歪んだ心理空間における精神的被害

モラハラ、DV、ストーカー、セクハラ、性犯罪等における加害者心理と被害者心理

<猫なで声>だった態度を豹変させて、恫喝してくる人

突然、猫なで声を怒鳴り声に変える

 親しみやすいような顔をしていた人が、憎々しげな顔になる。なよなよと女性のような声を出していた男性が、突然がらりと態度を変えて太い声で罵声を浴びせ始める。

 「それは、それは感謝をしております」と気持ち悪いような、なよなよとした声を出していた男性が、突然ものすごくあつかましい態度になり、「バカじゃないの、そんなことあるわけねえだろ!」と怒鳴り出す。

 普通の人はあまりの態度の変化に驚く。しかし、驚いた時にはもう遅い。すでにはめられている。・・・

 

 ・・・バカ丁寧な言動が、いきなり「煩い! 黙れ」という態度になる。感情的恐喝をする人は、いったんこちらが弱い立場に立てば、とことんいじめにかかる。弱い立場に立ったら、これでもかこれでもかとひどい仕打ちにあう。

 「そこまでするか」ということを超えて、ひどいことをする。そこまでの極悪人でなければ感情的恐喝はしない。それほど感情的恐喝をする人は恐ろしい人なのである。・・・

 

 感情的恐喝をする人は、自分の利益のためなら何でもする。誇りがない。だから、何でもできる。裏切ることも、騙すことも、搾取することも、嘘をつくことも、何でも平気でできる。感情的恐喝をする人は、人の中でもっとも質の悪い人である。暴力団暴力団の顔をしている。チンピラはチンピラの顔をしている。しかし、感情的恐喝をする人は、善良な市民の顔をして、「愛と正義」を唱えながら、やることは盗人以上である。

 人を怒鳴っておいて、それが自分に不利益になると分かれば、今度はがらりと態度を変えて、「ごめんなさい。あの時は、あれは私の本意ではございませんでした」と笑顔で平気で言う。

 前に言ったことと、今言うことが矛盾していても、何にも気にならない。とにかく人は操作の対象でしかない。(加藤諦三『モラル・ハラスメントの心理』, 2015年, だいわ文庫,  pp.135-137.)

 

 普段は善人ぶっているけれど、何かあるとがらりと態度を豹変させて、恫喝や脅迫をしてくる人、というのがいます。そういう人の気味の悪さがよく表現されている記述だと思ったので、上の文章を引用させて頂きました。加藤諦三氏は、「善人の顔をした悪人に注意しよう」、「ずるい人は立派な言葉を使う」とも言っています。

 

 こちらの本自体について言えば、「モラル・ハラスメント」という言葉(もともとマリー=フランス・イルゴイエンヌが提唱したもの)に、加藤氏自身が別の意味をもたせ、それに当てはまる別の現象を中心的に取り上げていることが気になりました。*1

 

 しかし、上の「突然、猫なで声を怒鳴り声に変える」人の記述は、本来の意味でモラハラ的だと思います。モラハラをする人は基本的に卑怯で、自分の悪意を隠して、相手に戦う姿勢を取らせないまま(つまり、自分を絶対に負けない立場に置いておいて)、相手の人格を貶めて支配してきます。「突然、猫なで声を怒鳴り声に変える」人のやり方も、次の点でモラハラ的だと言えます。

 

 ・普段は「親しみやすい」「バカ丁寧な」善人のような態度を取っている(自分も相手から丁寧に、礼儀正しくしてもらえやすい)。

 ・そうして戦う態勢にない相手に対して、突然がらりと態度を豹変させて、あつかましい態度になって、攻撃する。

 ・相手は、突然何が起こったのか分からず驚いている間に、言い負かされる。

 ・たたみかけるように恫喝や脅迫をしてしまえば、相手は自分の立場を守るのに精いっぱいになる。あるいは、悍ましい相手にかかわってしまったことを知って、すっかり気持ち悪くなって黙る。

 

