2023-01-05T20:33:01Z #021 川南工業浦之崎造船所

#021 川南工業浦之崎造船所

川南工業浦之崎造船所と密接な関係にあった浦ノ崎変電所、その運用は果たして軍需だけだったのか。民間企業や一般家庭への送電は行われていないのか、半世紀以上を経過した森の中の小さな送電施設の歴史を近隣住民の聞き取り調査と数少ない資料から当時へ遡ります。電力会社の協力も得て辿る詳細レポートです。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所
佐賀県│川南工業浦之崎造船所

調査:2010年09月
再訪:2011年08月 / 2011年09月 / 2012年01月 / 2012年03月
公開:2010年09月15日
名称:正式名称→川南工業浦之崎造船所 / 通称→川南造船所・浦之崎造船所
状態:2012年に解体済

初公開から長い時間が経過し、掲載情報も古くなったので不用な部分も含め既に常用化した部分を削除して再構成致しました。


日本の軍需遺構においてこれだけ貴重で見向きもされない建造物も珍しい

戦争需要による数奇な運命と、この場所で建造された様々な軍用艇。簡単には説明できない時代の流れと政治に翻弄されたある造船所の物語と歴史、その大筋を辿りながら終焉までのレポートとなります。

この歴史的な建造物を知ったのが2003年、初来訪は2010年でしたが間もなくして解体が開始(2011年12月)された事を考えるとタイミング的には幸運だったと言えます。来訪当時、この工場跡を詳しく調査したいと思っていましたが解体に伴い行政や研究者、大学関係者などが興味を持った事もあって沢山の情報が集まりました。

その収集時の情報と今回のレポート再構築に際して更に追加調査を行ったので少しばかりですが新しい内容も掲載しております、2011年に公開した内容が殆どではありますがどうぞ最後までお付き合い下されば幸いです。



調査来訪

川南造船所、浦ノ崎造船所などとも呼ばれた佐賀県の伊万里市にある大規模な工場跡。全国に数ある廃墟の中でも特に有名で謎多き物件でもありました、既に多くの来訪レポートがウェブ上に溢れていますがスゴログでも軍需遺構として地域民俗学の観点からアプローチしたいと思います。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

誌面取材から個人的な興味へ移行、廃墟という存在に着目する切欠となった建造物

スケジュールの関係から事前に行政に問い合わせて聞いていた場所に到着したのが早朝、そのインパクトは凄まじいものでした()。

注意点
本来は同伴して色々と説明して頂けたら良かったのですが残念でした

眼前に聳える草木に覆われた古城の様な建造物は独特な雰囲気に包まれており、異質な存在感が周囲全体に広がっています。約半世紀放置されたその工場は戦時中、国内である特化した舟艇を建造していた事でも知られているのでご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

その工場の名称は「川南工業浦之崎造船所()」。

特攻兵器の「人間魚雷」を製造したのはこの造船所です、創設者は池田内閣時に要人殺害などのクーデター(三無事件)の首謀者と知られる川南豊作(詳細後述)です。

注意点
戦後間もなくはグループ企業ですが名称は独立して株式会社浦之崎造船所として運営されていました
更に株式会社浦之崎造船所から伊万里湾重工業株式会社と名称変更するも1955年に閉鎖されます

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

陽が昇って間も無く、周囲に辛うじて光が射してきましたが資料写真の撮影には露出が足りません。少し外周を歩いて構図や位置関係を確認しようと思います、何しろとても広いので事前に提供して頂いた敷地内地図だけでは不安だったのです。

兎に角地図と現地の状況が合致せず、下手をすると鬱蒼と茂る森の中で迷子になりそうな雰囲気です。



スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

元々廃墟の廃退美には興味がありましたが圧倒的な存在感で迫るこの造船所跡はまるで遺跡の様、生い茂る草木から除く人工的なコンクリート建造物は神々しくも見えます。

私が初来訪したのは2010年でした、この時既にこの様な状態でしたがやはりと言いますか…この様な場所では事件なども発生していたと後で知ることになります。官報によればこの年の約一年前となる2009年、

「行旅死亡人(官報 平成28年11月18日付 号外第254号 公告 諸事項 地方公共団体)

本籍・住所・氏名不詳、推定年齢40~60歳代の男性で推定身長150cm前後、歯牙に歯科的治療痕、着衣等は、薄緑色作業服上下、白色靴下、黒色運動靴(25.5cm)、腕時計、鍵、爪切り、白色ロープ、硬貨4560円

上記の者は、平成21年3月13日午後3時頃伊万里市山代町立岩無番地の元川南造船所跡地で白骨化した人骨として発見されました。死亡は死後2年~10年経過していると推定。死因は縊死。遺体は火葬に付し、遺骨は市内に納骨してあります。お心当たりの方は、本市福祉課まで申し出てください。

平成28年11月18日 佐賀県 伊万里市長」

とあります。2010年と言えば既にこの廃墟は有名になっており、沢山の来訪者があった筈です。それが推定2年~10年間もの間で発見されなかったのは何か特別な理由があったのでしょうか、その後の追跡調査で発見されたのは建造物ではなくて草木が生い茂る森林地帯だったようなので廃墟好きや歴史好きの方の目には留まらなかったのかもしれません。

ただよく解らないのは発見されたのが2009年で公表されたのが2016年という点です、この公表までの開きがとても不気味です。ネットに残る幾ばくかの情報では名古屋の廃墟好きの方が発見し、通報したとありました。

更にこの様な廃墟での遺体発見の事例はあるのか興味が湧いて調べてみると以外にも多く、旅館跡であったり山小屋跡であったりとその発見ロケーションは様々です。なるほど、産業遺構などの調査にはこの様なリスク(実質的なリスクというより心理的負荷)が存在するのだと知るキッカケになりました。

注意点
未確認情報では土地所有の分散化で発見場所の土地所有者の確認、解体が迫っていた事などが複合的に公表を遅らせたのではないかとの憶測もあるようです。また解体当初は緑地化する事も計画されていたので公園の運用上、問題になることを避けたのかもしれません。しかし公表によって「解体後は緑地化(公園化)」という予定が白紙に戻った、とも考えられます。(詳細は解体編にて記述)

