Leonora Spangenberger (11) plays Fuge BWV 998 by J. S. Bach on a 2004 Curt Claus Voigt
Leonora Spangenberger (11) plays Fuge BWV 998 by J. S. Bach on a 2004 Curt Claus Voigt
時空の窓
この窓から出るとあなたの生きたい時間、時代に行けます。今は会えないあの人にも会える
久しぶりの更新となる。ツイッターをやるようになってから日々考えて気づいたことをツイッターに書くようになり、結局僕の書きたいという願望がそっちの方で満たされてしまいブログの方が書けなくなっていた。でも、これからは前のようにブログ中心に戻したいと思っている。
といっても特に書くことはないのだが(笑)やはり大河ドラマのどうする家康を見てちょっと思いついたことを書いてみたい。
例の数正の出奔についてちょっと思いついたことを書きたい。これは本能寺の変と並んで戦国時代の大きな謎とされている事らしい。それはそうだろう、やがては天下を取る家康の腹心中の腹心、酒井忠次と並んで双璧といわれた人物がいきなり家康のもとを去り秀吉の傘下になったのだから。
この真の理由については資料が残っておらず、いまでもわかってないという。
本能寺の変と同じくいろいろと推測はされているが、そのどれも決定的なものはないといわれている。
僕は研究者ではないので資料を読み漁ったりとかはしてない。ただざぁーっと動画を見ただけだ。
これも本能寺の変と同じでどれももっともらしくて、当たっているかもしれないし、当たっていないかもしれない…結果が数正が出奔したというだけのことなので本能寺の原因と推測されていることほど奇抜で突拍子もない原因というものはないが、僕の眼にはそのどれも「核心」からは外れているのではないかと思うのだ。
ただ、本能寺の変の原因と共通する部分があると僕が感じるのは、この手の謀反というものはその核心部に行けば行くほど理性というものだけで割り切れるものではなく、かなり人間心理の深奥にまで入っていかないと説明ができないのではないか、ということ。
ただし破滅的な結果になることがほぼわかっている本能寺を起こした光秀の場合と違い、数正の出奔の場合は一応出奔後の待遇は秀吉から約束されていただろうから、そこには光秀の心理よりもより理性的な動機の割合が高かったのは間違いないだろう。
が……僕はそれら理性的な動機はその本質的な動機とくらべれば所詮間接的なものでしかないと思う。
というのも、どれだけもっともらしい理由を挙げたとしても、一介の家臣、武将ならともかく、当時家康の腹心中の腹心であり、文字通り右腕であった数正がその主の元を離れるというのは、尋常なことではない。いまでいう会社員の転職とはその決断の重みが全然、格段に違う。
この出奔の動機を探る動画もいくつか見たが、その中で一本だけ築山殿と信康の事件をにおわせたものがあったが、軽くにおわせたのみでその動画の作者自身それはないだろうという感覚でしゃべっていたように記憶する。
まぁ、たしかに特に男性はそうだと思うが、この種の謀反には当然政治的、理性的な理由が中心にあるはずで過去の感情的な怨恨などは関係ないか、あったとしてもわずかな影響しかないだろうと考えると思う。
でも僕は逆に人間が理性的にはあり得ないようなことをやる場合には、その核心部には非常に心理的、情緒的な動機があるはずだと思う。
つまり、多くの人が関係ないと軽視しているこの築山殿と信康の死と数正の出奔は、その奥の奥、深層部ではつながっているのではないかと思うのだ。家康が信康、築山殿を亡き者にしたことに関しては、おそらくはそこにそうせざるを得ない理由があり、家康自身も苦渋の決断だったと僕は考えるし、たぶん数正もそれに関してはやむを得なかったと思っていたに違いない。
ただ、僕にとってひとつひっかかるのは築山殿と信康が家康から死を賜った理由であるといわれる謀反の疑いだが、それに数正がどの程度噛んでいたのかということだ。
