コロナ禍の中 アルベール・カミュ「ペスト」を読む

世の中ラグビーどころではありません。
ラグビーのない週末はどう過ごして良いのか困ります。

コロナウィルスが猛威を振るい、日本も緊急事態宣言、ロックダウンが行われるかという瀬戸際です。既にイタリアを始めヨーロッパ各地やアメリカでは医療崩壊を起こしてしまっています。

どこも出かけられません。こうなったら自宅でコロナに負けないように過ごすしかありません。さしあたってカミュの「ペスト」を読み直してみました。今この時期に同時進行で読むことに価値があると思います。

小説「ペスト」とカミュ

小説「ペスト」の作者、アルベールカミュは、フランス領アルジェリア出身。「異邦人」などの不条理小説で知られ、57年にはノーベル文学賞を受賞した。有名な作品には「異邦人」がある。
この小説「ペスト」は1947年戦後まもなく出版されベストセラーになった。不条理な状況に直面した個人や社会がどのような行動をとるのかが描かれている。まざに今現在がそのような状況の真っ只中であり、この小説にあるようなことが起こっているのである。

現在、アマゾンでも品薄状態である。
私は運よく手に入れることができたので再度読み返して見た次第である。

昨年NHKのEテレの「100分で名著」でも紹介された。こと時はまさかコロナ騒ぎが起こるなど知る由もなかった。

3月にNHKラジオの新番組「高橋源一郎の飛ぶ教室」のプレ授業でも紹介された。この内容は、NHKのらじるらじるでもまだ聞くことができる。
こちらでどうそ

 

小説「ペスト」の概要

時は1940年代、舞台はフランス領アルジェリアの実在の都市オラン。ここで最初に一匹のネズミの死骸が発見されるところから話は始まる。

登場人物は医師リウー(最初にペストと見定める)、よそ者で謎の人物タルー(彼は克明に手帳に状況を記入している)、作家志望で下っ端の役人のグラン。新聞記者で裏の手で街から逃げ出そうとしたランベール。犯罪者で自殺未遂のコタールなど。

彼らが、ペストという不条理を突きつけられた時にどう考えどう行動したかが語られる。あたかもノンフィクションの様な語り口である。

最初の病気の広がり方の描写から、閉鎖された街の中だけの生活、ペストの恐怖と直面した生活の中で(いやそういう極限状態だからこそ)、宗教、死刑制度の是非、自己犠牲、希望とは、絶望とは、個人とは社会とはなど、それらがいかなるものかがより鮮明に見えてくる。

リアルすぎて目を背けたくなる詳細な描写もある。何の罪もない子供の最後の場面、埋葬の仕方の考えられない変化、劇場での劇中の役者の発病など。

この小説、実はもう一人の重要人物がいる。それは、この語り手そのものである。

この小説は最低2度は読むべきでである。1度目はこの本の語り手が一体何者なのかを考えながら読む。そして最後の方で筆者が誰なのか明かされるので、それを知った上で2度目を読むと良い。そうすると、筆者の視点や観察や論理がまた違った形でよく理解できる様になっているようになっている。

 

小説「ペスト」とコロナ禍共通点

現状の新型コロナ禍と小説ペストの共通点と相似点。それは、不条理に直面した時、人間や組織の不条理に対しての向き合い方である。そしてそれは、時がたち状況が変わる中で、その向き合い方が変わってくるという点、さらにその変わり方の点でも小説と現実のコロナ禍は全く一緒である。

カミュはあたかも予測したかもようである。いやいつの時代でも人間の本質は変わらないのかもしれない。それをカミュは描きだしただけかもしれない。

それはこうである。

最初は他人事、次に軽いものだと思い込む、そして、自分だけは大丈夫だと考える、さらに自分だけが助かれば良いと考える。しかしそれから、個人から共同体としての意識に変わり始め、共同体の中での規範に準拠する様になる。そして個人で何ができるか、役に立ちたいと考え始める。そして、最後にその禍が過ぎてしまえば、何事もなかった様に忘れ浮かれてしまう。

もちろん、こういう様にならない人もいる。不条理に直面した時に、その人の持つ本性が現れる。ダメ奴は最後までダメで終わる。もちろん組織体の方もその本性も露呈する。

今回のコロナ禍。最初は中国だけの話、クルーズ船の中の話と思っていた。他人事であった。しかし、マスクやトイレットペーパーが買い占められる。お花見気分で人だかりで騒ぐ、夜の飲食店で騒ぐ、マスクの着用は人からうつされないための予防策でしかなかった、しかし、志村けんさんの死去のニュースから、抽象性はいきなり具体性を持った。この時点から人の行動が変わり始めている。マスク着用は人に移さないための共通認知行動になってきた。日本ではやっと共同体としての行動規範が形成されつつある。

行政はいつでも判断や決断が遅くなる点も同様である。さらに病院の機能低下、オーバーシュートに至る点も、既に小説に描かれている。

小説「ペスト」と日本でのコロナ禍相違点

何点かは違っているところがあるが、現実のコロナ禍は、既にこの小説よりもよりな何倍も悲惨な状況になってしまっているところにある。

1点目、最も違っているところは、当然ながら小説ではペストであるが、現実は新コロナウィルスであるところである。
ある意味では、現状のコロナウィルスの不条理の方が未知であり、その不条理は手が込んでいて、その恐怖が大きい。

