『ニッポンの書評』豊崎由美【感想】書評と評論の違いとは。

内容(公式サイトから引用)

 書評術を説く本には、「粗筋は丁寧に、しかし、簡潔に。たとえば一六〇〇字の書評を請け負ったら、ストーリー紹介は六〇〇字程度にとどめるのがよい」といった常識が説かれていますし、かつてのわたしもそう考えていました。でも、今は少し違った考えを持っています。粗筋紹介も〝評〟のうちだと思うようになったのです。
 というのも、本の内容を正確に深く理解している書き手による粗筋紹介と、トンチンカンな解釈しかできていない書き手の粗筋紹介は「これが同じ本について書いたものなのか」というほど違うからです。(略)つまり極端な話、粗筋と引用だけで成立していて、自分の読解をまったく書かない原稿があったとしても、その内容と方法と文章が見事でありさえすれば立派な書評だと今のわたしは考えているのです。 

(光文社公式サイトより)

[prpsay img=”http://gamesukio.com/books/wp-content/uploads/2019/04/IMG_4369.png” name=”げいむすきお”]

 私はこの「ゲームの合間に読書でも。」というブログについて話をするとき「書評ブログだ」とは言えないでいる。それは書評という言葉にどこかしら上から目線の偉そうな響きを感じているからだ。

『書を評する』。言葉が重い。他人様が苦労して綴りあげた書を評するなど、読書量が少なく書に対する深い知識がなく、知識から離れた所にある何かを受け止める感性もない私には到底出来ない。ただ、好き嫌いを語ることならできる。知識も感性も持たない人間はこう受け止めるのだと知らせることは出来る。それが書を選ぶときの参考になったりはしないだろうかと考えている。そこで「読書ブログで書評的なものを書いて本を紹介している」と説明している。(記事のカテゴリやタグは、「書評」ということにしているがあくまで便宜上そうしているだけだ)

「書評ではないんだ。書評的なものなんだ」と予防線をはってはいるものの色々と悩むところはある。ネタバレはどこまで許容されるのか? あまり褒めて書きすぎると、それを見て実際に読んでくれた人が「期待したものと違う。騙された」とならないだろうか? 本を買わせてアフィリエイトで儲けるために宣伝しているだけと思われないだろうか?

 それらの答えを探して書評に関する本をいくつか読んでいる。これはその中の一冊。

 ちなみに小説に対しては書評的なものを意識して書いているが、実用書に関しては別だ。実用書は本当に実用的な書なのかどうかを内容に踏み込みながら紹介する形にしている。そのため、実用書に分類されるこの書籍に関しても、気になったところを抜き出し、ネタばらしをしながらそのことに関する感想を書くという形にしている。そのため、記事のカテゴリーも「総括・感想」だ。[/prpsay]

『ニッポンの書評』はこんな内容

目次

第1講 大八車(小説)をおすことが書評家の役目

第2講 粗筋紹介も立派な書評

第3講 書評の「読み物」としての面白さ

第4講 書評の文字数

第5講 日本と海外、書評の違い

第6講「ネタばらし」はどこまで許されるのか

第7講「ネタばらし」問題 日本篇

第8講 書評の読み比べ──その人にしか書けない書評とは

第9講「援用」は両刃の剣──『聖家族』評読み比べ

第10講 プロの書評と感想文の違い

第11講 Amazonのカスタマーレビュー

第12講 新聞書評を採点してみる

第13講『1Q84』一・二巻の書評読み比べ

第14講 引き続き、『1Q84』の書評をめぐって

第15講 トヨザキ流書評の書き方

対談 ガラパゴス的ニッポンの書評──その来歴と行方 豊崎由美×大澤聡

『ニッポンの書評』目次

作者の経歴

 まず、作者の立ち位置を理解するために、著者豊崎由美の経歴。

わたしは自分のアイデンティティとしては、叩き上げのライターだと認識しています。ポルノ雑誌からはじめて、女性誌でインタビューをしたり、座談会記事の構成をしたり、特集記事の取材をしたり。そういう仕事を続けていたら、いつのまにか書評欄をもらえるようになっていたんです。「書評家になりたい」と思ったことは一度もないんですよ、ほんとに。諸々の仕事の延長線上に書評があった。””ネットを見ていると、「豊崎なんて書評が上手いわけじゃない。昔からライターとして上手く立ち回ってきただけだろ」とかいう批判が散見されるんですね。まぁ、そう毒づきたくなる気持ちはわからないでもない。ですが、立ち回ったつもりはないんです。ライターとして誠実に目の前の仕事をこなしてきただけ。”
 ライターとして仕事をこなしていたら「CREA」という雑誌にページがもらえたため、「豊崎由美の何を読もうか」という連載を開始して、そこで三冊の本を紹介し続けたら、その後女性誌の書評の仕事がもらえるようになったのことだ。

書評とはなにか?

