【京都府】京都五花街を歩く「祇園」(後編) | 日本あちこちめぐり”ささっぷる”

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東京や近郊メインも、ごくまれに遠方にも出かけています。
観光案内には全くなっておりませんのであしからず。

【京都府】祇園  

 

京都を代表する花街「祇園」。

前回は南側を取り上げたが、今回は北側。

 

 

*  *  *

 

 

祇園甲部のお茶屋の大半は歌舞練場がある南側に集中しているが、実は北側にも及んでいる。

白川を渡った先の「巽稲荷」を中心にした祇園新橋がそうである。

 

 

そして、この祇園新橋こそが茶屋町として重要伝統的建造物群保存地区に指定されているエリア。

指定を受けたのが昭和51年だから、白川郷などと並んで最古参である。

 

 

この巽稲荷を中心として、新橋通と白川南通が斜めに交差する。

 

 

両側にお茶屋が並ぶ、新橋通。

 

 

祇園の、というよりは京都のお茶屋の建物は極めて特徴的だ。

1階に千本格子の出格子と駒寄せ、2階が座敷で、正面に縁を張り出して格子手摺り、簾が掛かっている。

「駒寄せ」の"駒"とは馬のことで、それを転じて人馬の進入を防ぐための柵のことだ。

 

 

茶屋と茶屋の間には路地(ろーじ)、というのも京都の特徴。

因みに、路地でも行き止まりがなくそのまま反対側の通りに突き抜けるものは辻子(ずし、「図子」とも)いう。

 

 

「祇園新橋」というエリア名の由来になっている「新橋」。

 

 

新橋の上から白川を臨む。

白川沿いに茶屋が並ぶ光景。

 

 

そして、もう一つの巽橋。

 

 

巽橋の南側に伸びる「切り通し」。

足元に犬矢来(いぬやらい)を備えたお茶屋が両側に並ぶ。

犬矢来は前述の駒寄せの一種で、"犬"の文字があるように犬の糞尿や泥を避けるための意味合いが含まれる。

 

 

巽橋から白川を臨む。

川沿いにお茶屋が並ぶこの光景が好きだ。

 

 

白川南通から川沿いを臨む。

 

 

京都、とりわけ祇園を愛した歌人、吉井勇の歌碑。

 

かにかくに祇園はこひし寝るときも枕のしたを水のながるる

 

ここは吉井と親交があった磯田多可女が女将をつとめた「大友」というお茶屋があった場所でもある。

「大友」は白川に張り出して建てられていたそうで、床の下を川が流れていたという。

実際に"枕のしたを水をながるる"だったわけだ。

この歌は吉井が古希を迎えた時に詠んだものだ。

 

吉井と祇園のつながりは相当なものだった。

特に毎年披露されている「都をどり」が戦争で休演となり、永らく途絶えていたのを復活させたのも彼だった。

余談ながら、「都をどり」は明治5年に開催された博覧会の余興が最初だという。

相当古くからと思っていたら、近代に入ってからだったのだ。

 

 

お茶屋の軒下に下がっている提灯の模様は8個のつなぎ団子。

祇園の紋章だ。

 

 

祇園新橋を後にして、花見小路の東側へ。

この辺りはスナックやら風俗店が並ぶ、今風の歓楽街といった感じだ。

そもそも祇園が昭和40~50年代、こうした乱開発に危機を抱いたことで街並み保存の動きが強まり、祇園新町の重伝建指定につながったのだ。

 

 

ここにも赤い鳥居のお稲荷さんがある。

この「観亀稲荷」を中心にしたもう一つの花街、祇園東があるのだ。

 

 

祇園東はもともと「祇園乙部(祇乙)」と呼ばれたもので、明治14年に内紛から「甲部」と「乙部」に分裂したのが始まり。

かつて膳所(ぜぜ)藩屋敷が置かれていた場所だったことから、「ぜぜうら」とも称された。

「甲」と「乙」ということから「祇園甲部」よりランクは下という感じで、実際に『全国花街めぐり』でも松川二郎は

 

余人が普通に祇園新地といふは祇甲のことで、祇乙は俗に「ぜぜうら」と称し、これは安直主義大衆主義の遊び場所である。

 

と一言で片づけている。

 

 

祇園東のお茶屋は歓楽街に混じる形でこじんまりとして集まった印象。

実際に京都五花街の中でも一番規模は小さい。

2009年時点で

 

芸妓17名 舞妓6名 お茶屋12軒 こちらを参照)

 

という感じだ。

 

 

松川二郎が「安直主義」と断じているように、戦前の祇園乙部は芸妓と娼妓が同立の花街だった。

ここで昭和5年『全国遊郭案内』に紹介されている「祇園遊廓」の規模は

 

芸娼妓置屋は百卅軒、揚屋は約百軒、芸妓は二百人、娼妓は三十人

 

といった感じだが、これは恐らく乙部を指しているのではないか。

 

 

戦後については『全国女性街ガイド』でこう紹介されている。

 

芸者と女中の二本立てで、芸者といっても甲部からは格がぐっと落ち、東京でいう向島級。その数は五十四名......(中略)

これに対する女中は百三十二名......(後略)

 

ここでいう"女中"というのは"酌婦"と同義で、娼妓優位の赤線だった感じだ。

因みに、「祇園乙部」は「東新地」とも呼ばれていた。

 

 

昭和33年の売春防止法施行で赤線が廃止され、「祇園乙部」こと「祇園東」は純然たる芸妓のみの花街となって、現在に至る。

 

 

小規模ながら、お茶屋組合がある。

この祇園東も毎年「祇園をどり」が祇園会館で披露されている。

 

 

日中は観光客で賑わい、夜は夜でこれまた賑わうので、街並みに触れるなら早朝がいいね。

明け方の雨で濡れた石畳もまたいい風情だし。

 

因みに、京都には祇園甲部と祇園東の他に、宮川町、先斗町、上七軒とあわせて五花街が存在している(島原も含めて「六花街」とする場合もあり)。

既に他の花街にも過去の訪問で歩いているので、何れかはまとめて取り上げたいと思っている。

とりあえず、祇園の街並み編はここまで。

 

(訪問 2019年8月)