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

半世紀を費やした人工物と自然回帰の共存

人工物と自然がここまで美しく競演するのかと感嘆するのですが前後左右、更には頭上までこの様相なのです。息をもつかせぬ怒涛の廃墟美が本来は調査来訪であることを忘れさせてしまいそうです、流石に半世紀もの時間を掛けた状況なのだと納得です。

因みにですが1930年~1940年代の工業用建造物におけるコンクリート耐久年数は約50年と言われています、戦後復興時の国内需要工場の建設が1950年代以降だったのでこの造船所は明らかに古く、そしてその姿を残しているのは異様な事なのでしょう。

事実、2010年の初来訪時は至る所に崩落の跡が見られました。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

拙い語彙力ではとても表現できない、この緊張感をどう表現したら良いでしょうか。

これは、凄い。

地域民俗学的なアプローチがスゴログの基本理念ですがこの造船所跡に出会って初めて「廃墟」というジャンルに人気があるのかよく理解できました。単純に、この様な想像を絶する景観を目にするのは驚きと感動が伴うのだと。

それではそろそろこの造船所跡に関する情報を少しづつ記載していくとしましょう。



スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

人間魚雷と三無運動

外観の余りの美しさにすっかり説明を忘れていましたが今回来訪したのは佐賀県は伊万里市に存在する(2012年に解体済)元軍需造船所跡「川南工業浦之崎造船所」です、松浦西九州線の浦ノ崎駅から程近い埋立地に鬱蒼と生い茂る草木の中にひっそりと残っています。

ピンと来ない方が殆どだと思いますが戦時中は悪名高い特攻兵器である「人間魚雷(海龍・回天)」を製造していたことで有名です、母体企業の川南工業株式会社は南極観測船「宗谷」を建造した事でも知られているので造船技術は当時非常に高かったのでしょう。創設者は川南豊作、歴史上では1961年にクーデター未遂事件「三無事件」の首謀者として逮捕された方です。

川南工業 - ウィキペディア
https://bit.ly/2RBoLBp

三無事件 - ウィキペディア
https://bit.ly/1i589zZ

この造船所、廃墟美もさることながら歴史を辿ると興味深い史実が次から次へと溢れ出てくるのです。スゴログでは過去に同様の大規模工場跡「白石工業桑名工場」を調査していますが恐らくこの造船所跡は追跡調査も含めると一番長いレポートになりそうです、それだけお伝えしたい情報が多いのです。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

通常、この様な大規模な廃墟は早々に解体されてしまうのですが元々は軍需。戦争当時の建造物である為に色々と問題もありました、更にこの造船所が建設されている土地自体も大きな問題を抱えていたのです。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

実を言えばこの廃墟の解体の話は30年以上前よりありました、地域住民の不安の一つだったとも聞いています。行政もただ手を拱いていたわけではありません。

2010年02月23日に新聞各社へリリースされた報道内容を引用しましょう。



人間魚雷製造の川南造船所跡、伊万里市が撤去へ

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

戦時中に特攻兵器の「人間魚雷」を製造、廃虚となって残る伊万里市山代町の「川南工業浦之崎造船所」の建物が撤去される見通しとなった。市が緑地公園として整備するため、建物の買収費用などを新年度当初予算案に計上した。公園化計画を歓迎する声がある一方、昭和の歴史を刻む戦争遺跡として建物の保存・活用を望む意見もある。

川南工業は、富山県出身の実業家・川南豊作氏が創設。長崎県の香焼島(現在は長崎市)を拠点に造船会社などを経営した。

市教委発行の「伊万里ふるさと読本」によると、浦之崎造船所は1943年に軍需工場の指定を受け、輸送船や海防艦などを製造、火薬を積んで敵艦に体当たりするベニヤ板製の特攻艇もつくった。多いときは約2500人が働き、女子生徒や朝鮮半島出身者も動員した。

戦後も社名を変えて船の建造・修理を続けたが、55年に閉鎖。以後、ごみの不法投棄などが絶えず、地元の山代町開発促進協議会と同町区長会が昨年6月、跡地を緑地公園にするよう知事に要望していた。

造船所跡は約3万3000平方メートル、建物は鉄筋コンクリート2階建て約3100平方メートル。読本には「戦争に関係のあるものをつくっていたので米軍の攻撃目標になり機銃掃射を受けた。壁には弾の跡が生々しく残る」と記され、近年は「廃虚探訪マニア」の人気の場所になっている。

市は県の補助を受け、2010年度に現在の持ち主から建物を買い取り、11年度に撤去する方針。事業費は2か年度で計約2億1000万円。

地元からは「危険だし風紀上も問題」「地域衰退の象徴となっている」との声が上がるが、「貴重な戦争遺跡であると同時に近代産業遺産」「子どもたちが現代史を学ぶ場になる。平和教育の場としての活用も考えてほしい」と撤去を惜しむ意見もある。

川南氏は、61年の元軍人らによるクーデター計画「三無事件」の首謀者として逮捕された。同事件は破壊活動防止法が初めて適用されたことで知られる。


遅すぎた保存活動

この報道は単に廃墟好きや歴史好きだけでなく、国内の歴史研究家やこの場所で製造された船や軍需兵器を研究する大学、また類似する土地問題の弁護士などにも問題が波及します。

これには色々と理由がありました、その複雑で解決が困難な状況を説明していきましょう。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

正面入口から入るとこの素晴らしい外観を最初に目にします、余りの美しさに誰でさえも息を呑むことでしょう。もし地元の安全に関する問題が提起されなければ解体を反対する声が挙がったかもしれません、いえ…実は実際に解体を惜しんで戦争遺構として保存しようという運動が少なからず存在しました。



廃墟の緑地公園化計画案

この場所を忘れてはならない戦争の過去と現在の平和な価値観を繋ぐ為の視覚的装置として、歴史と遺構(歴史資料)として残せないかと模索し始めた方がいました。

川南造船所全国同盟
http://archive.is/drbbl

千葉県に在住の一般の方がこの美しい川南工業浦崎造船所を文化遺産として残し、過去を知ってもらう機会にならないかと保存の動きへ活動されています()。ウェブサイト冒頭ではこの様な挨拶がされています。

伊万里市の浦ノ崎地区に、一つの遺構があります。

それは、伊万里造船所とも川南造船所とも呼ばれる戦時中の造船所跡であり、正式名称を川南工業浦崎造船所と言いました。戦時中は二等輸送艦や「人間魚雷」回天等を多数製造したと言われており、戦争遺産・産業遺産として、その歴史的価値は極めて高いものと、私は思います。
   
