カルチャーセンター荒しだった母 6 | 空中ガーデン

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 母は私と共著という形で作品集を出版しました。我が家の近くの図書館で検索したら蔵書の中にまだ置いてありました。


カルチャーセンター荒しだったの母のお話の続きです・・
カルチャーセンター荒しだった母のこと 1
カルチャーセンター荒しだった母 2
カルチャーセンター荒しだった母 3
カルチャーセンター荒しだった母 4
カルチャーセンター荒しだった母 5

 バブルが華やかだった当時、朝日、毎日、高島屋と三つのカルチャーセンターを掛け持ちしていた母を手伝い、私も講師としてドライフラワーを教えていました。母の創るアレンジは、当時は他にはない斬新なデザインのモノが多く、評判になっていきます。
 あの頃は、大阪の阪急百貨店で毎年のように個展も行っていました。母は作品をいわゆる展示会スペースで売ることを嫌い、個展はいつも画廊で。百貨店でも美術画廊隣の美術サロンスペースを使わせてもらっていました。

 力作は母も私も売りたくなくて、売れないようにと高めの値段をつけておりましたが、時はバブル絶頂期。たかが枯れた花のリースに10万円などと値札をつけているのにもかかわらず、私たちの作品は飛ぶように売れていきました・・・

 あのまま頑張っていれば全国デビューもできていただろうと思いますが、あるときから母は体調を崩し出します・・・肝臓癌でした。そこから6年ほどで他界してしまいます・・・

 徐々に教室も小さくしていき、母の死後、私は教室を完全に閉めます。もったいないことをと言ってくださる方もおられましたが、母ほどの才能の無い私には荷が重かったのでした。

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