2024-03-28T08:51:24Z #022 浦ノ崎変電所

#022 浦ノ崎変電所

川南工業浦之崎造船所と密接な関係にあった浦ノ崎変電所、その運用は果たして軍需だけだったのか。民間企業や一般家庭への送電は行われていないのか、半世紀以上を経過した森の中の小さな送電施設の歴史を近隣住民の聞き取り調査と数少ない資料から当時へ遡ります。電力会社の協力も得て辿る詳細レポートです。

スゴログ 川南造船所 浦ノ崎変電所
佐賀県│浦ノ崎変電所

調査:2010年09月
再訪:2011月09月
公開:2010年09月21日
更新:2019年12月01日に追記情報 / 最後尾参照
名称:正式名称→浦ノ崎変電所 / 通称→浦の崎変電所
状態:長期間放置

初公開から長い時間が経過し、掲載情報も古くなったので不用な部分も含め既に常用化した部分を削除して再構成致しました。またその後判明した新しい事実なども追記しております、追跡調査は2015年に行いました。


殆ど知られていない川南造船所の重要関連施設

解体が決定した川南工業浦之崎造船所(エントリー当時)、この軍需遺構を代表する廃墟の程近い場所にバス停があります。このバス停、名称を「浦の崎変電所前」というそうで今でも西肥バスの運行ライン上に残されています。

しかし周辺を見渡しても”浦の崎変電所”なる施設は見当たりません、眼前の大規模造船所跡でもあるこの廃墟との関連性が否が応でも想起できる魅力的なキーワードではありませんか。

早速付近の住民の方へ聞き込みを実施、するとある場所を教えて頂きました。どうやら変電所は本当に存在する様でして、いったいどんな施設なのか期待が膨らみます。

スゴログ 川南造船所 浦ノ崎変電所

バス停前の交差点(線路と道路)を直進すると直ぐに写真の様な景観が目に入ります。距離にして20メートル程、更に歩を進めましょう。

スゴログ 川南造船所 浦ノ崎変電所

先程の写真から10メートル、地図上では緩やかなカーブを描くこの地点が変電所の入口のようです。



確かにバス停の名称に偽りなし、距離にして30メートル足らずでした。しかしその姿は深い樹木に覆い隠されて確認する事ができません。

スゴログ 川南造船所 浦ノ崎変電所

鬱蒼と生い茂る草木…が、確かに薄い踏み跡を残す道が見て取れました。その幅は車一台分が確保されており、運用当時は関係者車両の往来があった事でしょう。

足元を見る限り、最近(2010年当時)に限っては人の進入はない様子。足跡などは一切なく、やや深い枯葉の絨毯が目的地まで誘ってくれたのでした。


スゴログ 川南造船所 浦ノ崎変電所

来訪者が皆無の電力施設

どうやら目的地に到着したようです、この建造物が地元の方に教えて頂いた送電施設「浦ノ崎変電所」のようです。

国土地理院では2棟が確認できますが実際は1棟のみが現存、提供された情報では過去に木造の倉庫のようなものが在ったとありますが収集した資料にその倉庫に関するものはありません。

周囲は草木が無造作に自生しており、どうやら植林などではなくて意図してこのような場所に建設したと推測されます。これには理由がありますが歴史検証の中で記載したいと思います、まずは残されているこの建造物を覗いてみたいと思います。

注意点
周囲の「立入禁止」柵は運用時はありませんでした、運用停止後に行政(もしくは電力会社)が自主的に設置したと思われます。



スゴログ 川南造船所 浦ノ崎変電所

正面口、外周を確認しても本当に小さな変電所です。ここまで小規模な変電所も珍しく、運用当時の状況がとても気になります。

話の元を辿ればバス停の目の前に鎮座する大規模な廃墟との関連性を思い至っての事、好奇心と見聞欲を昇華するように帰宅後の机上調査でその多くの謎は解明されます。

それでは歴史検証を交えてこの浦ノ崎変電所がどのような存在なのかを説明していきましょう。

スゴログ 川南造船所 浦ノ崎変電所

内部はゴミが散乱しています、個人の不法投棄から企業的な少々特殊な産廃までが残されていました。しかし残留物から川南工業浦之崎造船所との関連性を推し量るものは見当たりません。

