 

 

ここにももう一軒病院建築があった。

やはり現役でないようだが、それにしてもバラのレリーフが綺麗だ。

 

 

妻側はこうなっていたのか。

空地のせいでその様子が分かってしまう。

 

 

駅至近の線路沿いというのはいわば一等地。

しかし、そんなイメージを見事に覆すほどに寂れている。

 

 

「割烹料理濱の家」と書かれた看板がある。

これも遊里の名残りだろう。

 

 

って、これ現役なの??

 

 

綺麗な豆タイル敷き。

赤線街に来たならこれがないと、ね!?

 

 

赤線廃止後もしばらくは活況が続いたのだろう本町界隈。

しかし、高度成長期に入ると南口に「南一番街」と呼ばれる商店街ができ、人の流れもそちらに移ってしまう。

そのせいで本町界隈も寂れ、現在もなお香ばしい街並みを残しているのだろう。

 

 

一方の「南一番街」も寂れるのが早かった。

モータリゼーションの進行で郊外に大型店舗もできると、今度はそっちに流れ、駅前周辺は瀕死寸前の寂れ具合となったという。

その起死回生策となったのが皮肉にも風俗店の入居で、これを機に太田が北関東1~2位を争う歓楽街

となってしまう。

何てことはない、ブルーカラー層の色欲の受け皿が戦前~戦後の本町周辺から現在の南一番街に移ったというだけの話だったのだ。

 

 

 

ところで、赤線の話に戻すと、北口の本町界隈だけでなく、線路を挟んで南口の浜町界隈にも広がっていたようだ。

高架を越えて散策したが、唯一名残りと思しき一角がここ。

 

 

 

どう見てもカフェー建築です、本当にありがとうございました。

そんな一軒がこれ。

しかし、これも早々消えてしまいそうな勢いだ。

周辺が空き地なんだもん......

 

今回は時間の関係で南一番街に立ち寄ることができなかったが、余裕があれば一度は見ておいても悪くないだろう。

帰ってからストリートビューで見たが、半端ないったらありゃしないという感じでした。

 

駅前なのに空き地が目立っており、いつ消えゆくかわからない状況。

散策するなら早い方がよいだろう。

というわけで太田編はここまで。

 

 

(訪問 2019年4月)