この遺産は平成23年度、伊万里市による完全解体が予定されております。私は解体計画の見直しを要望し、造船所跡の維持・保存、そして平和教育のための利用を要望するものです。伊万里市民ではない自分が差し出がましいことを言うようですが、この遺産は次世代に受け継ぐべき伊万里市の宝ではないでしょうか。
   
跡地の緑地公園整備計画策定は平成22年度中に行なわれることから、意見提言を行いたいなら今が最後のチャンスです。そこで、私はこのたび伊万里市・川南造船所の活用による地域振興策を考える会「川南同盟」なる有志組織を立ち上げ、募金・署名等の活動を通じて、解体計画の見直しを要望していきたいと考えております。
   
皆様のご協力、心よりお待ちしております。
   
川南造船所全国同盟 代表 梅津 知弘

注意点
解体を前に活動を中止され、その後サイトは放置されています。

その後別プロジェクトでiOS向けの写真集が企画され、その収録写真としても数枚提供しています。

しかもこの様なコンサルプランも用意し、実際に市へとお願いにも伺っています。活動の一環として伊万里市民図書館で写真展を行うとの事でスゴログからも資料写真として撮影した数枚を展示写真として提供させて頂きました。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

更にはオンラインで署名活動も行われました。

伊万里市・川南造船所遺構解体撤去の見直しを求める署名運動
署名サイトは削除されました

この時既に解体計画は決定していたので結局諸々の保存活動は実を結ぶ事無く終わるのですが九州という地域は意外と民意が反映されやすい土地柄なのか、過去には軍事関連遺構の保存活動が上手く機能した例もあるのです。

それは電波塔だったり島丸ごと炭坑跡だったり、そういった物を保存する素晴らしい考え方が民間と行政のどちらにも定着しているは全国でも珍しいと思われます。この造船所跡の保存活動もほんの少し早ければ、またその規模があと少し大きければ…そう思えてしまいます。

この場所の解体が決定されるまでには実に沢山の議論の場が設けられていた様です、その現場の様子を少しだけご紹介しましょう。

現場からお伝えします - 平成21年6月16日(火)「川南造船所跡地」問題の解決に向けて
https://bit.ly/2GzvZEm

「川南造船所跡」解体か保存か 10月にも有識者委(報道関係者へのプレスリリース)

伊万里市は27日、市内の「川南(かわなみ)造船所跡」の活用策を話し合う有識者による検討委員会を10月にも立ち上げる方針を決めた。委員謝礼などを盛り込んだ今年度一般会計補正予算案を9月議会に提案する。この問題を巡っては「解体か保存か」の議論が起きており、塚部芳和市長は「全部解体か一部保存かなどは検討委で今年度中に方向性を決めたい」と述べた。

戦時中、「人間魚雷」と呼ばれる特殊潜航艇なども製造したといわれる造船所跡地は、現在廃虚になっている。地元住民が昨年6月、建物の解体撤去と緑地公園化を古川康知事に要望し、県は建物の取得費などを県費で工面すると決定。これを受けて現在、撤去に向けた手続きが市によって進められている。

ところが、「戦争遺産として平和教育などへの活用」を求める千葉県柏市の会社員梅津知弘さん(31)は「川南造船所全国同盟」を結成、インターネットを通じて署名を集めるなど保存運動を展開。今月9日には、伊万里市役所を訪れて、「遺構を生かした公園化」のための私案のパネルを提出しようとしたが、市は受け取りを拒否した。

市によると、検討委は、大学教授、地域代表、建築家、教育関係者ら5人で構成。委員の要望があれば、梅津さんのパネル提出を求めることもあり得るとしている。塚部市長は「旧造船所の建物の撤去を求める地元と、全国の保存運動をどう整合させていくかが課題だ」と述べた。(2010年8月28日報道)

…とあります。土地の時代背景や地域住民の意見が最重要視されなければならない、それは大前提ですが歴史的にも資料性の高い建造物の保存は後世の為にも是非一考して頂きたいと思います。



佐賀新聞 2010年11月27日更新

川南造船所跡を公園に 伊万里市が取得で仮契約

伊万里市は26日、緑地公園化整備計画を進めている同市山代町の川南造船所跡について、建物所有者と権利取得の仮契約を結んだことを明らかにした。取得予定価格は4615万円で、12月定例議会で承認を得て、具体的な公園化案を検討する。

川南造船所は、戦時中に特攻兵器を製造したとされる。市は、建物が老朽化して倒壊の危険性があるため解体撤去して公園化を計画したが、戦争遺跡としての保存を求める声が上がり、整備検討委員会を組織して、解体・保存を含めて検討することになっている。

委員会は12月中に開催する方向で、現在、メンバーを選定している。

https://bit.ly/2MWTurP



asahi.com 2011年01月14日更新

旧川南造船所跡整備 私も一案

伊万里市の旧川南造船所跡の建物を撤去して一帯を公園化する方針を決めている市は25日に、整備のあり方を話し合う検討委員会を開催する。冒頭に「建物の保存と歴史教育への活用」などを求める人たちの声を聞く予定だが、約30分間の発言時間枠に対して13日までに12人の申し込みがあった。1人当たりの発言時間は3分間を切る状況で、「十分な発言ができないのではないか」と懸念する声も出ている。(田中良和)

川南造船所跡地の活用については、塚部芳和市長が昨年の9月議会で、「検討委員会の冒頭に全国の人からいろいろな声を聴きたい」と発言。これを受けて市は、「広報伊万里」の今月号やホームページを通じて、発言者を募集してきた。

当初の計画では、市は申込者が5~6人程度と想定し、30分間でも1人当たり5分程度の発言時間を確保できると見ていた。ところが、14日の締め切りを前に、予想の2倍の申し込みがあった。

建物の撤去反対を訴えて「川南造船所全国同盟」を結成、インターネットなどを通じて署名運動をしてきた千葉県柏市の会社員梅津知弘さん(31)も意見発表を申し込んだ1人。

梅津さんは昨年8月、持参した「遺構を生かした公園化計画」のパネルの受け取りを市に拒否されている。今回はこれを再び持参して、「歴史教育への活用」などの持論を述べる予定だが、「発言時間が10分間くらいあれば、もっと突っ込んだ発言ができるのに」と残念がる。