そこでまずはこの変電所の運用記録を九州電力より取り寄せました、付随資料も頂けたので併せて記載したいと思います。

まずこの変電所が歴史上に登場するのが1936年、旧九州電力の熊本電気の管理下変電所としてです。送電停止は1974年、運用廃止も同年の1974年となります。さて、ここで注目してほしいのは「1936年」という運用開始の年。

川南工業の創設者だった川南豊作が川南工業浦之崎造船所の前身となる浦崎工業所の開設をしたのが1934年、この地の埋立認可を取得したのが1935年だ。

特に大きな企業や工場がなかったこの浦ノ崎地区において急激な電力消費量を誇る工場が建設されたことになる、連なる民家も少なかったこの地域の電力供給量は果たして満足のいくものだったのだろうか。

トラブルや故意の送電停止が珍しくなかった時代だったとしても地域の電力消費量の増加は著しく、そもそも工場を運営する上でも電力不足は最初から想定していたことであったと思われる。

これらに関しては「#21 川南工業浦之崎造船所」を参照して頂きたい。

#021 川南工業浦之崎造船所

埋立と平行しながら「曹達工場と硝子工場」を並列稼動していたこの地の電力は余りにも微々たるもので別途送電施設が必要不可欠であったことは至極当然。

そして、この変電所の運用開始は1936年。

つまり、この浦ノ崎変電所が何故作られたかといえば造船所の為でなくて「造船所の前身となる曹達工場と硝子工場の電力確保として」だったのだ。

太平洋戦争開戦の年となる1941年、浦之崎造船所での造船が開始される事でこの変電所は工場への送電施設から軍需工場への送電施設へと大きくその役割を変えることになります。

この間、一般家庭や民間企業への送電は行われることはありませんでした。元よりこの変電所の設置は当の川南豊作が埋立認可の申請時に懇願したことだったのかもしれない、ならばこの変電所と大規模工場との位置関係も合点がいく。

変電所や発電所は埋立地などには設置できないので地盤の固い、しかし本来電力を必要とする施設から近くなくてはならないと言う条件を満たすのがこの場所だったと結論付けられるのではないか。

また軍部と密接な関係にあった川南豊作が民間企業から軍需工場への転換を見越してこの地を選定し、更には変電施設の建設を申請していたのならば尚の事この場所への設置が当然ともいえる好条件だったと思われるのです。

スゴログ 川南造船所 浦ノ崎変電所

川南豊作が諸々の事業の破産の申し立て(1948年)をする2年前の航空写真、それと変電所の位置関係はこんな感じだ。

しかし改めてこの場所は良くできていると関心させられる条件が整っている、まずは造船所としての立地の良さ。物資運搬に便利な主要道路と鉄道、そして送電施設。軍需工場としては余りにも出来過ぎており、事実戦時中は米軍の攻撃目標になり機銃掃射を受けることになる。

余談だが浦ノ崎変電所には防空壕が残されており、これは万が一爆撃を受けた際に浦之崎造船所の関係者が逃げ込む為に作られたとされています。

そうなのです、埋立地に併設するのを避けただけではなくてこの戦争を見越して頑丈な岩盤が「防空壕としても」必須条件だったのです。だからこそ、この場所に変電施設を計画し、有事の際は直ぐに逃げ込める”距離感”も条件の一つだったと言えるのです。

が、しかし。

現地へ赴いた方なら直ぐにその無能さに気づく筈、従業員数に対して余りにも規模が小さいのだ。川南豊作が造船所付近ではなくて敢えて変電所脇に防空壕を作らせたのは掃射や爆撃の対象が造船所に集中すると鑑みてのことだったと思われる、が実際に使用されたかどうかは確認できなかったと同時に実際誰が指示して作らせたのかを解き明かすことはできませんでした。

スゴログ 川南造船所 浦ノ崎変電所

1955年の倒産から約10年、変電所はまだ残されていた。先程も記載したがこの変電所の運用廃止は1974年、では工場閉鎖から20年以上は一体何処へ電力を送電していたのであろうか。