 著者は”「これが正しい書評のあり方だ」なんて考えはありません。”と断りながら、書評家に関してはこう表現している。”わたしはよく小説を大八車にたとえます。小説を乗せた大八車の両輪を担うのが作家と批評家で、前で車を引っ張るのが編集者(出版社)。そして、書評家はそれを後ろから押す役目を担っていると思っているのです。

 これからわかることはいくつかある。

  1. 批評家と書評家は別のものとしている。
  2. 批評家と作家は大八車の両輪、つまり同列にいる。
  3. 書評家と編集者はサポートする役目として同列にいる。

 批評は”当該作品の構造を分析し、その作品が現在書かれる意味と意義を長文によって明らかにする“もので、書評は”これは素晴らしいと思える作品を一人でも多くの読者にわかりやすい言葉で紹介する“ものと考えているようだ。

 作家が作った世界を批評家が説明することで、読者は作品をより理解し楽しむことが出来るようになるので、作家と批評家は「作品そのものを楽しませる役目」として同列で、編集者と書評家は「読者が作品を手にするところまでをサポートする役目」として同列にいるという形だろうか。

 そういったわけで、書評は「読者が作品を手に取るようにする役目」と考えているから「ネタばらしをしてしまって読者の興をそがないように最新の注意を払わなければいけない」という主張になっている。

 私が知りたいのはまさにそこだ。ネタバレ問題。書評でどこまで書いていいものなのだろうか。

ネタバレはどこまで許容される?

 海外の書評ではバンバンネタばらしをしても、だれも文句は言わないらしい。ただ、日本的な書評観に染まっている著者からすると”それって、どうよ“となるそうだ。
 私はまさにその「それって、どうよ」となる基準が知りたかった。私の中ではここが一番の山場だ。

 著者の書評に対して「これはネタばらしだ」と指摘された際、納得できたケースと納得できなかったケースを紹介してくれている。

ネタばらしだと指摘され納得できたケース

 ミステリブーム真っ只中の90年代。ミステリマガジンで「マゴット」の書評を寄稿した所、それを読んだ池上冬樹から”マゴットが何であるのかを書かれたら、読む気が起きなくなる“という理由で注意を受けた。当時の著者は”『マゴット』はネタばらされたからって、つまんなくなるような脆弱な小説じゃねえよ“と注意を受けたことを不思議に思ったものの、レビュー界の先輩の発言だけにびびってネタばらしに気を遣うようにしていたら”レビュアーはこれからその本を読む人の読書の興をそいではならない。勘所を明かさないで、その本の魅力を伝えるのがレビュアーの芸である“という考えに変容していったとのことだ。

ネタばらしだと指摘され納得できなかったケース

 著書の書評に”驚愕の展開が六四一ページ以降に待ちかまえているのだ“の一言が含まれるものがあった。それを読んだ友人に”ラストに驚きがしかけられてることは明かしてほしくなかったなあ“と言われてしまう。言われた当時”それも書いちゃいけなかったら、書評の”評”の部分をどうしたらいいわけ?“とふてくされた、とのことだ。今なら”そうだね。もうちょっとボカした書き方が出来るはずだよね“と答えられるようになったものの、それでも”わかってても、つい手柄を取りたくなっちゃうの。「このくらい許して」って甘えたくなっちゃうの“となるそうだ。
 作品への思いが強すぎると、その作品がどれだけすごいかを言わずにはいられない気持ちになるようだ。

 私が思い悩んでいるのもそこだった。その作品の魅力を語るときに「ここが面白かった」とダイレクトに言ってしまうとネタバレしてしまう。自分と同じように感動を味わって欲しいが為に読んでもらおうと語っているのに、その語りでネタばらしをして、初読時の感動が軽減してしまうなら本末転倒だ。

