2019年01月28日
社会の縮図
息子が、4歳くらいの時だったと思います。いつものように朝、保育園に送って行ったときのことでした。
上級生下級生を問わず、登園した子みんなが一旦集合する教室で、朝の健康チェックのため、息子は先生に体温を測って頂いていました。
私はそれに付き添って待っていたのですが、私の目の前には、息子より上級の子たちが、丁度自分の教室へ移動する時間だったらしく、1列に並びはじめていました。
その時、たまたま私の目の前で、割り込みをした子がいたのです。
当然、自分の前に割り込みをされた子は納得がいかなかったのでしょう。
「●●!後ろに並べよ!!」
といって、割り込んできた子を排除しようとします。
割り込んだ子は、割り込んだ意地があったのか、頑張ってその場にいようとします。
すると今度は、前に並んでいた子が、割り込んだ子を攻撃しはじめ、ついには突き飛ばしてしまいました。
突き飛ばされた拍子に、体温を測ってもらっていた私の息子にちょっとぶつかったのですが、割り込んだ子はその場でワンワンと泣きわめき始めました。
私の息子は、キョトンとして、そばにいる先生に「あの人、泣いてるよ」と教えていました。
一般社会でも、タクシーの待ち列や、セール時期の開店待ち列など、たまぁ〜にこういった「割り込んだ」「割り込んでいない」でトラブルに発展することって、ありますよね。
私もかつて、就業中のイベント時に、職業柄、業務の一環として、待ち列でトラブルが無いように細心の注意を払って対応してきた記憶があります。
ともすれば、「運営側の案内に問題があったのではないか」ということにも転嫁されかねません。
事の真相は当事者にしかわからないことがたくさんあるわけで、仲裁に入る者も、キチンと事の顛末を理解してから介入する覚悟をしなければ、「火に油を注ぐこと」にもなりかねませんし、下手をすれば自分が火傷をこうむることにもつながりかねません。
その事の顛末自体を把握することも、非常に難しい時があります。
前々職では、肌で感じることが本当に多々ございました。
今回の一件の場合、割り込んだ子が事の発端を起こした張本人ではありますが、それを注意する子も言い方が少しキツかったように感じられたので、言われた方も意地を張って頑張ってしまったのでしょう。
最後は、事を起こした子は力づくの制裁を受けることになったわけですが、この「事件」の場に居合わせた子は、私も私の息子も含めて、考えさせられる貴重な一件だったと思います。
争いとは、それぞれが「自分は間違っていない」と思った時に起きてしまうわけで、その時に自分の正当性を周りに吹聴して味方を付けるのが得策なのか、自分の正当性を最後まで信じて、例え「一匹狼」になってでも、自分の正当性を貫き通すのが得策なのか・・・。
大人も子供も、それぞれの社会で「事件」に遭遇して、そこで自分はどう向き合うべきかを考える・・・。
真の正解は当事者にしかわからないけど、相手にこうしたら自分の主張が受け入れてもらえるのではないか、と思考していくことが一つの修行なのかな、と思いました。
息子から「あの人、泣いてるよ」と報告を受けた先生は、「みんなで仲良く行き(移動し)ますよ」と優しくお声掛けされていました。
私は、おそらくこういったことは日常茶飯事だし、だからこそ当事者同士で解決する力を促しているということなのかな、と理解しました。
自分の正義を育てるためには、社会からジャッジを受けること。
でも、そのジャッジにおかしいと思うことがあれば、おかしいのではないかと疑問を呈すること。
そこでおかしいと自分が納得できれば、その人の成長につながることなのだろうかと。
これが同じような境遇に再び遭遇した時の自分の道標になるのだろうと・・・。(自燈明・法燈明)
保育園の先生が、あえてそこに仲裁に入らなかったのは、まさにこれを気づかせる取り組みの一つなのではないかな、と思いました。
ほんの数分の、ほんのちょっとしたひと時でしたが、「社会」を感じるひと時でした。
