他方から酷評を食らっている「映画版キャッツ」。3月上旬まで上映とのことで慌てて観てきたが…一言で表すと「もったいねぇー!!!」である。不肖ながら岩崎、元演劇部部長である。そして何年か前に舞台版キャッツ仙台公演を拝見したこともある身として、身の程をわきまえず感想をビッシビシ記していく。
#映画キャッツ 感想はあとでブログにまとめるけどさ、一言で表すなら「もったいねぇー!!!」
— 岩崎 (@superiwachannel) 2020年2月20日
1981年にロンドンで初演されて以来、観客動員数は世界累計8100万人に達し、日本公演も通算1万回を記録するなど、世界中で愛され続けるミュージカルの金字塔「キャッツ」を映画化。「レ・ミゼラブル」「英国王のスピーチ」のトム・フーパーが監督、スティーブン・スピルバーグが製作総指揮を務め、英国ロイヤルバレエ団プリンシパルのフランチェスカ・ヘイワードのほか、ジェームズ・コーデン、ジェニファー・ハドソン、テイラー・スウィフト、ジュディ・デンチ、イアン・マッケランら豪華キャストが共演した。人間に飼いならされることを拒み、逆境の中でもしたたかに生きる個性豊かな「ジェリクルキャッツ」と呼ばれる猫たち。満月が輝くある夜、年に一度開かれる「ジェリクル舞踏会」に参加するため、街の片隅のゴミ捨て場にジェリクルキャッツたちが集まってくる。その日は、新しい人生を生きることを許される、たった一匹の猫が選ばれる特別な夜であり、猫たちは夜を徹して歌い踊るが……。
流れや登場人(猫?)物は原作=舞台版に準拠しており、随所にリスペクトが見受けられる。驚いたのは、一瞬だが舞台版の幕間のキャスト(猫)まで再現されていること。あのシーンを入れるとはわかってらっしゃる…。ハリウッド版ドラゴンボールはこの魂胆を見習うべき。
だからこそ、見た目のキモさで拒否反応を起こされ「奇作」と言われるのが心苦しくてならない。だが…正直言ってあのビジュアルはダメだった。上映開始1分で耐えられず吹き出しそうになってしまった。必死に冷静さを取り戻し、なぜ吹き出しそうになった(≒違和感を感じた)か分析しながら鑑賞した。
なんかキモい猫人間を生んでしまった問題
メイクに難ありと見た
その結果、あのキモさを演出しているのは
- 眉毛ある
- アイメイクがアイライン程度でショボい
ことではないかということに気付いた。
拾い画で失敬。この画像で比較するとわかりやすいと思うが、キャストの基本メイクは眉毛をくっきり描き目元はアイラインを入れている程度である。これが妙に人間臭さを出してしまっており、猫じゃなくて化け猫感を演出してしまっているのではないかと分析した。特にキャストの顔をアップで映せば映すほど、人間の部分が意図せずとも強調されてしまっている印象。
中には眉毛がない(はっきり描かれていない)猫もといキャストが何人かいるが、こちらの方が違和感は薄く、より猫感が出ている。アイメイクを薄くするなら、眉毛を書かない方が良いらしい。どうやら美術班は新たなVFX技術による毛並みのリアル感を追い求める方に注力し、顔の造形まで意識を向けられなかったようだ。
加えてキャストの表情を際立たせる配慮のためか、顔の中央部の毛が少ない(薄い)のも要因かと。人間の顔のパーツって中央部に寄ってるものだから、かえって人間らしい部分が際立ってしまってい、猫っぽさを消してしまっている気がする。
消えた「ファンタジー補正」
劇団四季版は真逆で、ガッツリのアイメイク&ツルツルで動きやすそうなタイツである。こちらの方が猫感があるのは、やはりメイクの力が大きいだろう。近くで見ると「うわっ!ケバッ!」と思うが、舞台メイクってこれくらいの濃さが普通である。役者と観客の距離がある程度あるからこれくらいのメイクの濃さにしないと見えないし、スポットライトの光で役者の顔が白飛びしたら意味ないからね。
普通に劇団四季メイクで映画も良かったのに〜…とも思うが、権利関係か何かが絡んでいた可能性も考えられる。それでももう一工夫ほしかった。
せめて、耳をもう少し大きくできなかっただろうか。察するに、登場する猫の耳の大きさはほとんど通常の人間の耳の大きさと同じ比率ではないかと分析する。その辺にリアル感を付加した意味はなかったと思う。
つまるところ、登場する猫たちにはアニメやファンタジー系作品でよくある世界観に合わせた補正…言うなれば「ファンタジー補正」が為されていなかった。映画キャッツ制作陣には、ぜひ我が日本が誇るHENTAI文化が創造した猫耳イラストをググって今後の参考にしていただきたい。そこには「猫の耳を人間に置き換えたらこんな比率じゃ済まねぇよ!でも可愛いなぁオイ!」という作品が山のように置いてある。あんな感じで良かったのである。
全体的に、いわゆる「サムネバイバイ」状態になってしまったのが非常にもったいない。
そこは変えてほしかった
猫たちの手(前足)はなぜか肌色で人間の形。原作(舞台)でもその通りだが…リアルを追求する気があったなら、なぜそこは加工せずそのままにしたのか。肉球の再現は難しくても、せめて手をモフモフの毛むくじゃら仕様にはできたはずでは。その辺でちょっと萎えた。
映画化したことによる弊害
平面から立体に