これに対して、市は「検討委の議事の進め方はまだ、はっきり決まっておらず、30分間という発言時間も状況を見て判断したい」と話している。

https://bit.ly/2E2ZFI9



西日本新聞 - 2011.04.15 更新

「全面保存できず」川南造船所遺構 伊万里市の検討委

伊万里市山代町の旧軍需工場「川南造船所」の遺構を解体し跡地を公園とする計画の検討委員会(委員長・三島伸雄佐賀大准教授)は114日、市内で第3回会合を開き、「遺構の全面保存はできない」との認識で一致した。今後、部分的な保存が可能か検討するという。

会合では、三島委員長が、建物への耐震補強工事について「膨大な費用や時間がかかる上、建物の価値を損ねる可能性がある」として否定的な見解を表明。ほかの選択肢として、建物を外側から見学するためだけの“オブジェ”として保存する▽建物を解体した後、公園のデザインを工夫することで地域の歴史を伝える-などの案を示した。

佐賀大教授の青木歳幸委員は「遺構は全国的にも数少ない造船軍需工場で、歴史的価値が極めて高い」として、一帯を平和公園とするよう提案。しかし、地元住民の委員からは遺構の早期解体を求める声が相次ぎ、委員間の温度差があらためて浮き彫りになった。



撤去の反対賛成、内外からの意見…多岐に渡る検証を以ってしてもやはり「撤去」の決定は限りなく覆らない出来レースでありました(一応反対意見を聞く姿勢を公共の場で示しました)。しかしながら過去にはこの様な撤去が決まっていた状態から復権した遺構があります、日本人なら誰もが知る「原爆ドーム」です。そんな過去の例に幾ばくか期待と想いを込め、「川南造船所全国同盟」は活動していのでしょう。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

内部に入ると造船所のメインドックが広がっていました、内周壁の崩壊が至る所で見受けられますが比較的綺麗な状態で現存していると言えます。

実を言えばこの廃墟、最初に一般的なメディアで取り上げられたのは1988年の事でした。当時を知る資料として出版関係者様から提供頂いたミリオン出版(当時)1988年10月号の「アウトライダー」です、この号で投稿されたツーリングの一幕にこの廃墟が取り上げれれており、まだ廃墟ブームなどが存在しなかったバイク乗り達がツーリングの行程中に沢山来訪したと教えて頂きました(提供者)。

因みにこのアウトライダー誌はその後ミリオン出版→立風書房→学習研究社→バイクブロスと休刊復刊を繰り返しながら現在も発行されている息の長いバイク雑誌です。

アウトドア好きの方でナイフを使用する方はビクトリノックスのアウトライダーの方が馴染み深いかもしれませんね。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

来訪後に知る事になるのですが廃墟というのは放置されていた期間が長ければ長いほど悪戯描きや人為的な破壊行為が多いのだそうです、実際幾ばくかの産業遺構(廃墟)を来訪させて頂く機会に恵まれましたが古い建造物はその傾向がやはり強く、とても残念な気持ちになりました。

しかしこの造船所跡、半世紀の間その様な輩の被害にあう事無く残っていたのは僥倖と言えるでしょう。この様な危険な人達が出入りをしなかった事も解体が積極的に進められなかった一因とも言えます、ですが地域全体がこの廃墟のイメージに引きづられる事を懸念していた地元の方々の強い要望と今後の安全上の問題、それらを含めた諸々の事情が行政の重い事を上げたのでした。

廃墟と化して半世紀、解体問題が提起されてから凡そ30年間の月日が経過して決定された解体。その一歩を踏み出したかに思えたこの造船所跡にはまだ解決しなければならない問題がありました、そしてこれこそが最大の難関として立ちはだかります。


前例が無かった廃墟上層部の確認

ここからは2階部分に移ります、階段などは既に崩落しているので樹木などを頼りに登ることにします。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

来訪当時の2010年、その当時は2階からの写真(2階部分の写真)が殆どないのが不思議でした。それは現地を訪れればなるほど、登れる様な場所が確かに見当たりません。周囲には沢山の細い樹木が壁面を縦横無尽と伸びていたのでそれを頼りにどうにか2階部分へ。

幾分低いですがこの場所で俯瞰できるのはとても嬉しい事でした、来訪時すっかりと調査を忘れて初めて触れる廃墟の美しさに飲まれていたのを思い出します。

注意点
写真ではアブミが確認できますがこれは2011年08月に来訪した時のものです

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

恐らくですが国内にここまで自然と人工物が融合した廃墟はないのではないか、そう思わせる説得力のある迫力が押し寄せます。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

内部をよく見ると所々造船所としてはやや疑問に残る造り(デザイン)が目に留まります、これは造船所となる前にこの工場が別の製造工場として運用されていたからです。

元々は鋳物工場、曹達(ソーダ)工場、全面改築しての硝子工場、そして軍需としての造船所へ時代と共に変貌していくのですがそれは後程【歴史検証】の項にまとめて詳しく説明させて下さい。

この様に移り変わる運用形態なのですが現在の建造物は硝子工場の一部を利用して増築された姿でして、よって本来造船所としては不必要な間取りであったり奇妙な建造デザインだったりするのです。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

拙い表現が重複しますが、やはりこの廃墟は凄いです。

この景観を人工的に作り出すのは恐らく不可能ではないか、そう思わせる美しさです。折角2階部分へ来たのですから屋上へ移動することにしました、やはり階段などのアクセス手段が無いので各所をよじ登るのですが危険が伴うので真似することは何卒ご遠慮願います。



歴史検証

現在公式記録として残っている全ての情報を収集

さて、それではこの廃墟の解体に関する最大の難関とも言えるべき問題を説明していきましょう。先程までに長年の住民感情と各メディアに注目された事による行政の決定、そこへ至るまでの苦難を数多の引用と共にご紹介しました。

まずは1948年からのこの地の航空写真を見てみましょうか。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

恐らく既に操業停止していると思われる1948年の浦之崎造船所、西側の工場も実は造船所施設です、軍需施設として当初の3倍程の敷地で造船を行っていました。

右下の六棟連なっている長い建造物は従業員社宅だった塩浜社宅。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