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 書評の話とは少し違うが、ネタバレに関して言うと、叙述トリックが好きという人にどうやって叙述トリックを使った作品を紹介すればいいのかという問題がある。「叙述トリック好きならこの作品がいいよ」と紹介したら、その段階でその作品が叙述トリックをつかっているというネタバレをしている。

 とくに叙述トリックが好きな人であれば、それを疑ってかかる傾向があると思うので、叙述トリックが使われていると知りつつ読めば、途中でトリックがバレるリスクが高い。章が変わったあとで、登場人物の名前、場所、時間などがはっきりと出ないままに話が進むと、あれとこれは本当に同一人物だろうか、時間の流れは同じだろうか、同じ場所の話だろうか、と最初から疑ってかかるだろう。そしてトリックに気付いてしまってはネタばらしのところでの驚きが軽減してしまう。叙述トリックが好きなら驚くべきところはしっかり驚きたいだろうと思うので、途中で気付いてしまうというのはとても残念なことだと言わざるを得ない。

 一度に何冊か紹介して、こっそり叙述トリックを使った作品をまぎれこませるしかないのだろうか。叙述トリックのように、相手の思考を上手く誘導して「叙述トリックが使われている作品ではない」と勘違いさせて、読ませる方法があればいいのに、と思う。[/prpsay]

結局、ネタばらしの基準は……

 どこからネタばらしかは人によって感じ方が違うため、普遍的に使える明確な基準なんて作れるわけはない。ただ、著者の考え方としては”レビュアーはこれからその本を読む人の読書の興をそいではならない。勘所を明かさないで、その本の魅力を伝えるのがレビュアーの芸である“ということのようだ。

[prpsay img=”http://gamesukio.com/books/wp-content/uploads/2019/04/IMG_4369.png” name=”げいむすきお”]

 私は別に書評家になりたいわけではないので、レビュアーとしての芸があろうがなかろうが関係ないが、書評は「本の魅力を伝えるためのもの」であり「これから読む人の興をそいではならない」というのはその通りだと思う。

“芸がないもの”がネタバレせずに、作品の魅力を伝えて作品を薦めるには、「読んだ結果どうだったか」を説明するしかないのかな、と思う。「私にはどういった経験があるから、どういう気持ちになって読めた」であるとか「私はどういう考え方が背景にあるから、どういう結論を得た」というように「どういう状態の人間がそれを読んだら、結果として感情や考え方にどんな変化があったか」を根拠にして「だから、どういう人にお薦めできる」のかを書けば、ネタバレのリスクを抑えて紹介できるかな、と思う。[/prpsay]

思い込みが激しそうな著者

[prpsay img=”http://gamesukio.com/books/wp-content/uploads/2019/04/IMG_4369.png” name=”げいむすきお”] 日本における書評について知りたかったので、十分にその目的は果たせたが、ところどころ著者の思い込みの激しさが垣間見られて「ん?」となる。特に気になったのは二つ。一つは「前田塁への反論」で、もう一つは「アマゾンのカスタマーレビューに関する出来事」だ。[/prpsay]

前田塁への反論

 話の流れはこうだ。
 まず、著者は”与えられる字数が少ない、締め切りまで間がない、ネタばらしが許されない。書評は随分と窮屈な文芸ジャンルです。と書くと、「じゃあ、批評を書けばいいじゃないか」と言う人がいます。”と、問題を提起する。それから”たとえば先ほど名前を出した前田塁は“と前田塁の発言を挙げる。”普段三〇〇字で書評をしても「なぜこれがいいの?」と聞かれたときには三万字使ってでもこたえられる、そんな書評家が増えたらいいと思いません?“”書評家を自任する人もときに長い批評を書いて、批評家を名乗っている人達を圧倒すれば、そのことで短い書評にも信頼がおけるし、逆に安直に信用されることもなくなると思うんですが“。これに対して著者は”批評が上で書評が下だと思っているのでしょうか。三万字が上で、三〇〇字が下だと思っているのでしょうか。私はそうは思いません。問われるべきはそれぞれのジャンルにおける質でありましょう“”長い批評を書かないから信用できないという物言いは受け入れられません“。