舞台とはおおよそ「平面」である。客席があって、そこから舞台を面で見るのが一般的である。劇団四季などの大規模な劇団やパフォーマンス集団の場合は時々客席にキャストを登場させ観客を巻き込んだパフォーマンスを行うこともあるが、それはキャスト人数と観客数、そして演技に自信があるところじゃなければ為し得ないこと…という点ははっきり言っておこう。
それが今回の映画化で、舞台が「立体」になってしまった。それに伴ってカメラワークというものが生まれ、場面・視点がグワングワン動く。私だけかもしれないが、ちょっと酔いそうになった。
上演側と観客の「突貫で生み出される信頼関係」がなくなった
いかなる舞台も作り物である。板一枚の上で繰り広げられる虚構の世界であり、芝居とはその世界を真剣に作り上げる滑稽なものである…というのが私の持論である。それ故に上演側は、観客にどうしても視覚的・物理的に不完全な部分を見せてしまう(例:屋内のシーンなのに壁がない!とか)が、そこは観客側が自ら想像して楽しむ。上演側と観客の間に「突貫で生み出される信頼関係」によって成り立つのが、舞台の醍醐味の一つであるとも考えている。
先述のメイク・顔の話とリンクする部分があるが、映画化=立体化することで対象人物を服装やメイク以外の要素=環境・景色を用いても表現できるようになった。つまり顔で個性を表現しなくても背景でバックボーンをフォローできてしまうという、映像作品の利点が裏目に出てしまっていた。猫たちがパフォーマンスを繰り広げる街は景色として視覚的にガンガン入ってくるし、夜空に浮かぶ満月もの色も「この色!」と決められた。人によって黄色なのか青白いのかイメージしていた色があっただろうに…。想像させる余白がなくなってしまったことは、舞台版のファンには寂しいかもしれない。
原作見てないと奇作だわこれ
繰り返すが、この作品には原作=舞台版のリスペクトが込められている。だから猫たちが歌い踊るシーンもほぼ原作通りである。それが今回裏目に出てしまっている。原作を知らなければ、キモい人面猫が踊り狂っているようにしか見えないだろう。
制作・配給サイドは「ミュージカルの金字塔」「誰もが知っている名作」と胸を張っている。確かにキャッツという作品名そのものの認知度は高いだろう。しかし実際に公演内容を見た経験がある人間はどれくらいいるだろうか?
観客動員数は世界累計8100万人に達し、日本公演も通算1万回を記録
とあるが、リピーター(重複分)はどれほど含まれているか把握しているだろうか?少なからず、この累計の中には複数回見ている人間が含まれているはずである。つまり実数にするともっと少ないのではないだろうか。事実、私が観た劇団四季の仙台公演はリピーターの知人がチケットを事情で余らせてしまったのでありがたく譲っていただいたものである。その知人によると、劇団四季には「四季の会」というファン組織があり、優先的にチケットを入手できることからリピーターたちが多く登録しているそうである。恐らく他の大手劇団もそうだろう。つまりミュージカルとはリピータービジネスであり、意外と広がりがないもののようである。
映画キャッツ制作サイドは、作品を支持してくれる人数の読みが甘かったのではないだろうか。今からでも遅くはないので、劇団四季版ないしは海外版の舞台版キャッツのDVDを予習として販売した方が良いと思われる。
ボロカス書いたけど良いところもあったよ
と、ここまで批判的に書いてきたが、逆に指摘した部分以外は素晴らしく、間違いなく名作であったことは明言しておこう。
サントラは買った方いい
原作リスペクトなので楽曲・歌唱曲も舞台版のまま。年老いた劇場の元スター猫(原作・舞台版では娼婦猫)グリザベラが歌う「メモリー」は名曲なのでぜひ。ところでグリザベラってもっと中年じゃなかった?なんか若くてキレイになってない?
ヴィクトリアちゃんかわいい
映画冒頭でショッキングな形で登場し、作中は他の猫たちとたわむれつつも終始グリザベラに寄り添おうとする白猫・ヴィクトリア。演じるの英国のバレエ俳優であるフランチェスカ・ヘイワードさんだそうだが、キモい猫メイクに唯一勝利した存在と言って良いだろう。
静止画で見るとキッツいかも知れないが、動いているとかわいい。表情も踊りも美しい。今後の活躍が楽しみである。
カタルシスは間違いない
満月の夜の下、新しい命を得て生まれ変われる1匹に選ばれるため歌とダンスで必死にアピールする猫たち。最後にその1匹に選ばれた猫が昇天する…だけでは終わらない。長老猫オールド・デュトロノミーが他の猫たちに囲まれながら「ここまで様々な猫が登場しましたが…私たちのことをお分かりいただけたでしょう?人間と同じなんです」と、人間に向けて優しく語りかける様子は胸にジーン…と来る。あのシーンにたどり着くまでが人によってはキツいと感じるかも知れないが…終わり良ければ全てよし。うん。
ダメな人は小さい画面で見たらいけるかも?
以上を踏まえ、個人的には「誰にでも勧められる作品ではない」という結論に至った。心苦しいが「興味があればどうぞ」としかオススメできない。本当に。
「良い作品だから絶対に見て!」とは思っているが、やはりビジュアルの壁が厚すぎて強めにはプッシュできない。映画館であの姿が大画面で映し出されることに耐えられるか否かは、人によって違うだろう。もしかしたら、タブレットやDVDプレーヤーなどを用いて小さい画面ならいけるかも知れないが…。うーん…。
今週のお題「ねこ」