倒産から13年、操業停止から約20年の姿、廃業後直ぐに換金できる工場設備は持ち出されてしまい、残るのは箱物だけでした。つまりこの姿で廃墟の歴史を重ねる事になります。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

西側の土地は売却が上手く進み、本拠とした造船所跡(中央の土地)と東側の土地が残っています。後述しますが東側を含む残りの土地は少々問題をはらんでおり、結局解体までの期間放置される事になります。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

解体された年の航空写真です、伊万里港内の埋め立て計画(浦ノ崎地区)が進められています。近年では外周作業路が釣り場として人気で早朝には多くの釣り客が確認できます。



実のところ、この廃墟が中々と解体に至らなかった本当の理由はこの建造物と土地の所有者が不明であったり複数であったり…また戦時下における旧公有水面埋立法に該当する埋立地だったという複雑に入り組んだ事情があったからでした。

この工場は元硝子工場を川南工業の創設者である川南豊作が建物と土地を買い取って造船所に改築、運用を開始したとの情報がウェブ上に広がっています。しかしその事実は少々異なります、ウィキペディアにも

「佐賀県浦崎(現在の伊万里市山代町立岩付近)にあった閉鎖されたガラス工場を1940年(昭和15年)1月に川南工業が取得。1943年(昭和18年)軍需工場指定。二等輸送艦、人間魚雷「海龍」、回天[要出典]などを大量建造。戦後は(株)浦之崎造船所から伊万里湾重工業(株)となるも、1955年(昭和30年)閉鎖。そのまま50年以上にわたり放置され、廃墟となって残っていたが、2012年(平成24年)に解体撤去された。跡地は公園として整備する予定。浦ノ崎造船所とも川南造船所とも呼ばれる。」

川南工業 - ウィキペディア
https://bit.ly/2RBoLBp

※ 上記記事内の「浦之崎造船所」の項より抜粋引用

とあります。

この買い取って(取得)というのが誤解でして、川南工業の造船所としての歴史は1925年に閉鎖された「松尾造船所」を1936年9月に川南豊作が買収して「香焼島造船所」と改め造船業を開始したことから始まります。この「松尾造船所の買収」が誤解されて「伊万里の硝子工場を買収」へ繋がりました、では本当の浦之崎造船所(この廃墟)の歴史はどうだったのでしょうか。


川南工業株式会社とはどんな会社だったか

造船業として戦時中は国に多大な貢献を成しえた川南工業でしたが元々は朝鮮半島での製缶工場で財を成した川南豊作が1936年に旧松尾造船所を買収して「香焼島造船所」を運用開始したことから始まります、2年後には南極観測船「宗谷」を無事水進。その後は軍需で戦後まで造船業を続けますが基礎設計が古いこと(艦船の設計能力に乏しいとされる)から1940年代後半には休業状態が続き、1950年に破産申し立てから1955年の倒産に至りました。

南極観測船 宗谷 - ウィキペディア
http://archive.fo/iyXeX

川南豊作は造船技術は全くの素人でしたが財政操作の上手さによって会社を発展させた事業者としての手腕は素晴らしく、軍部との繋がりも太かったことで太平洋戦争が始まると軍需造船所として機能し始めます。

太平洋戦争末期には、悪名高い人間魚雷「回天」など特攻兵器の製造にも着手。「回天」は、「天を回らし戦局を逆転させる」との意味で必死必殺の救国兵器として考案されました。

簡易沿革

1933年 浦崎工業所建設開始(埋立地手前の土地にて※)
1934年 浦崎工業所開設 曹達工場での生産を開始
1935年 同場所(北側)にて硝子工場を新設して生産を開始
1935年 伊万里港内での埋め立て開始(後の浦之崎造船所)
1936年 閉鎖されていた松尾造船所を買収
1937年 香焼島造船所と改称し川南工業株式会社を設立
1937年 向山炭鉱を買収
1938年 曹達工場操業中止
1940年 硝子工場を改築して浦之崎造船所を開設(1943年に軍需工場指定)
1941年 浦之崎造船所での造船開始
1942年 川南高等造船学校設立(現長崎総合科学大学)
1943年 深堀造船所を開設
1943年 香焼島造船所川内分工場開設
1944年 堀造船所徳島分工場開設
1949年 東証新規上場
1949年 大証新規上場
1950年 破産の申し立て
1952年 向山炭鉱の利権譲渡(翌年に樋口鉱業株式会社/新向山炭鉱へ改称)
1954年 東証上場廃止(銀行取引停止、契約違反)
1955年 大証上場廃止(破産宣告)
1955年 倒産

倒産に関しては造船設計の古さから技術の遅れを内部から指摘されており、また軍部との癒着から破綻しかけていた事を経営陣内部から告発などもされ資金難へ。複数の理由が混在した倒産劇だったとの記録も残っています。

注意点
埋め立てに関する内容は後述


川南豊作と言う人物

川南工業株式会を設立した川南豊作は富山県東砺波郡井口村出身(1902年)、1912年に入社した東洋製罐を経て29歳で独立、朝鮮半島での製缶工場(イワシのトマト煮缶詰)で莫大な資金を確保した後に造船会社「川南工業株式会」を起こします。国家主義者だった川南豊作は軍部とズブの関係と成ってからは太平洋戦争での軍需から戦争成金と呼ばれる様になりました。

情報がかなり曖昧ですが東条英機の娘と結婚したという逸話も、東条英機の家族構成に川南豊作の名前は連なっていないので確証は持てませんが事実ならば歴史的にも非常に面白くあります()。息子が三菱重工なので家族内で敵対させるという構図もどこかおかしいですが戦前から戦後の財閥系一族の構成は色々と不思議な点も多く、東条英機に認められたと言う有名なエピソードが一人歩きしたのかもしれません。

注意点
公に認知されている東条英機の子供は息子3人娘4人の合計7人、その内の娘4人の結婚相手は実は全て判明しています。

長女:光枝→杉山茂/元陸軍軍人(自衛官)・実業家
次女:満喜枝→初婚は古賀秀正(宮城事件で自刃)、再婚は田村健二/社会学者
三女:幸枝→鷹森立一/映画監督
四女:君枝→デニス・ルロイ・ギルバートソン/実業家(米)

