2019年08月15日

車輪の真ん中 2

来てくれてありがとう。








今日も、中心にまつわる話をしましょう。


この世にはいくつかのタイプの人たちがいます。


政治家タイプや、彼らの支持者、あるいは何かの運動家など、彼らは社会や世界を変えることに生きがいを感じます。

いまのままではいけない。

国も政治も構造も、とにかく変えなければならないというわけです。


しかし全ては自ずと変わっています。

変わらないものは何もありません。




もう一つのタイプは、変えようとせず、変わることに抵抗もせず、ただ変化と共に生きていきます。


このタイプはさらに二種類に分かれます。


一つは自分と関わるタイプ。


社会や世界を変えようとする必要はないけれど、自分自身のことは改善していく必要がある。

人は己の成長にこそ責任を持たなければならない。

世界や周辺のことに関わる者たちは、そうやって自分から逃げているだけだと言います。


まさしくその通り。

社会問題に関わる人は、それによって自分の問題から逃げられることを知っています。


車輪の真ん中 2


しかしここに、もう一つのタイプがいます。


それは世界も自分も両方共に変えようとせず、ただあるがままの変化に寛ぐ生き方です。


世界を変える必要も、自分を変える必要もありません。

変化は刻一刻と起きています。


関わる必要はないし、ただ変化を認めてその変化に身を任せていればいい。

このような心境に至ったとき、人は初めて寛ぎます。


そして、そうやって手放しになった時に見えてくるのが中心です。

あなたが変化と一つになることで、変化していない不動の一点が見えてくるのです。



自分や世界を変えようとしているうちは決して見えてきません。

自分自身が動いてしまっているので、中心を見つけることなど不可能です。


そうやって彼らは本質的でないところに人生を懸け、やがては消耗していくのです。



一方で存在の中心を見出した者は、その中心と共に安らぎを得るようになります。


そして不死の何たるかを知るのです。


それが永遠という言葉の意味することです。






今日はこんなところで。




いつもありがとう。












Posted by Toshiro Abe at 09:28│Comments(21)
この記事へのコメント
美しい流れるような言霊に、
目には見えない実存を実感させてくださる羅針盤に、

心地よさと安心が訪れます。

今日も実存に手繰り寄せて下さり、ありがとうございます。
Posted by ふく at 2019年08月15日 09:56
人間以外の生きものは、常に寛ぎ、軽やかにしなやかに生きていますね^ ^

自然が全てを語っています。

私も今日は「寛ぐ」が、キーワードになり記事を書きました^ ^

お盆、満月の日。
今日はそんな日なんでしょう^ ^
Posted by まぁるいこころまぁるいこころ at 2019年08月15日 09:57
阿部さんのブログを読む時間が好きです。
今日は外は嵐ですが、気持ちは穏やか。
もう一回読もう。お茶の画像、ほんわかしててほんとに美味しそう^ ^
Posted by maru at 2019年08月15日 10:30
手放しになった時に見えてくるのが中心

変化と一つになることで

変化していない不動の一点が見えてくる


存在の中心は

固定では なく

いいあんばいに 動きながら

バランスを 保ち

そこに 寛ぎを

見出す


阿部さんに

  いまここから

   ありがとう
Posted by CHUYOSPACE at 2019年08月15日 10:34
心は常に胸の中心にある光です。

常に胸の中心にある光り輝く心が本当の自分です。

常に胸の中心にある心を
常に胸の中心に集中していると
常に心が光り輝きながら宇宙全体に果てしなく広がっていき
常に心が果てしなく平安になり満たされていきます。

心が中心に定まり安定して、不動になっていきます。

常に平安な心、平常心が最高の宝です。
不動で安定した心、不動心が最高の宝で

平安は自分の中心点にあります◎
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2019年08月15日 10:38
返答をいただいた気がします、ありがとうございます。頭ではそうなのだろうなぁと思いますが、なかなか寛げずにいます。寛ぎを妨げているのは恐怖心なのかもしれません。
Posted by にゃんこ at 2019年08月15日 11:47
ラブソングのね。
永遠とかね。
いつまでもとかね。
チャンチャラ可笑しいと思ってた!
そんなの有り得ない!
て思ってたの。

でもね。
今の私の愛は永遠なのさ♪
宇宙の愛も永遠なのさ♪
どこまでも いつまでも なんにでも
常に愛は溢れている☆

ありがとうございます!
感謝☆なむなむ(‐人‐)
Posted by D at 2019年08月15日 11:55
みんなが自己中心的人間から
自己責任的人間に変化してきたら
自分が正しくて、誰かが間違っている
なんて思わないかもしれませんね。
周りの事で右往左往してるのも
楽しいが、自分が中心であることに
気づいていなければ、ただ周りに振り回されてるなんだけですな~
Posted by 沖縄ユーチューバーしげおやじ沖縄ユーチューバーしげおやじ at 2019年08月15日 12:07
無位の真実と車輪の真ん中の記事、素晴らしいです、明解です、そうかと、腑に落ちました。芯に響く会心の当たりですよ。
一瞥した方ならではの、具体的でとても細やかでわかりやすく親切な最高のアドバイスです。感動して思わず初コメントさせて頂きました。
Posted by 富士山の子 at 2019年08月15日 13:18
いつもありがとうございます。