 確かに「長い批評を書ければ信用される」という言い方は、裏返せば「長い批評を書かなければ信用されない」ということになるが、前田塁が言いたいのはそこではないんじゃないか、と一読して感じた。「書評は批評と比較し文字数が少ない為に簡単に書けると誤解している人がいるから、その誤解を解きたければ制限を取っ払って書いたらいいんじゃないの?」位の感じじゃないかと思う。
 この本の別のところでは著者自身も書いている。”長さの問題で言うと、八〇〇字なら八〇〇字そのままのサイズの内容しか書けないんじゃダメだと思うんですよ。その背後には、四〇〇〇字を書けるほどの、その本や著者に関する知識なり、過去の作品への読書経験なりが必要。そうしたたくさんのバックボーンを削った先に八〇〇字がある。Amazonのカスタマーレビュアーや一般読者のブログ書評からはそれが見えてこないんですよね。やっぱり削ったものも見える人にはちゃんと見えるんですよ“と書いている。無論、これだけでは文字数だけの話で、批評である必要はないという話になるが、書評ではどうしたってネタばらしが出来ない。その縛りもとってしまうために批評を書いたらどうかと、前田塁は言っているんじゃないかと思う。
 著者レベルになると、三〇〇字の中に三万字分の情報が背後にあることをわからせることが出来るかもしれないが、みんながみんなそうではないので、そのレベルの書評家がもっと増えたらいいね、って話ではないのかと思う。

 その話の最後は”制約の多い書評と言う文芸ジャンルをその困難さゆえに愉しんで書いています。もっとスペースが与えられれば、よりいい書評が書けるのにと思ったことはありません。思ったら負けだと考えています。媒体の性格に合わせてかき分けるのも、ブックレビュアーとしての芸の見せ所だと思っています。それを”売文”だとか物書きとして”魂を売った”なんて考えたことはありません“と締められている。
 それはさすがに書評の目的がかわってきてやしないかと思う。「限られた紙面で本を紹介するという目的のために、その手段として書評家が芸を使う」という話だったはずが「書評家が自分の芸を見せるのが目的で、その手段として本を紹介する」という話みたいになっている。

 確かに、少ない文字数で、本の魅力を伝えられて、読者の興味を引けたら、それは素晴らしいことだ。しかし、だからといって、書評を読む人の多くは、少ない文字数であることを評価対象にはしない。
 普通はその本の評価を知りたくて読んでいるはずだ。もちろん、書評家にもファンがいて「その本のことが知りたくて書評を読んでいるんじゃない。その著者の記事が読みたいから読んでいるんだ」という人がいることも知っている。だからこそ、書評も文芸のジャンルの一つなんだというのはわかる。
 だが、多くの読者からすれば出版社も書評家も同じ側だ。三〇〇字という制限の書評は、書評家同士なら「出版社に提示された厳しい条件の中で、器用に仕事をこなしたね、すごい!」となるかもしれないが、それは全部そちち側の事情であって、こちら側の知ったことではない。「三〇〇字で書くならこれがベストだ」というのなら、「三〇〇字でのベストがこれなのはわかった。では、もし無限の紙面があって、ネタばらしも良しとして、書きたいことを書きまくって、もうこれ以上書くことがないという位書けたとしたら何を書くんだ。それを一遍読ませてくれよ。こっちも作品を読み終わってから読むから」となる。
 出版社の都合に合わせて器用に文章を書き分けることを売文だとか魂を売ったとか、普通の読者は言わない。それを言うのは同業者だろう。どれだけ同業者にいやなことを言われてきたんだよ、と思う。

 本の最後の大澤聡との対談でもそのことに触れられていて、よほど言われているらしくかなり気にしている様子だ。”市川真人(前田塁)さんもおっしゃるんですよね。「なぜ書評家たちは批評を書かないのか」って“”その意図はなくても、言われた側は「もっとこっちまで上がって来いよ」って言われたような気がしてガッカリしちゃう“。そして、これは著者ではなく対談相手の大澤聡の言葉だが”歴史的に分化した時点でそれは別個のものになったはずなんですよ。宛先もちがう。まったく別の能力が求められている。詩を長くしたからといって小説になるわけじゃない。それと同じこと。もちろん、両方出来てしまう人もいるけど、どちらかに特化した人がいたっていい“。

 SF、ミステリ、ホラー辺りを主ジャンルとするディーン・R. クーンツの「ベストセラー小説の書き方」に、「そろそろ純文学を書いたらどうかなどといわれて嫌になる」というようなことが書いてあったように思う。SF、ミステリ、ホラーよりも純文学が上だという意識が透けて見えるからいやなのだろう。それと同じことなのだろうとは思う。