隠し子が居れば可能性もありますが歴史的な検証結果で言えば全く関係なかったと言えるでしょう。

その後は国内初の破防法適用事件、「三無事件(さんゆうじけん)」の首謀者として有罪判決が下されます。三無事件は1961年12月12日、旧日本軍の元将校らが画策したクーデター未遂で現在でも公表されていない内容が多々有るとされる国を揺るがす大きな事件でした。

この川南豊作ですが最初の製缶工場の運営後、ある程度の資金を複数の工場運営に分散したことは余り知られていません。造船所業を営むまでの間に国内では「曹達工場」や「硝子工場」、「鋳物工場」を営んでいました、軍需で造船業を本業としながらも同時期には別の事業も行っていたようです。


幾重にも絡み合った複雑な工場運用の実態

それでは伊万里の浦之崎造船所の話に戻りましょう。

この廃墟を語る上でよく登場する「硝子工場を買い取って」の文言、先程の説明の最後尾を思い出して下さい。

”造船所業を営むまでの間に国内では「曹達工場」や「硝子工場」を営んでいました”

そうなのです、この硝子工場自体が実は川南豊作その人の工場なのです。そもそもこの廃墟が位置する場所、元は海(海岸)でして埋め立てを行った上で工場が建てられています。その埋め立てを立案、実行した人物さえも川南豊作なのです。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブに保存されている1935年9月5日付(海軍省発行)の「伊萬里港公有水面埋立の件」と題された資料があります。

内容としては埋め立て計画の許可に関する提出書類で、現在ならば都市開発などの大規模な造成許可は知事が認可を出しますが時代柄、当時は軍部(海軍省)の認可が必要だった様です。

さて、ここで認可された埋め立てに関する法律は「公有水面埋立法」というものになります。ウィキペディアの説明欄冒頭には「日本の河川、沿岸海域、湖沼などの公共用水域の埋立、干拓に関する法律」とあり、公の水面を埋め立てて土地を造成する行為ともあります。

写真の資料にも「伊萬里港内公有水面埋立ノ件回答」と確認できると思います。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

別の資料を見ると該当地が「佐賀県西松浦郡西山代村大字立岩字浦ノ崎二番古里地先(古里地とは古く荒れ果てたと言う意味、転じて未整備の地面を指します)」とあり現在の「佐賀県伊万里市山代町立岩79(より海岸沿い先)」と一致します。

さて、この住所は何処かと言えば。


そうなのです、この廃墟が残る場所こそが埋立地該当地区なのです。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

そして決定的な証拠が残っていました、この資料の起業者(埋め立て発案者)の欄には「川南豊作」の名が。目的は「工場用地」とあります、日付を見ると認可は1935年9月に下りています。つまり川南工業株式会社を設立する2年も前にこの埋め立てを計画していたと言うことなのです。

簡易沿革を再度確認して下さい、1934年の「浦崎工業所開設」。埋め立て認可の前年に操業を開始しています。これは埋立地の手前の海岸沿いの土地に工場を建設していたから、その後平行して埋め立てが進めたれて工場を拡大し造船所の元となる「曹達工場と硝子工場」が運用されます。

これらの資料により真しやかに噂されていた「廃業した硝子工場を買い取って」という部分が間違っていたことが証明されたわけです。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

国立国会図書館のデジタルコレクションに保存されている資料から稼動時の「浦崎工業所曹達工場」、場所はこの辺です。



浦崎工業所の曹達工場と硝子工場は同時運用されており、北側(造船所跡)が硝子工場で南側が曹達工場として稼動していました。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

現在のこの場所は埋立の為のダンプが通る通路、土砂の保管場所として使用されています。写真の右側は絶賛埋め立て中ですがここ数年の進捗は余り芳しく無いようです。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

こちらは「浦崎工業所硝子工場」、場所は先程よりやや北側です。



注意点
地図上では現在ファミリーマートがある敷地も含まれます

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

1940年、とうとう歴史に名を残す「川南工業浦之崎造船所」が姿を現します。曹達工場は解体して硝子工場の一部を残して改築、造船パドックを建造しました。奥に煙突が伸びる建物が見えますがこれは現在も残る廃墟(浦之崎造船所)です、形からその面影が見て取れるますね。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

創業時の浦之崎造船所です、写真は造船開始前なので恐らく1940年のもとを思われます。

さて、非常に解り辛い遍歴をもつこの廃墟と特殊な立地。この埋め立てとその上に増築された造船所が何故に解体を困難なものにしたのか、更にその追求を進めていきます。

と、その前に余り見ることのない屋上部分をご紹介しましょう。



川南工業の沿革が複雑で解り辛いので浦之崎造船所のみを抜粋して再記しておきます。

1933年 埋立地手前の土地にて浦崎工業所建設開始
1934年 埋立地手前の土地にて浦崎工業所開設 曹達工場での生産を開始
1935年 埋立地手前の土地にて硝子工場を新設して生産を開始
1935年 伊万里港内での公有水面埋立の認可が下りる
1935年 伊万里港内での埋め立て開始
1938年 曹達工場操業中止(後に解体)
1940年 埋立地に硝子工場を改築(一部解体・一部移設含む)して浦之崎造船所を開設
1941年 浦之崎造船所での造船開始
1946年 伊万里湾重工業株式会社と改称

注意点
1940年代後半(1948~1949年頃)に工場休止(事実上の閉鎖)

名称改称後は船舶の修理や鉄道の貨車、客車なども製造した

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

屋上に上がってきました、伊万里湾を一望できるのは何とも気持ちが良いです。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

建造物でこの部分より上階はありません、すっかりと緑に覆われていますが少し内部を覗いてみましょう。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

ポンプ室だったと思われる最上階の部屋、内部構造に関しても調査を行いましたが設計図などは発見できませんでした。

創業時の写真でさえ殆ど歴史資料レベルでして民間からの入手は叶わず、公的機関からの写真は既に掲載したものが殆どです。

それでは屋上からの風景を少々お楽しみ下さい。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所



スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

廃墟解体

保存活動が叶わず、解体開始

2011年11月後半、今回の来訪でお世話になった地元のメディアから「解体に伴う作業用テントが設置され、12月から敷地内の除草作業が開始された」と一報が入りました。いよいよ解体が開始されるのです、解体に関する情報も送って頂いたので記載したい。