僕はおそらくだが家康も理性的な部分では否定しつつも、そのことはこころのかたすみにずっとあったのではないかと考えている。もちろん、この事件のあとも家康はずっと数正を重用し続けたので、表向きには関係はないと割り切っていただろう。
だが、人のこころというのは思いのほか複雑なものである。
秀吉の和睦交渉は、小牧長久手の戦いが実際に干戈を交えた戦いだったとすれば、その後の交渉は家康と秀吉の心理戦といっていいものであり、天下分け目の戦いの第二幕だったと僕は考える。それは難航し、一歩選択を間違えれば家康自身が滅びたかもしれないぐらいきわどい「戦い」だった。その「戦い」の主役をまかされた数正だが、ドラマでも描かれていた通りまともに再び戦場で戦えば、力関係から言って勝敗は明らかであり、ぜったいにそれは避けなければならないと考えたと僕も思う。
注目したいのはこの時の三者の心理である。
秀吉は何とか家康を大阪に呼び出して諸大名の前で自分に臣従したということを見せつけたいとおもい、数正もそうしなければ徳川家は滅びると思っていた、家康はおそらく基本的には数正と同じ考えだったに違いない。ただ一つの懸念点は秀吉のその意志が真実なのかということだったのではないか。つまり、そうみせて上洛した家康を捕らえ殺害するのではないかという危惧があったと思う。
その際、家康の脳裏にふと浮かんだのが、築山殿、信康の謀反の疑惑と数正とのかかわりについてではなかったかと…僕は考えるのだ。上述したとおり、数正がこの事件にどこまで噛んでいたのかということ、『もし』深く嚙んでいたのであれば、家康は数正が秀吉に調略されて家康を呼び出し、家康を亡き者にすることに加担しているのではないか……という考えがたとえかすかにしても胸をよぎったとしても不思議ではない。
そこに数正出奔の核心的な理由が隠されているのではないか、という思いが僕のなかにかなり大きく無視できないものとしてある。
つまり、家康とのやり取りの過程のどこかで家康のその心理に数正が気づいたのではないか、そして数正は自分を信じていると思っていた家康のその心の奥底には自分へのたとえかすかなものではあっても疑念があるということを知り、絶望し、もはや主従の契りを切らざるを得ないというところまで追い詰められたのではないか。
もちろんそのような疑念を抱いていたのはおそらく家康だけではなく、数正と築山殿、信康との深いつながりをよくしる家臣たちの心の中にも同じ疑念が芽生え始め、どことなく数正を見る目が変わってきた…結局そういった周りの変化全体に数正は心理的に追い詰められ、最後には身の危険まで感じ始めたのではないか、というのが僕の仮説である。
数正にそのような叛意がなかったことは歴史が示すとおりであり、家康がそんな疑念を持つことはあり得ないと思うかもしれないが、それは歴史を後付けで見るからそう思うのであって、実際にリアルタイムで進行していた時にはそのような疑念が家康の心中に生じたとしても不思議ではない。
もし、僕のこの仮説が真実に近いのであれば、それは数正にとっても家康にとっても悲劇的なことだろう。家康だって好きで自分の忠臣を疑いたくはなかっただろうからだ。
通常、この出奔の理由として挙げられているいわゆる政治的な理由だけであれば、はたして数正は出奔までするだろうか?それだけでそれまでの徳川家中枢部にいた地位をなげうってまで、出奔などという実際には秀吉が自分をどのように扱うかわからない不安定な状況の中に自ら飛び込んでいくだろうか?もし徳川家中の中でそれ以降冷や飯を食うことになったとしても、巻き返しのチャンスはいくらでもあったはずだ。老練な数正がそんなことをわかっていないはずはない。
これほどのことをするには、やはり、数正と家康の間にあると数正が信じていた『信』に現実にはひびが入っていたということに数正が気づいたことからうまれる絶望以外に考えにくい、と僕は考える。
この仮説はもちろん資料の裏付けなどないし、あくまで推測の域を出ない。