 最後の最後に注釈で”後日、前田塁氏から「それは誤解です」と訂正を受けました“と書かれてあるが、誤解なのだとしたら正しくはどういう意味で言ったのかは書いていない。
 著者が怒っているから「それは誤解です」と前田塁が取り繕っただけなのか、言いっぱなしで全部前田塁が悪いんだということにすると前田塁氏側からクレームが来る可能性があるから訂正を受けたことだけは書いておくことにしたのか、それともそういう風に思わせるように、訂正を受けたとだけ書いてあえて詳細はかかなかったのか。多分「誤解です」とは言われたものの、誤解でもなんでもなかった、思った通りだったと、著者は思っているんじゃないかと思う。

書評と批評とで必要な能力は違うとしても……

 文字数、締め切り、ネタばらし問題の制限から、アウトプットに違いはあるものの、インプットに必要とされる能力は大体同じだと思うのだがどうだろうか。
 書評は販売促進を兼ねていて、話題になっているうちに素早く紹介しなければならず、そういった時間制限があるならのんびり精読している余裕はないだろうから、作品の評価がさだまってからでも遅くない批評とは、インプットにかけられる時間が大幅に違う。だから、そこに必要とされる能力に違いはあるだろうが、作品の本質、核となる部分を読み外さない能力はどちらも絶対必要だろうと思う。
 インプットの能力を確認するために、批評という形でのアウトプットをしてみせて「インプットは問題ないでしょ? 書評は制限が多いんだから、その制限に合わせたベストな形になるように書いているんだよ」と見せたらよい、と思う人がいてもおかしくないと思うのだが、それも許せないのだろうか。
 同業者は書評の難しさを知っているだろうが、一般読者には「書評は短いから簡単にかける」と誤解している人もいるだろう。書評の八〇〇字の背景にある四〇〇〇字を見通せない人にわからせてやってもいいんじゃないかと思う。

このことに関する私の結論

 逆に、批評家にも「普段三万字で批評をしても『絶対に外せないところはどこ?』と聞かれたときに三〇〇字だけしか使わなくてもこたえられる、そんな批評家が増えたらいいと思いません?」とは言ってみたい。

 ブログで書評的なものを書いた後に、文字数制限のあるSNSに書評的なものを投稿しようとすると、文字数を大幅に削らないといけない。メインに言いたいことを「これこれこうだ」と書けても、そう思った根拠を書く文字数が足りなくなったり、「これこれこうだ」と書いた方が正確だけど、文字数が足りないから言葉足らずになるけど読む人の読解力を信じて「こうだ」とだけ書こう、となったりする。普段長々と書いている批評家も三〇〇字の書評を書くことで「端的に書くこともできるんだよ」「ただだらだら書いているのではなく、読者に理解しやすいようにあえて言葉を費やしているんだよ」と示せばいいと思う。

 書評なら書評、批評なら批評で得意な方をしっかり書いてくれたらそれでいいが、違う形式でも書いてみてくれたら、その人への理解は深まると思う。

Amazonのカスタマーレビュー

 2009年2月17日のアサヒコムに掲載された記事についての話だ。
 Amazonのカスタマーレビューに一旦掲載された好意的なレビューが削除されたとして、「日本語が亡びるとき」の著者で作家の水村美苗が「削除理由について納得のいく説明がなく、公正さが疑われる」と批判した。「報告する」という文字をクリックするとレビューの削除を要請できるシステムがあり、それを悪用されたと考えられる。水村美苗は加えて「外部の意見で簡単にレビューが削除されるのではないか。こうした事実を利用者に明らかにせずに掲載しているのは、公共的な責任を果たしているとはいえない」とした。

 これに対して著者は”<レビュー欄には「報告をする」をクリックすると、削除を要請できる機能もある>ことを明示している以上、それによって<公共的な責任を果たしているとはいえない>という水村氏の最後の意見も的を射たものとはいいがたいように、わたしには思えます。水村氏の抗議は、氏の著書の営業妨害をせんと、好意的な評を消すべく「報告する」をクリックし続けた連中に本来向けられるべきなのですが、しかし、そういった連中は匿名の陰に隠れているのであぶりだせない。この記事を読んだ時、わたしが感じた違和感は、そこに集約するのです“としている。 「悪は裁かれるべき!」という思いが強すぎるように思う。システムを悪用する人間が一番悪いのは当然だが、悪用されるシステムを放置するのも同様に悪い。個人を攻撃して抑え込んだところで、第二、第三の人物が出てくるのは目に見えている。もぐらたたきのように忙しくなるだけだ。

