【千葉県】青春18きっぷ日帰り旅(2)千葉県銚子市202008・前編 | 日本あちこちめぐり”ささっぷる”

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休日に街をあてもなく歩き回って撮った下手糞な写真をだらだらと載せながら綴る、お散歩ブログ。
東京や近郊メインも、ごくまれに遠方にも出かけています。
観光案内には全くなっておりませんのであしからず。

漁師町の赤線跡/旅愁のローカル線終着駅/小さな岬の突端

 

 

青春18きっぷの日帰り旅、今回は関東の最東端にある千葉の最果て、銚子市。

東京から特急「しおさい」で2時間弱、しかし今回は18きっぷなので各駅を乗り継いで2時間半の旅。

何れにしても、ちょっとしたトリップだ。

 

 

 

千葉県北東部に位置し、東京都心から100㎞程、県庁所在地の千葉市からでも65㎞なので、通勤圏どころか辺境の街。

市の北側を利根川が流れ、太平洋へ注ぐ。

酒器の"おちょうし"と形が似ているので「銚子」という地名が付いたという説があるが、確かに徳利の形をしている。

 

 

 

銚子の二大産業といえば漁業と醤油。

現在も年間水揚げ量が全国一位を誇る銚子漁港を抱え、醤油もヤマサとヒゲタという二大大手メーカーを擁する。

そんな銚子だが、実はまた坂東三十三観音霊場の一つ飯沼観音(円福寺)の門前町として古くから繁栄してきた歴史を持つ。

その門前町の裏手には"精進落とし"の場として遊里が存在し、やがて戦前から戦後にかけて漁師相手の私娼街、そして赤線へつながっていく。

その赤線跡が現在の田中町辺りである。

因みに、銚子の一つ手前の松岸には公許の遊廓が存在していた。

あちらは格式高い遊里だったそうだが、今ではほとんど遺構は残っていないらしい。

まあ、時間がなく立ち寄らなかったが。

そんなわけで、田中町界隈は私娼街からの流れで赤線となった色街で、現在もその命脈が保たれた盛り場になっている。

まずはそのあたりの散策からスタートだ。

 

 

 

銚子は都心と比べてさほど猛暑になることはないが、それでも日差しが強く暑いのは変わらない。

そんなわけで銚子駅から徒歩でなくバスバスで移動。

まずは件の飯沼観音から。

創建は古く、弘仁年間に弘法大師こと空海がこの地に訪れて開山したと伝えられている。

境内に本堂と五重塔が聳えるが、見た感じ古くない。

それもその筈で、銚子市街地は昭和20年7月の空襲で大半が焼失してしまっているのだ。

戦災で焼失した本堂は戦後になって再建されたもので、五重塔に至っては平成21年に新たに建立されたものなのだ。

 

 

 

門前町の商店街はどの店もシャッターが下りていて、人通りがほとんどない。

コロナの影響もあるだろうが、それだけではなさそうだ。

 

 

 

和洋折衷の町家が残っていて、戦前かと思わせる佇まいだが、実は昭和28年と戦後に建てられたもの。

この「礒角商店」は江戸時代から続く廻船問屋で、国登録有形文化財指定を受けている。

利根川河口にあり、古くから漁業が盛んにおこなわれていたが、江戸時代に入ると東回り航路の寄港地、さらには利根川水運の基点として物資の集積地としても繁栄した。

 

 

 

すぐ近くの銚子漁港に出る。

漁港と言っても海ではなく、利根川河口の一部なのだが。

向こうに見えるのが銚子大橋で、対岸は茨城県だ。

 

 

 

さて、いよいよ今回の目的地である田中町へ。

閑静な住宅街にぽつんと飲み屋の看板。

 

 

 

田中町と隣接する和田町に飲み屋が多く集まっている。

 

 

 

こちらは現役を退いている感じか。

 

 

 

『赤線跡を歩く』では著者の木村聡氏が巻末で銚子の赤線跡を散策しているルポが掲載されている。

訪れたのが1997年なので、20年以上も前の話だ。

 

 

 

その中で木村氏は

 

丁字路や袋小路、カギの手になっているところもあって、いかにも旧赤線らしい町並みが続くが、見たところ、往時の建物は一軒も残っていないようだった。

 

とあるように、遺構を求めるのは無理だろう。

 

 

 

辛うじて、左手に見える建物がカフェーっぽい佇まいに見えるぐらいか。

あとは荒くれ漁師相手の飲み屋が現役廃墟入り混じって残っているぐらいだ。

 

 

 

『全国女性街ガイド』にある銚子の項を抜粋する。

 

荒っぽい特飲である。

「にしゃ、あんでいかねぇだよ。てっぱつな品物のくせしてよ。もたもたして、いかねぇと、げんつ、かっくらすど」……これを翻訳してみると「あなたは、なぜ早くいかないのです。そんな偉大な品物のおくせに、もそもそと遠慮勝になさらないで、早くいっていただかないと、拳骨を突き刺しますわョ」……である。

田中町に四十二軒、百七十余名。

 

 

 

一方、『赤線跡を歩く』の巻末で木村氏もこう書いている。

 

「千葉・美女めぐり」によれば、地方から流れてきた女性が多く、"魚河岸の石松みたいなゴム長アンちゃん"を相手にしているので気が荒く、店先での交渉も方言や符牒が飛び交って過激だったとある。

 

何しろ荒くれ者ばかりの海の男相手なので、女給たちの接客もそれなりに凄いものだったんだろう。

 

 

 

 

県道の向こう側に行くと、さらに濃い盛り場に出くわす。

 

 

 

こちら側の方が店の数が多い気がする。

 

 

 

この辺りは今でも漁師たちの夜の街になっているようだ。

 

 

 

日中は人っ気がなく、ゆるい時間と空間が流れているが、夜となれば一変するのだろうか。

 

 

 

これは遺構なのかな?

 

 

 

店構えも看板に書かれている名前もエスニックな感じが多め。

どうやらここも"じゃぱゆきさん"に占拠されている感じなのだろう。

聞く話だと、"連れ出し"の店も少なくない様だが、詳しいことは各自ググってもらいたい。

 

 

 

何しろ、近年は銚子でも漁師の後継者不足に悩まされており、働き手の中心は出稼ぎ外国人になっているようだ。

往時は10万にも迫る勢いだった銚子市の人口も、現在は6万4千人、人口減少率は県内でも最下位だという。

近年は北海道の夕張並みに財政破綻寸前とまで言われているほどだ。

 

 

 

そんな規模にまで陥っている銚子だが、盛り場はそれに反して規模が大きい。

しかし、果たしてやっていけるんだろうか、寧ろそっちの方が心配だ。

 

そんなわけで跡地を歩いて残り香を感じるという目的で訪れたが今後の先行きに不安を覚えた銚子の赤線跡散策だった。

田中町を後にして、次回はあの電車に乗って漁村の町並みを歩く。

 

 

 

 

[202008]