桜並木摂津を前に途切れけり

 

「方円」2022年6月号円象集掲載。

私の住む京都府京田辺市は、大阪府枚方市に隣接している。私の住む地域を通る道のひとつに、その枚方に直結している道がある。そこまで辛夷や桜など、春に花開く並木が続いているが、枚方へ繋がる道路にはそれがない。大阪府は昔で言えば摂津。こちらは山城。ちょうど国の境目で花並木が途切れているように見える。厳密に言えば違うかもしれないが、花の途切れたところが国の端のように見えて、それぞれの地域の違いを見たような気がして詠んだ句。

先程まで、昔のドキュメンタリー番組を見ていた。ある国の民族同士の争い。メディアが扇動して、一般市民が加害者にも被害者にもなる現実。恐ろしかった。これは別に遠い世界の話ではない。生粋の京都人はいけずで、他の地域の人を「ウチらとは違う人やさかい」などと下に見ているなどと揶揄される事が多い。ある面では的を得ているかもしれないが、それを100パーセント信じるのか信じないのかはその人次第。しかし他からの情報という要素もある。真実を見抜く目を養うのは、そう簡単ではなさそうだ。

 

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彼方まで途切れぬ雲や百花舞ふ

 

「方円」2006年6月号雑詠掲載。

花を用いた季語に「花曇」と「花の雲」というものがある。前者は桜が咲くころの曇り空のこと。後者は桜の花が一面に咲き連なった様子を雲に見立てたもの。同じような言葉だが、場面が全く違う。しかし、桜の花がメインであることには変わりない。そんな桜の花が、そろそろ散る時期になった。この句はそんな時期に詠んだもの。花曇りではないが、雲が途切れることなく空に浮かんでいる。そして遥か彼方まで連なって続いている。そんな風景の中で、散った桜の花びらは風に舞って、彼方まで連なる雲に色を添えている。そんな華やかな様子を詠んだ句。

両親が亡くなってから、時々「浄土」という言葉を句に入れるようになった。「鷹渡る浄土は遥かその先に」という句を詠んだのは2021年秋。人間が現在住んでいる地球の上の空は繋がっている。もし浄土というものがあるなら、それも遥か彼方の空で繋がっているのだろう。この星に住む者みんなが、同じ環境のもとに生きている。それを考えると、今各地で起こっている紛争や揉め事、様々な問題を、対岸の火事として眺めているだけという訳にも行かないのではないか。自分にできる事はないかもしれないが、そう感じている。

 

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桜蕊降らせる風に逆らひて

 

「方円」2003年6月号雑詠掲載。

この句、実は用法の誤りがある。それに今気が付いた。「桜蘂降る(この場合は『蕊』ではなく『蘂』の字を使う)」は春の季語。桜が散った後、花の「がく」に残った蘂が落ちる様子を示す。この句は30代前半に詠んだもの。恐らく花びらが散るイメージで詠んだものと思われる。最近まで、こういう句を作っていた。桜蘂が落ちて宙に舞う。時折風が吹くが、その風に身を任せたり逆らったり、色んな動きをしながら地面に落ちる。それを表現したかったのだが、用法も字も誤ったようだ。

用法こそ誤ったが、表現方法については、今でも時々使うフレーズがある。「逆らふ」という言葉。風に逆らったり、川の流れに逆らったり、並に逆らったりと、自然界のありとあらゆるものに、花びらや葉っぱ、雪などを逆らわせた。俳句を20年以上続けているが、表現方法の根本は、そう簡単に変えられないようだ。いずれにしても、昔の句を振り返って気づいた言葉の誤り。まさしく日々勉強と言える。

 

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①燕来る病の地より病の地へ

②燕来て見知らぬ同士語り合ふ

 

①「方円」2020年6月号円象集掲載。

②「雲の峰」2023年6月号青葉集掲載。

今日は「燕来る」を用いた2句をご紹介したい。

燕は夏鳥だが、春に飛来するので春の季語とされる。民家の軒先などに巣を作り、雛を育てる姿をよく見かける。自宅の最寄り駅コンコースの防犯カメラ付近に、毎年燕が飛来して巣を作る。2句とも同じ場所の燕を詠んだ句。①は例の感染症が猛威を振るっていた頃に詠んだ句。駅付近も静まり返っていた。気のせいか、飛んでくる燕も少なく見えて、あまり鳴いたり囀ったりしていないようにも感じた。この燕がここに飛来する前にいた場所も、やはり感染症が蔓延しているのだろうか。そんな事を感じて詠んだ句。②はその3年後。日常生活が戻った中でやってきた燕。駅だけでなく、その近辺の民家にも巣を作った燕は、盛んに巣から飛び立って、近くの電線などで羽を休める。2羽3羽と集まって来ると、しきりに鳴きだす。それが知らぬ者同士おしゃべりをするように見えて詠んだ句。

燕にとっては、昔から続く生の営みに過ぎない。毎年同じルーティーンなのだろう。そのルーティーンを人間が客観的に見て、そこに情感というものを加える。それによって、同じ風景でも日毎、年毎に違った感情が生まれる。その典型が、今回紹介した2句なのかもしれない。見え方、感じ方がそれぞれ違うというのは、人間ならではという事だろう。

 

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風一過白木蓮の乱れ髪

 

「方円」2004年6月号雑詠掲載。

4月5日はヘアカットの日。1872年(明治5年)のこの日、東京府が「女子はみだりに髪を切るべからず」という「女子断髪禁止令」を発布した事から、この日をヘアカットの日としたとされる。あまり関係ないが、今日は髪を想像させる句をご紹介したい。木蓮は春先に大きな花を咲かせる。私も知らなかったが、木蓮は本来紫色の花。白い花は同族の白木蓮を指す。そんな白木蓮だが、大きな花びらが故に、風が吹いたら花びらがくしゃくしゃになる。それを乱れ髪に例えて詠んだ句。

今から20年前、30代前半に詠んだ句という事で、表現がいかにも若い。恐れることなく擬人法を使っていると、今読み返してみると感じる句が多い。擬人は時に表現が誇張され、失敗する事が多い。使うにも慎重さを要する。若いからこそできた表現だろう。しかし、創造力というものに関して言えば、この頃の方が長けている気がする。見たものを何とか表現してやろうという気持ちが見え隠れする。あまり形式にこだわり過ぎず、思ったままを表現するという、原点に立ち返る必要がありそうだ。

 

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