 水村美苗がAmazonを批判するのは当然だろう。無責任に書けて、無責任に削除要請できるというシステムがおかしいんだから、文句を言う先はシステムだ。普通は削除要請をしても、妥当性のないものは要請自体をはねられると思う。しかし、実際はそうではなかった。システムの改善が難しいなら、単に削除を要請する機能がありますというだけではなく「簡単に削除されるシステムなので、レビューはあてになりません」ということがわかるようにしておくべきだ。システムを悪用した人間を特定するのは二の次、三の次だろう。

 Amazonレビューに関しては著者自身も思うところがあるようで、”悪意の垂れ流し”という項目名をつけて、話を広げる。作者はある日、Amazonレビューに作品へのリスペクト精神のかけらもない、単なる悪意だだ漏れの感想文を発見して呆然とする。それは朝倉かすみロコモーションに対して書かれたレビューだった。”しかも、こんな好き嫌いだけを指標にした感想文以下の文章を垂れ流す人が、Amazonのベスト100レビュアーだっていうんですから、「レビュー」ってのは世間的にかなりナメられたジャンルなんだということを再確認した次第なんであります“”粗筋紹介もひどけりゃ、文章も稚拙。しかも、ネタばらしという暴挙にまで及んでいる、このあまりにも心無い感想文に、おとなげないわたしは激怒“したそうだ。Amazonレビューはひどいものもあるので気持ちはわかる。”では、どうして、こんな浅い読みしかできず、幼稚な文章しか書けない人が「ベスト100レビュアー」に選ばれているかといえば、笑止としかいいようがないのですが、この人はこれまで(2009年3月18日現在)に一一六六本ものカスタマーレビューをアップしており、「参考になった」のクリックを七三三八回受けていて、それが全体で六一位──ただそれだけの理由からなんです。つまり、数多く書いたというだけの話“。

 そしてこれに対して、著者はAmazonに意見する。”ここで、Amazonにひとつアドバイスがあります。せめて「このレビューは参考になりましたか?」の「はい」に対するクリック数から「いいえ」に相当するクリック数を引いた数で順位をお決めになってはいかがでしょう。そのくらいの手間はおかけになるべきではないかと思う次第でございます“。

「そうでしょ?! 結局はAmazonに抗議するしか方法がないでしょ?!」水村氏のときは削除要請したやつが悪いんだからAmazonに抗議するのはおかしいかのように言っておきながら、やっぱりAmazonに抗議する著者。 ベスト100レビュアー の選出のされ方もAmazonのサイトにきちんと明記されているんだから、Amazonに不満を言うのは的外れだという方の立場じゃなかったのか。

 それはそれとして、著者が言う通りにシステムを作り替えたところで、真っ当なレビュアーに多量の「いいえ」がついて、機能しなくなるだけじゃないだろうか。

 Amazonは本を買うだけのところではない。ものを売るところでもある。生活がかかっているのは作家だけじゃない。Amazonの闇はもっと深い。発売前のゲームに星1レビューが大量に投稿されたり、スマホ自体が発売されていないのに、そのスマホ専用の保護シート(中国製)に星5レビューが大量に投稿されたりと問題が多い。

 日本ではすでに売れているものがさらによく売れる傾向があるため、物を売りたい業者は、アカウントをいくつも作り、自分で自分の商品を買いまくる。売り手も買い手も自分なのでお金の移動や商品の移動はない。それでも、注文の成約時にかかる販売手数料は、Amazonに支払わなければならないが、それはほんのわずかな初期投資だ。そして高評価のレビューを付ける。「amazonで購入」の文字のついた一見信用できるかのようなレビューになる。それを家族や知人にも頼む。 業者にも頼む。これで高評価ショップの出来上がりというわけだ。

 こういった話は、個人を特定して云々では意味がない。むしろ、Amazonだけでもいたちごっこになって対応しきれない可能性がある。もっと話を大きくして、ステルスマーケティングに関する法律を強化する方向で考えないとどうにもならないのではないかと思う。

