渓谷に広がる巨大要塞
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前回の御岳山参りを終えて、御嶽駅から更に奥へ向かう。
今回の目的地は青梅線の終着駅、奥多摩だ。
途中、いくつもの隧道を越え、全長1207mという氷川隧道を越えた先だ。
カーブしている奥多摩駅のホームの先に見えるのが、砕石を作っている奥多摩工業氷川工場だ。
ホームのどん詰まりまで進む。
あたかも要塞化と思わせる威容の奥多摩工業氷川工場。
線路がホームの端で途切れているが、かつては工場まで線路が伸びていたという。
奥多摩駅の外観はいわゆる山小屋風だが、実は竣工当時のままの駅舎なのだ。
その開業が驚く勿れ昭和19年7月1日、当時は「氷川駅」と呼ばれていた(現在の名称は昭和46年から)。
昭和19年と言えば大東亜戦争の終盤近くで日本は敗色濃厚、本土空襲も迫り来る頃だ。
そんな非常時に山登りとかハイキングどころではなかったはずだが。
御嶽どまりだった青梅線(当時は青梅電気鉄道)を延伸するため、昭和3年に浅野財閥が出資して奥多摩電気鉄道が発足。
主力企業の浅野セメントが所有する日原の山林で石灰石を採掘し、鉄路を経て系列の日本鋼管や鶴見造船などがある京浜工業地帯へ運搬するのが目的だった。
折からの不況で着工に手間取っていたが、戦時体制で石灰石が必要となったことから昭和16年にようやく工事が始まる。
件の駅舎も恐らくこの頃から着手されたもので、当時は戦時色とはいえまだ切羽詰まってたわけでもなく、前述の貨物運搬だけでなく登山やハイク目的の旅客輸送も想定していたのだろう、遊び心で山小屋風の外観にしたと思われる。
そして、ようやく御嶽~氷川間が完成するが、いわゆる戦時買収で国有化され、国鉄青梅線となる。
着工から3年半、とても山小屋風どころではなかったはずだが、石灰石運搬のため鉄路の完成が最優先されて突貫工事、その間とても駅舎を変更する余裕がなかったのだろう。
そのドサクサに紛れて、当初の想定通りの山小屋風駅舎のまま完成したのだと思われる。
駅前を通る青梅街道と日原街道が交差している。
青梅街道がここまで伸びているのは「甲州裏街道」と呼ばれている所以で、表街道の甲州街道だけでなくここも甲府との交易に利用されてきた。
青梅街道沿いに立派な店蔵と商家が並んでいる。
ちょうど日原街道と交差する箇所なので、交易の要衝として繁栄してきた場所なのだろう。
日原街道に入る。
その先には石灰岩の鉱山がある日原まで結び、鉄路がなかった時代はこの街道を利用して石灰岩を運搬したのだろう。
奥多摩の石灰石は古く江戸時代から採掘され、江戸城の漆喰にも使われている。
明治以降も近代的なビルディング建築にはこの石灰石が利用され、東京の都市計画への貢献は小さくない。
そんなわけで、この氷川地区には早くから街道沿いに町家が並ぶようになる。
鉱山で働く人たちや彼らを相手に商売する人たちで氷川は街道町としても発展する。
町が栄えると当然ながら遊里もできる。
恐らくその名残と思われるスナックが残っている。
繁栄を物語るモダンな商店も残っている。
車がビュンビュン飛んでくる現在の街道から外れた通りは恐らく旧街道だろう。
古い佇まいの町家が見られる。
旧街道と思われる通り、最も街道の街並みを色濃く残している。
旧街道から現街道を臨むと、前述のモダンな店舗が見える。
東京都内とは思えない風景がここにある。
古い街道町なんて東京にないと思っていたが、ここまで来るとそれは間違いだったと分かる。
途中で鋼鉄製のアーチ橋に差し掛かる。
橋からは川向うに件の奥多摩工業氷川工場が見える。
流れているのは日原川で、その先の多摩川と合流する。
橋の脇にある構造物は何だろうか
先に進むと謎のコンクリート造りの高架に差し掛かる。
実は、昭和27年に当時の氷川駅からダム建設用の資材を運搬する目的で敷設された小河内線の遺構である。
この小河内線は国鉄でなく東京都水道局のものだった。
昭和32年に小河内貯水池(小河内ダム)が完成したことに伴い休止された後、西武鉄道、後に奥多摩工業に譲渡される。
この小河内線はあくまでも休止線であり廃線ではないのだが、今後再開されることはないだろう。
小河内線の遺構を過ぎた後も集落が残っている。
その集落を過ぎた先はいわゆる山道が続く。
橋の上から臨むと、山奥にも集落が見える。
通りに墓があるのは、この近くの集落のものだろうか。
集落の墓に混じって無縁仏の墓も見られる。
この川で釣りをするには許可が必要のようだ。
そういえば近くには国際ます釣り場もあった。
山道からは件の集落が眼下に見える。
降りて集落を歩いてみようとも思ったが、何せ小さい集落ゆえに不審と思われるかも知れないと断念して引き返すことにする。
小河内線のコンクリ架橋の向こうには氷川工場が見える。
ところでこの奥多摩工業だが、青梅線国有化の際に鉄路を手放すことになった奥多摩電気鉄道が昭和19年に改名したものだ。
鉄道所有を断念し、石灰石の採掘や砕石にシフトしたのだが、後に休止線ではあるが小河内線を譲渡された形で鉄道を所有するという数奇な軌跡をたどっている。
青梅線は戦時体制において必要とされた石灰石運搬の目的で開通した。
その1年後に終戦を迎え、当初の目的が失われたかに思われたが、実際にはそうならなかった。
戦後しばらくはこの奥多摩工業へ引込線が敷かれ、そこで砕石された石灰石は青梅線から南武線、鶴見線を経て日本鋼管や浅野セメントなどがある京浜工業地帯へ運搬されたのだが、これが戦後復興や高度経済成長につながっている。
もっとも、運搬主体が鉄道から自動車に移行されたことで引込線はなくなり、工場からはトラックが出入りするようになる。
ようやく駅前に戻る。
今回は時間がなく足を運べなかったが、鍾乳洞がある日原周辺も見どころは多そうで、何れは再訪したい。
(訪問 2019年5月)