常敬寺のぼり2

副住職の唯真です。

当山の開基、唯善上人は初めから
真宗の教えに身を置いたのではなく、
元々は修験道を修める、
進取果敢な修験者でありました。

唯善上人は仁和寺相応坊守助僧正の
弟子となって、「弘雅阿闍梨」と
名のりました。

そののち、歎異抄の作者である
唯円さまのもとで他力の念仏の教えを
聞き、浄土真宗の念仏者となられます。

そして「唯円」さまと、恐らく、
祖父である親鸞聖人の別名の「善信」から
一字ずつ頂いて、「唯善」と名のりました。
もしかしたら、父である”禅”念さまの響きも
頂いているかもしれません。

唯善というのは、念仏者としての
自己の名のりでありました。

また、唯善上人が属していた修験道は
いかなるものか。
それについて一つの指摘がありますので
ご紹介いたします。

【最近「仏頭伝授」といって、仏頭を
重んずる修験道の一派があったことが
分かってきた。(中略)
一般の修験道と異なるところは、本山派
とか当山派のような組織をもたず、
大峯山とか出羽三山などに集団入峰も
しないで、孤独な窟(いわや)籠りの
修行をする点である。
また一般的修験道が密教を理想として、
大日如来と一体化する即身成仏を目的
とするのに対して、この一派は念仏を
理想として、阿弥陀如来と一体化する
即身成仏を目的とする。】

【この伝統は中世にもあって、専修念仏
でありながら修験道を実践する一派の
あることも分かってきて、意外にも親鸞の
長子(善鸞)も嫡孫(唯善)もこれに属して
いたとおもわれるのである。】
(五来重 『石の宗教』講談社 119p)

江戸期に、大日如来ではなく、
阿弥陀如来信仰をベースとした
「仏頭伝授」派という修験道が
あったといいます。

そして遡ると、中世にも
そのような一派があった。

自力の念仏行と修験道のハイブリッド
というのでしょうか、
唯善上人はそれに属していたのでは
ないかという考察です。

この説にどれ程の正確性があるかは
分からないのですが、
兎にも角にも、大事なことは、
修験道という謂わば
「自力」の信仰から唯善上人は降りて、
阿弥陀仏にすべてを任せる「他力」の
信仰へと至ったということです。

これは天台宗の僧侶として、
「自力」の仏道、「自力」の念仏を
行じていた若き親鸞聖人が、
比叡の山を降り、法然上人の説かれた
絶対「他力」の世界へと帰着していかれた
道程と重なります。

範宴が「親鸞」と名のりを掲げたように、
弘雅は、修験の山を降り、「唯善」と
なったのでした。

「自力」の山を降り、阿弥陀仏の慈悲が
どこまでも弘がる「他力」の海へと
たどり着いた唯善上人。

そのあゆみをみて、師となる
唯円さまは何かの深い流れを
みたのかもしれません。

【唯円の眼には、唯善は親鸞の
全てを受け継ぐべき存在と映った。

唯善こそ長い間唯円が無意識裡に待って
いた存在であった。
唯円は、己が親鸞から得た全てを唯善に
注ぎかけた。】
(佐藤正英 『歎異抄論註』青土社 60p)

合掌