働きたい方、いかがでしょうか......(笑)
真岡を後にして、再び下館へ戻ります。
前回の真岡の項でも軽く触れたのですが、実は何気に交通の要衝地でもあったのです。
東西にJR水戸線、南へ関東鉄道常総線、そして北へは真岡鐡道と3つの鉄道会社がこの下館から伸びています。
ところで、かつては"茨城県下館市"と一つの独立した市だったのですが、平成17年のあの大合併で"筑西市"となったのでしたね。
その中心となっているのが今回取り上げる下館。
平安時代、平将門の乱に対応するために"俵藤太"こと藤原秀郷が3つの館を作ったのが始まり。
それが上館、中館、そしてこの下館だったのです。
平安末期にこの地に城が築かれ、以降江戸時代に至るまで城下町として整備されるとともに、あの真岡木綿の集積地として繁栄します。
当時は鉄道もなかったわけで鬼怒川の水運が利用されたのですが、近代に入り鉄道が敷かれたことで物資がこの地に出入りするようになり、筑西地区きっての一大商業地に。
その名残りと思われる古い街並みが残っていて、見どころタップリなのです。
で、商都ととして繁栄した下館にはまた一大花街が形成されてたわけで、それも併せての散策です。
* * *
今回散策するのは駅の北側ということで、JR下館駅の北口に出る。
駅舎は昭和12年竣工当時のもので、アーチ形の5つの窓には何気にステンドグラスが飾られている。
JR水戸線の前身は明治22年開通の水戸鉄道で、当初から小山~水戸間で運行されていた(同39年に国有化)。
下館からは明治45年に真岡軽便線(現・真岡鐡道真岡線)が、大正2年には常総鉄道(現・関東鉄道常総線)がそれそれ開通し、交通の要衝として下館が発展するきっかけとなる。
駅から北上すると現れるモダンな建物。
そうそう、下館は看板建築の宝庫でもあり、ここでもちょくちょく登場する。
大谷石造りの蔵はアトリエとして使われている。
この下館には同様な石蔵がちょくちょく見られる。
アールが特徴的な看板建築だが、庇をよ~く見ると......
パステルカラーで彩られた市松模様のモザイクタイルで装飾されている。
それにしてもここは何屋さんだったんだろう
その向かいにあるのが中澤時計店、昭和8年築だ。
下館でも1~2位を争う看板建築の傑作と言ってもいい。
正面から臨むと、実はシンメトリーではない。
右側が若干高くなっているのがわかるのだが、これはわざとかな。
中央の時計は止まっているようだが、現役なんだろうか。
国道50号線とぶつかる交差点の角にはモダンなアールを描いた店舗。
看板さえなければ(苦笑)
国道50号を進むと、中澤時計店といい勝負の看板建築がもう一軒。
これも左右非対称の妙。
道幅が広く車がビュンビュン飛んでくる国道50号だが、道の両側には国登録有形文化財が向かい合うように残っている。
明治末期の店蔵と昭和8年に増築された洋館がセットの荒川家住宅。
元々は醤油の醸造業だったが、現役の酒屋さんで、洋館も住居としてきちんと利用されている。
側面には洒落た円窓らしきものが見える。
そのお向かいも登録有形文化財で、その名も荒川家住宅。
親戚関係なのだろうか
明治期の建物で、こちらは「荒為」という肥料商だったという。
現在は日本料理店として再利用されている。
さらに進んでいくと、金井町と呼ばれる蔵が並ぶ通りに出くわす。
ここで国道50号と別れてこの通りに入る。
蔵の街というと川越や佐原などが真っ先に出てくる。
いずれも重伝建に指定された街なのだが、同時に観光地化ライズされていて鼻につくところもある。
しかし、この金井町は重伝建に指定されても不思議ではない感じの街並みだが、非指定なのだ。
それ故に却って生の街並みが残って好感が持てるのだ。
一体どれくらいの財力を持っていたんだろうか、そう思わせる程の敷地に店蔵と袖蔵が煉瓦塀の中に。
江戸時代の下館は御三家だった水戸家の分藩として城下町がつくられていた。
前述の真岡木綿だけでなく隣りの結城の織物「結城紬」なども入り、それらを商う店で繁盛し、下館は商都という顔も持つようになる。
先程の荒川家住宅もそうだったが、いずれも真っ黒で重厚な街並みが色濃く見られるのは、江戸の影響が強くあったのだろう。
古い街並みに混じっていい感じの床屋さんもあった。
この手の手書き看板の床屋さんは珍しい。
さて、金井町から国道50号に戻ってかつて花街だった観音町へ飛ぶが、その手前にもう一軒の登録有形文化財。
大正11年築の一木歯科医院。
洋館風の外観だが、実は内部の柱や梁は木造で、診療室を除く待合室などは和室だという。
それにしても現役かなこれ
遊里には銭湯あり、ということでここにも一軒発見。
正面から見るとモダンな感じ。
台地の渕に伸びているこの辺りがかつての花街「稲荷町」で、現在も飲み屋などが軒を連ねている。
いい感じの飲み屋さん、そう、冒頭写真の募集中のやつね。
応募しても恐らく働くことはもうなさそうw
商都として繁栄した下館だが、その旦那衆をお得意さんとする花街がこの稲荷町にできた。
『全国花街めぐり』によると、
花街は町の東南部、即ち駅から北へ真直に通じた田舎には珍らしいアスハルトの新道―所謂「稲荷町通」の南裏手を中心地として、上町の羽黒社の周囲及び勤行川の岸にも多少散在してゐる。料理待合合せて五十余軒、芸妓が六十名内外。土浦よりも数に於て盛んであるし、三業組合事務所の立派なのも鄙には稀と言ひたい......
土浦よりも盛んとはこれまた大層な花街だったといえる。
かつては崖上に大規模な料亭などが残っていたそうだが近年になって解体されたのか、現在残っている名残りとしてはこれぐらいか。
恐らく料理店か何かだったのだろう。
戦後の下館については、『全国女性街ガイド』にこう記載されている。
花街は街の東南部、稲荷町通りを中心に二十軒ほど散在し、五十名の芸者がいる。米どころだけに泥くさい芸者ばかりだが、そのかわり深情け。二千円で一緒にねてくれる。
芸者の数が戦前とさほど変わっていなかったように、花街は依然として活況だったみたいだが、その役割を終えたのは高度成長期が一段落した昭和50年代あたりだろうか。
その辺の経緯は他の多くの花街と同じような感じかもしれない。
駅に向かう途中に道をはさんで映画館が向かい合って建っている。
茨城の一地方都市である下館に二軒もあるのだが、ここからだと土浦にも水戸にも微妙に遠いから需要はあったのだろう。
もっとも、今やすっかりオワコンになっている感じだが。
どうやらここも近辺のシネコンに客が流れている感じか。
こちらはもっと年季が入った映画館で、テナント募集中の垂れ幕が下がっている。
誰か入るところありませんかね。
入口には今では珍しいあの大映のロゴマークが。
「人気第一 サービス第一」のフレーズが逆に哀愁を漂わせる。
帰りの電車を待つホームから駅舎を臨むと、こちら側にもステンドグラスのアーチ窓。
当時としてはモダンな駅舎は、往時の活況だった街を象徴しているかのようだ。
そんな感じで下館編はここまで。
今回訪れることできなかった結城はまたの機会に取っておきます。
(訪問 2019年5月)