カルチャーセンター荒しだった母のこと 1
カルチャーセンター荒しだった母 2
カルチャーセンター荒しだった母 3
カルチャーセンター荒しだった母 4
カルチャーセンター荒しだった母 5
バブルが華やかだった当時、朝日、毎日、高島屋と三つのカルチャーセンターを掛け持ちしていた母を手伝い、私も講師としてドライフラワーを教えていました。母の創るアレンジは、当時は他にはない斬新なデザインのモノが多く、評判になっていきます。
あの頃は、大阪の阪急百貨店で毎年のように個展も行っていました。母は作品をいわゆる展示会スペースで売ることを嫌い、個展はいつも画廊で。百貨店でも美術画廊隣の美術サロンスペースを使わせてもらっていました。
力作は母も私も売りたくなくて、売れないようにと高めの値段をつけておりましたが、時はバブル絶頂期。たかが枯れた花のリースに10万円などと値札をつけているのにもかかわらず、私たちの作品は飛ぶように売れていきました・・・
あのまま頑張っていれば全国デビューもできていただろうと思いますが、あるときから母は体調を崩し出します・・・肝臓癌でした。そこから6年ほどで他界してしまいます・・・
徐々に教室も小さくしていき、母の死後、私は教室を完全に閉めます。もったいないことをと言ってくださる方もおられましたが、母ほどの才能の無い私には荷が重かったのでした。
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