 ネットでなくとも、誰かから被害を受けて、それを強く罰する法がないとしたら、いくら本人に道徳を説いたところで再発防止効果は薄く、強く罰する法を作ってもらうしかない。そうやって危険運転致死傷罪やストーカー規制法は出来たんだ。道徳を説いてその個人が悔い改めてたとしても、第二、第三の別の個人から被害を受ける可能性を残したままなのは気持ち悪い。

 ちなみに、2007年米国AmazonでAmazon Vineというシステムが出来た(日本では2010年から)。これはAmazonが「有益なレビューをしている」と判断したレビュアーに招待メールを送り、同意したレビュアーに未発売商品のサンプルを使ってもらいレビューを書かせるという招待制のプログラムだ。その招待を受けて登録したレビュアーのレビューにはVINEメンバーとつくようになる。
 単に多くのレビューをしただけのベスト100レビュアーとは違い、人間の目が入って選ばれるものであるため、信頼性が高いと判断できる。

書評ブログについて

 書評ブログについても書かれている。”プロの書評家もピンきりなら、アマチュアの書評ブロガーも同様。先に挙げたT・Fさんのように見事なブックレビューをブログにアップし続けている方も大勢おられることと思います“と予防線をはりながら、以下のように書いている。

粗筋や登場人物の名前を平気で間違える。自分が理解できていないだけなのに、「難しい」とか「つまらない」と断じる。文章自体がめちゃくちゃ。論理性のかけらもない。取り上げた本に対する愛情もリスペクト精神もない。自分が内容を理解できないのは「理解させてくれない本の方が悪い」と胸をはる。自分の頭と感性が鈍いだけなのに。そういう劣悪な書評ブロガーの文章が、ネット上には多々存在する。それが、わたしのざっと読んでみての感想です。

 不思議でならないのですが、匿名のブログやAmazonのカスタマーレビュー欄で、なぜ他人様が一生懸命書いた作品をけなす必要があるのでしょうか。卑怯ですよ。他人を批判する時は自分の本当の顔、どころか腹の中の中まで見せるべきでありましょう。都合が悪くなれば証拠を消すことのできる、匿名ブログという守られた場所から、世間に名前を出して商売をしている公人に対して放たれる批判は、単なる誹謗中傷です。批判でも批評でもありません(精読と正しい理解の上で書かれた批判は、この限りではありません。というのも、そういう誠実な批判の書き手の文章は、たとえ匿名であっても”届く”ものになっているからです。届く文章は、前段で挙げた劣悪な批判がまとう単なる悪口垂れ流しムードから逃れ、批評として成立しうるものです)。

 批判は返り血を浴びる覚悟があって初めて成立するんです。的外れなけなし書評をかけば、プロなら「読めないヤツ」という致命的な大恥をかきます。でも、匿名のブロガーは? 言っておきますが、作家はそんな卑怯な”感想文”を今後の執筆活動や姿勢の参考になんて絶対にしませんよ。そういう人がやっていることは、だから単なる営業妨害です。

 ちなみにハンドル名はすぐに変えられるし、一時的にネットから退避することも簡単であるため匿名扱いされており、現実とリンクしている名前を使う以外はすべて”匿名のブロガー“扱いしている。

 こういった不特定多数の人間に対しての強い批判を読むと、小学校の先生の言葉を思い出す。

「廊下の張り紙に『廊下を走るな』と書いてあるのを読めるのは歩いている人間だけだ。『遅刻をするな』という説教を聞かされるのは定刻に着いてそこにいる人間だけだ。規則を守ってる人間ばかりが余計な注意を聞かされるんだ。社会にはそういう理不尽さがある」

匿名の書評ブログを開設している方は、今後は愛情をもって紹介できる本のことだけをお書きになってはいかがでしょうか“なんて書いたところで、作品に対する誹謗中傷を繰り返す人間は書評の本なんてそもそも買って読まないだろう。

 小学校の先生の言葉とともに吉野弘の詩「夕焼け」も思い出す。

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて—–。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。

吉野弘 「夕焼け」

 この娘はきっとこれから先、不特定多数に向けた誰かの「年寄りに席を譲れないような人間はクズだ」という強い批判を耳にするごとに、この日のことを思い出して下唇を噛むに違いない。同じ批判を聞いても、席を譲らなかった他の若者は、自分が席を譲らなかったことなど記憶になく、年寄りに席を譲れないような人間はクズだよな、と他人事として納得して生きていくことだろう。