・工事名称:平成23年度山代町浦ノ崎地区建物等解体整備工事
・工事場所:伊万里市山代町地内
・工事期間:平成23年11月15日~平成24年03月16日
・請負金額:55099880円(内消費税 2623800円)
・工事概要:伐採工20000㎡ / 建物解体工13215㎡ / 土工一式 / 副産物処理一式
・発注者名:伊万里市役所教育委員会教育総務課(連絡先0995-23-2125)
・施工業者:株式会社 相生(連絡先0995-23-9060)

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

作業期間は工期として2011年11月15日から2012年03月16日までと公示されている、半世紀以上の月日を経て日本の戦争に関する歴史上極めて重要な軍需遺構が解体される事になった。

2011年12月15日更新の朝日新聞系ニュースサイトで掲載された内容によると除草作業が終わり、最後の一般公開が行われたそうです。除草作業が終了した造船所跡は毛を刈り取られた羊の様な姿で久し振りに本来の造形を世に晒したのでした。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

地元と歴史研究大学の関係者も訪れ、歴史的重要な部分の選定に当たった。選定された部分は部位保存されていずれ一般公開される予定だという。

同日、行政サイトには市長の関連手記が掲載されている。

市長雑感(第307号)- 川南造船所への思い
https://bit.ly/2GjCTOu

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

2011年12月21日更新の読売新聞系ニュースサイトで掲載された内容によると地元大学関係者が最後の調査に訪れ、構造調査や解体後の土地利用に関する計測、部位選定などを行った。この最後の調査をもっていよいよ本格的な解体作業が始まった事になる、残留物が殆ど残っていない廃墟である事から恐らく早い段階で建造物の撤去は終わるのだろう。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

こちらは基礎が剥がされ粉砕作業がされている最中だった、あれだけ鬱蒼としていたこの場所が丸裸にされているのはどうにも忍びない気分です。

内部には標語が書かれた主柱から解体が始まっていました、歴史的価値があるとされた標語の書かれた柱は別の場所で綺麗に裁断されるそう。

未確認ではありますが軍需工場の指定を受けた軍事拠点として米軍にマークされており、戦時中は幾度と無く艦隊や艦載機からの機銃掃射を受けたそうです。今回の解体に際し、その掃射痕も保存する為に探し出されたとの情報も。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

2012年01月10日更新のASAHI.COMにて解体中の造船所を撮影したニュースが掲載されました、実際に目で見た光景が再びニュースとして流れます。

戦時中「人間魚雷」造った造船所跡の解体始まる 佐賀
https://bit.ly/2N2CssE





実際に開始された解体作業ですがここまでの道のりはとても大変なものでした、【歴史検証】の項で述べた通り、如何に複雑な経歴をもった建造物がご理解頂けていると思います。

しかし本当の困難は記述した聞きなれない言葉「公有水面埋立」にあるのでした。

公有水面埋立法 - ウィキペディア
http://archive.fo/mLJ2v

海岸沿いに建設して運営していた曹達工場と硝子工場、恐らくは元々造船所への運用形態移行か増築する形で埋め立てを視野に入れた工場運用だったと思われる。

公有水面埋立の認可が下りて埋め立てを進め、晴れてその土地に造船所は建設されます。戦時下、方の運用は幾ばくかいい加減で海軍省と共に軍令部の支持も多少反映された営業が続けられた筈だ。その証拠に認可の決済印には当時の知事、海軍省、軍令部の担当官の名前が連なっている。

正規の認可だったのかも疑わしく、また海岸沿いを含めた土地利権が曖昧な間々進められたのはその後の土地利権に関する問題が拡大した原因とも言われています。

何より一番の問題は公有水面埋立法における埋め立ての途中でその免許が失効してしまった事だ、更に軍部の強行により失効後も造船所の増築は進められて軍需指定工場へ。法より勝利が優先される戦時下の運用によりこの特殊な土地の上に存在する建造物は色々な問題をはらむ事に。

まず公有水面埋立法の免許失効によって法律上は土地としてではく、海岸の延長(流れ出た土砂や海流による地形変化)上と認識される事態に。海でも土地でもない、確定できない場所となりました。

更に敗戦後の戦後処理で工場の運営権、建造物の利権分散化(複数の方がこの工場を分散取得)、この場所を公有水面埋立とする時に重複する個人敷地を含めて認可を申請して許可が下りてしまったこと(後に部分的な土地の利権確認が多発)、運営母体である川南工業が倒産した上創業者が逮捕されている…などの問題が山積したのが解体を引き伸ばしてしまった要因であると考えられます。

そもそもこの場所に地面は存在しない事になっているのです、これは2000年代に入ってからも佐賀県の県議会で数度議題に挙がった様で議事録にも残されています。

またこの建造物に関する登記簿謄本・建物図面・各階平面図・公図の取得なども戦時下で消失(したとされているが廃棄処分されたと考えられる)のも諸々の確認が後手に回った原因だろう。

よって行政は、

・重複した土地の利権問題を解決
・建造物の利権者の発見と譲渡や移譲などの手続き
・この土地における公有水面埋立法の矛盾解決

を行うことになる。しかしこの建造物が廃墟化して既に半世紀以上、当時の利権者は殆ど亡くなっており、その家族を探し出すのも大変だった事だろう。またその家族が必ずしも関係書類を保持していたかも定かではない状況、混迷を極めたのは容易に予想できる。

これらの問題を解決し、解体に漕ぎ着けた佐賀県と伊万里市。この事実を鑑みれば保存活動に対する諸々の対応が少々冷え込むのも納得できる話だ、更には地元住民の悲願とあってはどちらを優先すべきかは…長い歴史の中で揺れに揺れた操業時の幾重にも及ぶ問題とその後の経過がこの廃墟をより深みのある歴史的遺構に成長させたのかもしれません。

ここからは解体の様子を数枚の写真にて。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

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解体は実質1月中で終了、2月には整地作業が始まります。3月初旬には行政への引渡し(工事完了報告)が為される筈なのでこの解体劇ももう終盤といったところです。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

この正門も今回の解体で無くなってしまう予定でしたがどうやら保存される模様です。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

2月の初旬、季節外れの鯉幟が一尾はためいていました。明らかに工事関係者の仕業ではないのですがこの建造物が解体されるギリギリまでこの間々にされていた様子、工事関係者の粋な計らいでちょっとした悪戯がランドマークに姿を変えました。

