本日は表題の件を考えてみたいと思います。
私見なので至らぬ箇所もきっとあるかと思いますが、ご意見いただければ幸いです。
つまり2.5次元舞台
宝塚歌劇には、在籍する演出家のオリジナル作品と原作付きの公演を演出家が演出するものと、おおまかに分けてふたつがあります。
例えば現在の宝塚歌劇でいうなら花組の『はいからさんが通る』などがそうです。
ふりかえって宝塚歌劇初のコミック原作公演といえば『ベルサイユのばら』。
ここからスタートした多くの小説コミック原作の舞台は、現在の2.5次元舞台のさきがけといえます。
2.5次元とは、
イラスト・アニメ風2次元の世界と実際の人間・実写による3次元の世界の、何らかの狭間を指す単語。2次元的なイメージの3次元への投影か、またはイメージ自体の錯覚的・部分的な3次元化に適用される。
コミック原作の舞台はベルばらが1974年初演ですから現在まで約50年近く、宝塚歌劇の歴史の半分ほどということになります。
生徒達の魅力を損なわずかつ原作の再現度を上げつつ、宝塚歌劇というブランドに相応しい演出(これも明確な定義はどこにもないのですが)に落とし込む。
現時の演出家なら小柳奈穂子先生が得意としている分野です。
『ルパン三世 —王妃の首飾りを追え! 』2015年雪組公演
原作付きは避けたい? ファンの感情
ただこの原作付き公演、海外の有名ミュージカルを宝塚歌劇で上演する場合などにもいえることなのですが、
ファンの間ではこういったすでに完成したことのある物語が贔屓および贔屓の組ですることになると、諸手をあげて喜ぶファンとできれば避けたいというファンの(少ないですが)意見で割れることがあります。
なぜかというと、ファンが観劇時に使うリソース(資源)が原作付きだと減らされると感じる人が多いからです。
更に言うなら「原作付きの公演では贔屓の持つ時間と資源が有効に使われない」、
「むしろ無駄になる可能性が高い」という考えがファンの側にあるからではと推測しています。
この場合の資源とは
ここでいう「資源」とは、観劇時にファンが
使う精神的経済的なもろもろのエネルギーのようなもののことです。
すでにあるキャラクターとして成り立っているかを確認して、同時並行で贔屓は自ら持つ魅力を発揮できているかをチェックする。
宝塚ファンは観劇時そんな資源の使い方をしています。
オリジナルの公演なら、そんな資源を2分割するようなことはしなくてよいのに。
贔屓それ自体の持つ魅力を観劇時に堪能したいというファンには、キャラになりきることで正直有名なあのキャラをかぶせなくていいのにと。
さらにいうなら贔屓はそのキャラクターに相応しくないという評価、悪意ある雑念が入ることすらあります。
例えば贔屓が外部も含めて歴代何人もの人が演じてきたエリザベートのトートをするとします。
その場合ファンとしては贔屓がオリジナルで作り上げたキャラよりも、誰かの作ったものを再構築していることになります。
ファンの資源は有名どころの舞台を贔屓がするとなるほど、比例して多く消費されることになっていきます。
それをストレスとして感じることが、原作付き公演を忌避する感情を生むのかもしれません。
あとがき
観劇が辛いことになる意外な側面もある、それが原作付き公演です。
もちろんそんな感情、自分は持ったことはないという人もたくさんいるでしょう。
このような感情を回避するには私たちファンが、観劇や贔屓に使う資源は常に有限なものとはとらえないようにするしかありません。
確かに宝塚歌劇における贔屓とファンの時間は有限です。
贔屓に魅了される時間もつまり大切な資源。
ただロミオに資源をこれだけ使う、ロミオを演じる贔屓にはこれだけ資源を使う、のような考え方は、自分が一時期上記のような考えにとらわれていたことがあったので、精神衛生上よくないと書いておきます。
(けれどその辛さがかえって楽しいというひとも確かにいるのですよね…)
ここまでお読みいただきありがとうございました。