 「一体、マニュアルでもあるのだろうか?」と思わせるほど、手口、パターンが同じです。加藤氏は、「前に言ったことと、今言うことが矛盾していても、何にも気にならない」と書いていますが、本当は自分でも何かがうしろめたいから、まともな話し合いなどせずに、恫喝して相手を黙らせようとするのでしょう。

 

 脅迫の仕方なども、「お宅、お嬢さんいたよね。夜道気を付けた方がいいよ」という種類の、脅迫者に言わせれば「一般論として、忠告してあげただけだ」と言い逃れができるようなことを言ってきます。こんな卑劣な人にかかわってしまったというだけで、普通の人は気持ちが悪くなってしまいます。

 

 加藤氏の言うように、そうした人が「暴力団」や「チンピラ」の顔をしていてくれれば、私たちは最初からそう思ってかかわらないなり、そのつもりでかかわるなり、そうしたことができます。それよりもっと気味の悪い、卑劣な攻撃者が、普通の人たちの間で、普通の人たち以上に愛想よくしていることがあるということです。加藤氏とともに、「もっとも質の悪い」「極悪人」と言いたくなります。

 

 このような人を善人だと思って、結婚などしてモラハラに遭うと大変です。配偶者や子供をさんざんいじめたあげく、相手が自殺すると「こんな事で傷ついて死ぬ人間は、弱くてダメなんだ」と言って冷酷に切り捨てて自己正当化しますし、自分が殺人の罪に問われたりすれば、「あいつが死にやがったせいで、俺はこんな迷惑を被った」と思って、自分のやり方を後悔はしても、反省だけは絶対しない人たちです。 配偶者が逃げないように、ありとあらゆることをするのは、愛情ゆえの執着などではなく、ひとえに自己愛の強さのためです。

 

*1:本来のモラル・ハラスメントは自分の明確な悪意を隠しながら、「おまえはダメだ」というメッセージを絶えず発して、被害者にそう思い込ませてくるものですが、この本では「あなたさえ幸せなら、私はそれでいいの」と言う、子供に依存するタイプの母親の話が中心になっています。「この本でいうモラル・ハラスメントというのは、本質的に愛の言葉を持ち出して相手を支配することである」(加藤, 前掲書, pp.32-33)。「モラル・ハラスメント」の「モラル」に倫理的という意味があるところから、加藤氏は「美徳による支配」(同書, p.17)という独自の視点で、それに当たるものをすべて「モラル・ハラスメント」と呼んでいますが、もともとイルゴイエンヌがある種の変質的な精神的攻撃を「モラル・ハラスメント」と呼んだことに倫理的な意味があるとすれば、それは加害者のモラルが問われるという意味です。

モラル・ハラスメントを考えるのに、この倫理の問題は避けられない。というのも、被害者のほうからすれば、侮辱され、無視され、虐待されたという気持ちがはっきりあるのに、加害者のほうは意識してこの暴力をふるっているのかどうかもわからないからである。はたして、加害者には相手を傷つけようという意図があるのか?これはいけないことだという意識があるのか?これはまさに倫理の問題である(マリー=フランス・イルゴイエンヌ『モラル・ハラスメントが人も社会もダメにする』, 高野優訳, 紀伊國屋書店, 2003年, p.24)。

加藤氏の「あなたさえ幸せなら、私はそれでいいの」という言葉に代表される「モラル・ハラスメント」には、夫婦間や職場で見られるような悪質な精神的いじめの破壊的な攻撃性はないので、混乱が起こらないように、「モラル・ハラスメント」とは別の名称をつけるべきだったと思います。イルゴイエンヌ自身、1998年の著書『モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない―』(原題, Le Harcèlement moral: La violence perverse au quotidien)が世界的な反響を呼んだ後、モラル・ハラスメントとは別のものがその名で呼ばれるようになったことを問題とし、その三年後に『モラル・ハラスメントが人も社会もダメにする』を出版しています(原語でのその副題は「モラル・ハラスメント:真偽を見分ける(Harèlement moral: démêler le vrai du faux)」です)。