しかし、僕はここに彼の出奔理由の主要な核心を見る、人間の心理の現れようというものを考えるとそう思えてならないのだ。
ターナー
湖に沈む夕日
国立新美術館でひらかれている Light テート美術館展を見てきた。
というかターナーを見に行ってきたといっていい。美術の歴史にくわしくない人(僕も含めて)ターナーっていうとその絵を見る限り印象派なのではないかと思っているひともいると思う。でも、ターナーはモネよりも65歳も年上なのだ!印象派がはじまる約30年も前にこんな絵を描いている。芸術の世界では普通こういうことは同時期に起こることなのでとても不思議に見える。
今ターナーのいろんな絵を見ながら思ったのだが、この絵はカラーで描いた水墨画ではないか、ということ。そういうふうにとらえると、東洋の水墨画は印象派をさかのぼること数世紀、ターナーよりもはるかに前に印象派的世界を創造しているということになる。
そうおもうと僕らアジアの美術愛好家はもうすこし東洋美術というものの偉大さについて自覚していいのではないか。
ジョセフ・ライト オブ ダービー
トスカーナの海岸の灯台と月光
そして今回、僕が最も興味を持ったのがこの作品、ジョセフ・ライト・オブ・ダービーという画家の作品だが、この光の扱われ方に目を奪われた。
ターナーの場合は光を心のフィルターを通してより抽象化して描いているが、この人の場合、より写実的で実際に僕らに目に見える世界に近い描き方をしている。ただ、現実の光よりも強く強調されていて、それがある種の異様な神秘性を生み出している。ただ、残念ながらこの写真ではそれがはっきりと伝わってこない。それを感じ取るには本物をみてもらうしかない……
もしかすると僕が当日スマホで撮影した写真の方がその辺のことがよくわかるかもしれないので、下に載せておきます。もちろんこの作品は撮影が許可されています。
僕がこの絵を見て驚いたのは、まるで本当に光源が絵の中にあってそこから四方八方に光が照射されているように見えることだ。もちろんそれは光源(この場合は月)の位置と、それが反射する山や港、海の位置、角度によって濃淡をつけているからであることは言うまでもない。こうやって文字に書いてしまえばそれだけのことなのだが、実際に眼の前で見ているとそんなに単純ではないようにおもえる。
光がそこかしこに偏在している、その偏在の仕方が実に精緻でしかもはっきりと実体を持っていて、光の粒子の一粒一粒が見えるようなのだ。
たぶん、絵を描くうえでなにを描くのが一番難しいかというとやはり光だと思う。明白な形を持たず、そこここに偏在しているからだ。つまり、光を描くということは「はっきりと形のないものを描く」ということになる。
この絵を見ていると、その偏在している光の「実在性」とでもいうのだろうか、それを感じるのだ。しかもそれが肉眼で見るよりも強調されているので、独特の神秘性を生み出している。
ターナーにしても、このジョセフ・ライトにしても、印象派の画家たち、そしてあの光の魔術師、フェルメールにしても、レンブラントにしても、また、日本や中国の高名な水墨画家にしても、後世に名を遺す画家というのはすべてこの「見えないものを見せる」ことに関して卓越した、ほとんど神がかりな力を持っている。
見えないものをどうやって描くのか……こうやって目の前にあるから描いたことは間違いない、間違いないが、どうやって?
この問いにはっきりと答えられる人はいるだろうか?たぶんだがそれを言葉で答えられる人はいないと思う。
彼らだって絵を学び始めて間もないころはもちろんできなかったに違いない、が、その技量がある一線を越える段階に来ると「自然に」その境界線をまたいでいたのではないだろうか、彼ら自身も気づかないうちに。
いろんな芸術の表現形態がある中で、絵と音楽はとくに創作者のその神がかり的な偉大さを感じ取ることができる分野だ。視覚と聴覚という人間のもっともはっきりと認識できる感覚器官で感じ取ることができるからだ。目に見えないものを見せ、耳に聞こえない音をきかせる…でも一体どうやって…