その答えは何処へも送電しなった、であろう。

注意点
浦ノ崎変電所からの近年における送電記録が残っていません

1970年代の九州電力は既にインフラをこの地域に必要分整えており、小規模な変電所の運用を必要としていなかった。

写真を見れば一目瞭然で付近の必要電力は通常の電力分配で十分、大規模な工場もないこの地域において変電所は既に無用の長物と化していたのだった。

因みに国土地理院に2棟描かれていた件、この写真を見ると確かにもう1棟確認できる。薄くポイントした変電所施設、そしてその右斜め下に見える建造物。これが一体なんの役割を果たしていたかは不明の間々、今後可能であれば追跡調査を行ってその謎を解き明かしたいと考えています。

スゴログ 川南造船所 浦ノ崎変電所

こちらはこの変電所のレポートでよく勘違いされる「ヂスヨン棒」、実は現地でよく見ると「ヂスコン棒」と書かれています。丁度「コ」の中央部分に釘が刺してあり、錆が広がって「ヨ」に見えるのでした。

注意点
ヂスコン棒=ディスコン棒の意

因みにこの施設の機器達は川南工業が倒産して間も無く工場内の機器が撤去されるのと時を同じくして撤去されたとの情報も、やはり実質的な運用は同時期に終焉を迎えており、電力会社としての送電廃止は1974年より大分早かったと思われます。

スゴログ 川南造船所 浦ノ崎変電所

川南工業浦之崎造船所と共に謎が多かったこの送電施設「浦ノ崎変電所」、今では「浦の崎変電所前」というバス停のみでその存在を確認できる忘れ去られた施設でした。

実しやかに語られてきた「造船所へ送電していた」という噂、それも実は前身となる工場への送電が元になっており、また実際に軍需工場として稼動した浦之崎造船所へも電力を供給した”史実に残るべき歴史的な変電所”であったのはスゴログとしても僥倖と言えるでしょう。



2019年12月 追記更新

当サイトをご覧頂いた方から大変貴重な情報提供がありました、現地の聞き込みが根拠となっているので信憑性も高く、過去触れられていない史実かと思われます。

スゴログ 川南造船所 浦ノ崎変電所

現在国土地理院にてこの浦ノ崎変電所付近を確認すると二棟の建造物が記されています、しかしどうやら実際には四棟あったようで

・浦ノ崎変電所
・社宅
・住宅が二棟

だったそう。変電所すぐ脇の建造物は川南工業株式会社のもの、といっても有名な造船所の従業員社宅ではなく前身となる曹達工場と硝子工場の従業員用だったようだ。しかし造船所として転用された後も同様に社宅運用されていたので結果的には同じに。

住宅二棟に関しては確認が取れず、当時の航空写真を何枚か確認しましたが住宅が写りこんだものを見つけることができませんでした。

また変電所運用当時は低いながらも送電用鉄塔が複数、木製の電柱も海へ向って設置されていたようです。こちらに関しては記録写真が残っているようなので入手次第掲載しようと思います。

注意点
もう一棟、変電所脇に家屋があり、社宅運用されていたようですがこちらは元々が民間家屋だったこともあって関連施設の棟数から除外致しました。



今回、この情報をいただいてもう一つ確証の無かった変電所付近の防空壕の存在に関してこの件と共に確認をとりたく、以前協力頂いた元伊万里市の市議の方へコンタクト。

資料を見付け次第送っていただく事を約束した上で3つほどの防空壕があったことを教えてもらえました、それぞれ大小別の役割があったようで一時避難用や数日篭ることが可能なものまであったとか。

位置関係もハッキリしておらず、これらを含めて何れ関連資料を入手できる日がきそうです。私達の活動は沢山の情報提供者や協力者に支えられている側面もあり、今回も心よりの感謝を。今後も何卒、宜しくお願い致します。

情報提供者 石井崚太 様

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#021 川南工業浦之崎造船所
https://www.sugolog.jp/2010/09/021-kawanami.html



さて、この変電所ですが。ほんの一時期でしたがもう一つの施設へも電力を供給していました、その施設も造船所の関連施設なのですがそのお話は以下の関連エントリーで是非お読み頂ければ幸いです。

参考・協力

九州電力
伊万里市総務課
伊万里市情報広報課
浦ノ崎地区にお住まいの方(聞取り調査にて)



レポートの場所 ※ GoogleMap登録済



注意点

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html



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