ペストは過去何度も人類が経験した伝染病であり、16世紀には爆発的に拡大した。これは黒死病とよばれ、ヨーロッパの全人口の30%から60%が死亡した。その時ななぜか現在最も過酷な状況に置かれているミラノだけはその猛威から免れたが、数年後ミラノのカーニバルでその予防策に緩みが出たのをきっかけに、ミラノで大流行を巻き起こしたという歴史もある。さらに20世紀に入ってからも、数年おきに世界中のどこかでペストは流行している。要はペストは非常に恐ろしいものであるという共通認識がある。ネズミからノミ、ノミから人間、人間から人間という感染ルートもわかってる。

小説はそういう共有認識の中でのペストの発生であるに比べ、現実の新コロナは全く未知の伝染病である。最近になって人から人へは飛沫感染であると解ってきて、密集、密接、密閉空間での感染がわかってきたばかりである。

さらにペストと違うのは、ペストは致死率が70%以上であることである。ペストにかかってしまえばもうほとんど助からない。これは非常に怖い。一方のコロナの死亡率重篤率は低い。しかし、持病や高齢者はあっという間に重篤化する。さらに健康な保菌者がいるという点が非常に厄介である。活動や移動が活発な若い世代の多くは、コロナ保菌者であっても症状は出ないか軽い。これが感染拡大を招いてしまっている。一方のペストの場合は保菌者はすぐに動けなくなるので、隔離はしやすい。

小説のオラン市は、市が閉鎖されたのち、映画館やカフェが逆に人が増え大儲けしてしまう。ここが今のコロナと全く違う。

小説では、逃げ出そうと考えているランベールが人でぎゅうぎゅうの飲み屋で、リユウやタルーとの会話をする場面なども出てくる。この会話がきっかけとなり、さらにランベールはその店でかかっていたブールスの曲「セントジェームス病院」のレコードを自宅で何遍も聴きながら徐々に考え方を変えていくことになるのだが…。
(私はこの後を読みながらも「セントジェームス病院」の強烈なテーマが頭の中でリフレインしていました)

現実のコロナではこのような夜の出会いが疎外されている、小説がもしコロナだったら、その機会さえできなかったのではないだろうか。

2点目として、次に違っている点は
小説では、ペストと解った瞬間、すぐに街がロックダウンされたこと。このため、物語は街の中だけで推移する。もともとヨーロッパの都市は都市国家であり、都市とそれ以外は明確に城塞で区分されていた。そのように都市は成り立っていた。だからロックダウンは非常に有効な手段であった。しかし現代の都市の規模や広がりは全く違う。交通手段も違うし、ロックダウンしたとしても抜け道だらけになってしまう。コロナ禍は既に世界中に広がってしまっている。中国の武漢市だけでなく、世界中でロックダウンが手遅れになってしまっている点である。

最後にもう一つ違う点は、この小説は日本とは違うヨーロッパ、カソリックの国の出来事である点である。日本では宗教観の違いから自然の驚異の捉え方、死刑制度や自殺など死にどう向き合うかなどの倫理観や行動規範などが違っている。日本人は事業がうまくいかないとして自殺してしまうように経済や金が先に立ってしまうが、カソリックではこんなことは考えられない。経済や金は二の次である、大事なのは、まず命、家族である。
日本人の死生観は、死んだら輪廻転成で自然界の色々なものに生まれ変わり、命は繋がっていくと考える。それを受け入れる。カソリックでは天国と地獄の間に煉獄があり、天国へ行けないものはそこでさらに厳しい修行をし、それを終えられたら天国へ行けるというものである。宗教が全てでもある。天国へ行くために、良き行いをすべきとされる。

しかし、カミュはキリスト教は否定する。

不条理に明確な意志を持って見つめ立ち向かうことを「対抗」と言う言葉にした。「永遠の敗北」と解っていても対抗することに意味を持つと考える。

日本人の多くはじっとこらえて目を背け、通り過ぎるのを待つことだろう。いつかは状況が良くなるとまだ信じている。

そして、過ぎ去ってしまえばそんことを忘れてしまうのでないだろうか。

まとめ

医療従事者、行政当局者などは、文字通りコロナと奮闘している。ギリギリの状況。頭の下がる思いである。
しかし、私たちのような普通の人に何ができるのか?
リユウのように「保健隊」を組織して戦うことができるのか?確かにそれも難しい。

コロナに立ち向かうということは、そういう直接的なこと以外にもたくさんある。まずできることは、コロナに向かい合って、起こっている現象から、目を背けないことである。さまざなまことを考え、自分をそして社会を見つめ直し、それを見定め、体験を得、記憶を得、教訓を得ることである。ただ生き残るだけでなく(もしかして死ぬことになろうとも)人間として最後の最後まで、成長してやることである。要するにただじゃ済まされないようにすることである。多くの死を無駄にしないことである。

まずはカミュの「ペスト」を読むことを勧める。

 

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