一尾で空を泳ぐその姿は寂しくも歴史の承認として存在し続けた造船所跡最後のアピールだったのかもしれません。



緑地計画

暗礁に乗り上げた不透明な緑地計画

2011年の年末から開始された解体作業、無事2012年03月には終了しました。解体が決定した当初、市はここを緑地公園かして記念碑(造船所跡としての)の様なものを用意するとプレスリリースしていました。

それから5年、2017年の現在はどうなっているのでしょうか。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

2012年03月、現場はこの様な状況でした。丁度解体工事が間も無く終わる頃です、殆どの作業が完了して残るは重機の移動や残った廃材の運び出しといった感じです。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

殆どの整地も完了していました、再度行政に確認しましたが2012年の時点では今後この場所を公園とするべく工事を始めるとのことでした。

しかし2017年現在、この地は相変わらず更地の間々となっています。唯一変化が有るとすれば伊万里市都市形成戦略や国土交通省九州地方整備局唐津港湾事務所などが公表している伊万里港内の浦ノ崎地区埋め立て計画に関する進捗情報です。

2016年に発表された「廃棄物海面処分場整備事業 伊万里港(浦ノ崎地区)」を見て下さい。

廃棄物海面処分場整備事業 伊万里港(浦ノ崎地区)
https://bit.ly/2N2pVFy

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

伊万里港内の開発計画の中に浦ノ崎地区に関する記述があります。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

地図を確認すると問題だった公有水面埋立を擁する大規模な埋立計画が進んでいた事が解ります。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

解体に踏み切った本当の理由がここにあります、この開発計画の工期をよく見て下さい。「1982年~2031年」と有ります。2011年の段階で既にこの埋立計画は約50%が完了しており、外周から埋め立てていてこれから内側を埋立開始という時期です。

そうです、造船所跡の解体は民意でも注目を集めたからでもなく、ただ開発計画の埋め立てがこの廃墟の地域に及んだ事で進められた予定された計画解体だったのです。

勿論、解体時は地元の住民感情やメディアに取り上げられた手前の対応も有ったでしょうから市長自らこの様なコメントを残しています。

伊万里市 市長雑感 - 2011年12月15日更新

この川南造船所は、長年、地元山代町の浦ノ崎地区住民の皆様が地域の衰退を象徴するような建物の残骸だから早く解体撤去をして欲しいと願われていたものです。歴代の市長も、何とかその思いに応えようと努力をされてきたと思います。補償、解体費を県が全額補助をするという古川知事の英断で一気にその方向に向かう矢先に、市内外から戦争遺産、平和遺産で残して欲しいという声が出てきました。

私は正直、このような声に対して、不思議な思いがしました。戦後60年余り、敷地には雑草が生い茂り、建物はコンクリートむき出しで、国道沿いの目のつく場所に存在していたはずなのに、保存をせよという声を聴いたことは、今まで全くありませんでした。ようやく地元の皆様の要望どおりに解体に向け事が進もうとしていた矢先に、なぜ保存の声が出てきたのか。なぜそれ以前に平和遺産や戦争遺産としての保存運動が起こらなかったのかと。

なんとか地元の期待や要望に応えようと、問題解決に向け、血のにじむような努力を長年してきたのは、一体何だったのかと自問自答さえしました。

しかし2017年の市長選で立候補(5選出馬)した時にはあっさり当初の目的を公に発言しています。

伊万里市長選 塚部市長、5選出馬表明 - 佐賀新聞 2017年09月12日更新
http://archive.fo/IqsSJ

次期に向けた課題に、西九州自動車道延伸に合わせた道の駅整備などの交流人口増加策のほか、木材輸出の拡大やクルーズ船入港を視野に入れた伊万里港活用の促進、浦ノ崎地区の埋め立て処分場の産業用地への転換などを挙げた。

”浦ノ崎地区の埋め立て処分場の産業用地への転換”

いえいえ、発言したことは評価できますがこの計画、1982年に開始されています。安全上の問題や負の遺産などの住民感情など元から考慮せずに計画が進められてきたのです、国土交通省九州地方整備局唐津港湾事務所のこの地区の紹介ページをご覧下さい。

国土交通省九州地方整備局唐津港湾事務所 - 浦ノ崎地区
http://archive.fo/ueD7U

廃棄物処理施設としての工業用地確保の説明がしっかりとされています、因みにこの発表は廃墟解体前のものなので以前より埋め立ての為の解体は決定していたのです。

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

スゴログ 川南造船所 浦之崎造船所

最初から緑地公園化(記念碑なども含む)など存在していなかったのです、ですから何年経過しても公園造成工事など開始される筈も無く、今後は2031年まで少しづつ埋め立てが進めれていくのみなのでした。

時期を同じくして佐賀県がこの埋立地に工場用地として企業を誘致する事を決めており、丁度伊万里市からも埋め立ての進捗が順調に進んでいることを確認すると解体予算を計上。県が解体に関する全ての費用を負担するが決定します、この様に解体は行政事業の一環として行われた…というのが事の顛末なのです。

にほんブログ村 写真ブログ 廃墟・廃屋写真へ

非常に長いレポートでしたがお読み頂き、有難う御座いました。今回のレポートは、

調査来訪 → 現地調査の為に複数回来訪して外観と内部を撮影
歴史検証 → 机上調査をはじめ、関係各所や専門機関からの情報提供を精査
廃墟解体 → 数ヶ月に及ぶ解体作業の進捗状況を観察
緑地計画 → 解体後の現地の様子とこれから

をご紹介しました。またこのレポートと併せてお読み頂きたいのは



の2つのレポートです、どちらもこの川南工業浦之崎造船所と深く関わりがある物件です。お時間が許す時に是非ご覧下さい。

それでは美しき軍需廃墟「川南工業浦之崎造船所」のレポートを終わりたいと思います、最後に少々面白いエピソードが書かれたページがありましたのでリンクを掲載したいと思います。非常に興味深いのでおすすめです。


参考・協力

伊万里市総務課
伊万里市情報広報課
伊万里市観光協会
松浦鉄道株式会社
浦ノ崎地区にお住まいの方(聞取り調査にて)
佐賀新聞
伊萬里新聞
川南造船所全国同盟



レポートの場所 ※ GoogleMap登録済



注意点

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html



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