上級生下級生を問わず、登園した子みんなが一旦集合する教室で、朝の健康チェックのため、息子は先生に体温を測って頂いていました。
私はそれに付き添って待っていたのですが、私の目の前には、息子より上級の子たちが、丁度自分の教室へ移動する時間だったらしく、1列に並びはじめていました。
その時、たまたま私の目の前で、割り込みをした子がいたのです。
当然、自分の前に割り込みをされた子は納得がいかなかったのでしょう。
「●●!後ろに並べよ!!」
といって、割り込んできた子を排除しようとします。
割り込んだ子は、割り込んだ意地があったのか、頑張ってその場にいようとします。
すると今度は、前に並んでいた子が、割り込んだ子を攻撃しはじめ、ついには突き飛ばしてしまいました。
突き飛ばされた拍子に、体温を測ってもらっていた私の息子にちょっとぶつかったのですが、割り込んだ子はその場でワンワンと泣きわめき始めました。
私の息子は、キョトンとして、そばにいる先生に「あの人、泣いてるよ」と教えていました。
一般社会でも、タクシーの待ち列や、セール時期の開店待ち列など、たまぁ〜にこういった「割り込んだ」「割り込んでいない」でトラブルに発展することって、ありますよね。
私もかつて、就業中のイベント時に、職業柄、業務の一環として、待ち列でトラブルが無いように細心の注意を払って対応してきた記憶があります。
ともすれば、「運営側の案内に問題があったのではないか」ということにも転嫁されかねません。
事の真相は当事者にしかわからないことがたくさんあるわけで、仲裁に入る者も、キチンと事の顛末を理解してから介入する覚悟をしなければ、「火に油を注ぐこと」にもなりかねませんし、下手をすれば自分が火傷をこうむることにもつながりかねません。
その事の顛末自体を把握することも、非常に難しい時があります。
前々職では、肌で感じることが本当に多々ございました。
今回の一件の場合、割り込んだ子が事の発端を起こした張本人ではありますが、それを注意する子も言い方が少しキツかったように感じられたので、言われた方も意地を張って頑張ってしまったのでしょう。
最後は、事を起こした子は力づくの制裁を受けることになったわけですが、この「事件」の場に居合わせた子は、私も私の息子も含めて、考えさせられる貴重な一件だったと思います。
争いとは、それぞれが「自分は間違っていない」と思った時に起きてしまうわけで、その時に自分の正当性を周りに吹聴して味方を付けるのが得策なのか、自分の正当性を最後まで信じて、例え「一匹狼」になってでも、自分の正当性を貫き通すのが得策なのか・・・。
大人も子供も、それぞれの社会で「事件」に遭遇して、そこで自分はどう向き合うべきかを考える・・・。
真の正解は当事者にしかわからないけど、相手にこうしたら自分の主張が受け入れてもらえるのではないか、と思考していくことが一つの修行なのかな、と思いました。
息子から「あの人、泣いてるよ」と報告を受けた先生は、「みんなで仲良く行き(移動し)ますよ」と優しくお声掛けされていました。
私は、おそらくこういったことは日常茶飯事だし、だからこそ当事者同士で解決する力を促しているということなのかな、と理解しました。
自分の正義を育てるためには、社会からジャッジを受けること。
でも、そのジャッジにおかしいと思うことがあれば、おかしいのではないかと疑問を呈すること。
そこでおかしいと自分が納得できれば、その人の成長につながることなのだろうかと。
これが同じような境遇に再び遭遇した時の自分の道標になるのだろうと・・・。(自燈明・法燈明)
保育園の先生が、あえてそこに仲裁に入らなかったのは、まさにこれを気づかせる取り組みの一つなのではないかな、と思いました。
ほんの数分の、ほんのちょっとしたひと時でしたが、「社会」を感じるひと時でした。
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