 これまで愛情をもってブログで書評を書いている人でも、この著者の強い批判を読むと「もしかして自分の書いている文章は誹謗中傷になっていたんじゃないだろうか。作者を傷つけるような表現があったんじゃないだろうか」と無駄に不安をあおられ、 萎縮して 「本当はもっと色んな本を紹介したいけど、どこかで批判めいたことを書いてしまうかもしれない」と下唇を噛んで、つらい気持ちで、何も書けなくなるんじゃないかと心配になる。それこそお金をもらって書評を書いている書評家ならばなんと言われようと覚悟も決まっているのだろうが、ブログを書いているだけの人は、書いたところで何の利益もなく「ただ面白かったよ、みんなも読んでみて」と軽い気持ちで書いているのがほとんどだろう。善良であればあるほど、批判を受けてまで続けられるほどの覚悟をもたない。そうであれば書評ブログなどやめてしまうかもしれない。それをみて「ほらやっぱり逃げた」と勝ち誇るのだろうか。それは逃げたのではない、つぶされたのだ。

 そもそも有料の書籍で”匿名の書評ブログを開設している方は、今後は愛情をもって紹介できる本のことだけをお書きになってはいかがでしょうか“なんて書いたって、それを言い聞かせないといけないような人間は、書評について書かれた本をわざわざお金を出して買ってまで読みはしないだろう。
 そんなことはTwitterにでも書いて、フォロワーと勝手にやりあっていればいいのに、と感じる。

 ……などと、匿名のブログで内容の批判を書いてみた。

他には

 書評的なものをかくために参考にしようと思い読んだので、そういったことが書かれているところを中心にまとめたが、それ以外にも興味深い話はたくさんあった。

 例えば、日本とヨーロッパとで、新聞や雑誌での書評の扱われ方がどう違うかについて。同じ作品について書かれている新聞書評の採点。著者が書評を書く際、対象の作品を読みながら、どういった所に三色ボールペンで書き込んだり、付箋を貼ったりするかの解説。映画界でいうと淀川長治のようなスタンスのレビュアーになりたい話などなど……。最後の著者と大澤聡の対談も、著者が少し過激目のことをいって、大澤聡はその話に乗りつつもフォローするという役割分担が出来ていて面白かった。

まとめ

著者について

  • ライター業からスタートした。
  • ライターとして認められ、やりたかった書評の連載ページがもらえた。
  • その連載の後、1994年頃から女性誌の書評をするようになった。
  • それが続いて書評家と呼ばれるようになった。
  • 思い込みが激しく、「書評を軽く見る」雰囲気に敏感。
書評を書く際の注意点

  • 素晴らしいと思える作品をわかりやすい言葉で紹介する。
  • これから本を読む人の読書の興をそいではならない。
  • 勘所を明かさずにその本の魅力を伝える。
  • 書評は自分の賢さや知識を披歴するためのものではない。
  • その本や著者の知識、過去の作品への読書経験が必要。
  • 4000字を削って作った800字と、無理やり埋めた800字では大きく違う。
批評家と書評家の違い

  • 批評は読んだ後に読まれるもの。書評は読む前に読まれるもの。
  • 批評家は、当該作品の構造を分析し、その作品が現在書かれる意味と意義を長文によって明らかにする。
  • 書評家は、これは素晴らしいと思える作品を一人でも多くの読者にわかりやすい言葉で紹介する。
  • 作家と批評家は、作品そのものを楽しませる役。
  • 編集者と書評家は、読者が作品を手にするところまでをサポートする役。
日本とイギリスとでの書評の違い

  • イギリスの書評はネタバレも許されている。
  • イギリスの書評は割かれる文字数が多く批評との区別が少ない。
  • 日本の書評は独自の発展。ガラパゴス書評。
書評ブログについて

  • 劣悪な書評ブロガーの文章が多々存在する。
  • 気楽に書いているのかもしれないがずさんな書評は作家の邪魔。
  • 作品をけなす匿名ブログは卑怯だ。
  • ハンドル名は捨てて逃げられるから現実とリンクした名前以外は匿名と同じ。
  • プロとアマチュアの違いはその本や著者に関する知識、過去の読書経験といったバックボーンの有無。
  • ブログは分量に制限がないため、制限を課すことも大事。
  • 愛情をもって紹介できる本のことだけをお書きになってはいかがでしょうか。

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