思考で作り上げられた固定化した社会があるがままの無常世界と乖離し歪が生まれている気がする。

破壊が始まるのかな。バランスをとろうとするのかもしれない。
Posted by まっす~ at 2019年08月15日 13:49
永遠に変わることがない車輪の中心が宇宙の本質なら、車輪のように巡るましく変化する現象界は、正しく、3次元像のホログラフィのように、顕れては消えて行く実体の無い幻のようなもの。
この世を体験している心が、回転する車輪から生じる現象に囚われてしまうと、心は車輪と共に回ってしまうが、心が車輪の中心である宇宙の本質に留まると、車輪に振り回されなくなり、現象と言う幻想に囚われなくなる。
究極的には、宇宙の本質である車輪の中心以外のすべては、あれもこれも、自分でさえ、車輪の回転によって生じている一時的な顕れとして、常に生滅を繰り返す幻影に過ぎないのだが、このカラクリに気づくことは、そう簡単ではない。
車輪の中心が無いと、回転は生じないので、幻影も生じないが、車輪の中心である宇宙の本質は、永遠に在り続ける不変なる存在なので、それ故、車輪の回転が無くなるということは無いため、ホログラフィック宇宙である現象は顕れ続ける。
宇宙の本質であり、車輪の中心である、在って在るモノだけが実在で、すべてはソレの反映でしかないのだが、人間の感覚知覚器官が捉えた感覚はあまりにリアルなので、人間がこの世の実在感を疑うことはほとんど無い。
空に架かる虹のように、宇宙は実体が在るかのように見えても、幻として存在するだけで、それを根底で支えている存在だけが真の実在なのだと、虹を実体のある存在として誤って認識してしまっているワタシには、なかなか見抜くことができない。
宇宙の実相について知っても尚、ワタシは幻影として顕れ続けるが、自分の正体を知ってしまった後は、幻影に囚われることはなくなる。
どんなに車輪が回転しようとも、それはそれ、真の実在さえわかれば、後はすべてはアッという間に過ぎて行く幻影にしか過ぎなくなるので、囚われようが無くなる。
瞑想や禅で、車輪の中心軸に留まることは、宇宙の本質に留まること。
そこは、肉体を持った人間が経験できる唯一の在って在る領域。
人間は、そこに永遠に留まることはできないけれども、心の反応を停止さえすれば、いつでも誰でも、車輪の中心に留まることは可能であり、宇宙の本質に完全に同化すれば、自ずと分離感は消滅する。
Posted by 分離感の消滅 at 2019年08月15日 18:13
阿部さん
以下不適切な内容があればアップしないでください。

『引き寄せ・創造の法則』のことなんですが、イイ気分を選択するということが
よく言われます。ただ、そのとき感じているイヤな感情を無視するような形で、
イイ気分になろうとしてもだめなんじゃないかと思います。

イイ気分とイヤな気分(感情)があって、イイ方を選べっていう話しじゃないと
思います。イヤな感情があることを真っ正面から認めて、これを味わう
ことがまず必要じゃないですかね。これを見ないふりをして抑圧して
しまうと、この感情を味わうような経験がまた起こります。
顕在意識では、イヤな感情なんて味わいたくないと思っていていも、
潜在意識はイヤな感情を味わいたいんだと思うんです。
この世に生まれてきたのは、頭で考えると悪いとしか思えないようなことも
含めて色んな感情を味わいたいというのがあるような気がします。

イヤな感情を抑圧すると、何度でも同じ経験をしていくと思います。
感情は流れるエネルギーみたいなもので、イヤな感情についてあれこれ
考えたりせず、ただ味わってやると流れて消えていきます。
しっかり、味わってやるとどうも二度と同じ不快感は起きてこないようです。
ぼくはこれを請求書についてやってみました。これまで請求書をもらうと、
大なり小なり、そのときの経済状況に応じて不快感を感じていました。

なのであるとき、じっと請求書を見て不快感を味わいました。
だんだん不快感が弱まっていき、感じると言うより「あぁ、不快感を
感じているんだね」と自分で認めると楽勝で消えていきました。
一日で請求書による不快感はまったく感じなくなりました。
感じないどころか、安らぎや喜びさえ感じるようになりました。

なんだかわからんけど安心って自然に思えるようになったんです。
そしたら、まったく思いも寄らないところから、あるまとまった金額の
収入が入ってきたんですよ。安らぎや喜びを感じると、それを具象化するような
現実が創造されるんだと思います。

だから、イイ気分を選ぶというところにフォーカスするというより、イヤ気分が
あったらそれを味わって、客観的に認めて、変な言い方ですが、勝手に湧いてきた
イヤな気分を成仏させてやるというのがぼくのやり方です。
そうやると、自然にイイ気分というか深い所でどっしりと安心感が生まれるように
思います。このやり方をやったら、どんどんうまくいくので、ご紹介したくなりました。
今はイヤな気分ウェルカムです!(笑)
だって、ひっくり返せば(味わえば)宝物があるからです。
Posted by 啓太 at 2019年08月15日 19:07
自分も、自分と関わるタイプですが、

>人は己の成長にこそ責任を持たなければならない。

>世界や周辺のことに関わる者たちは、そうやって自分から逃げているだけだと言います。

これは無いですねぇ~・・・・・そんなの趣味の問題でしょう?としか思いません。

>社会や世界を変えようとする必要はないけれど、自分自身のことは改善していく必要がある。

これはありますが・・・・・と言うより、自分自身がいつでも良い状態であるように
維持していたいし、良いと感じないなら改善したい、とかは『普通に湧いてくるもの』
ではないでしょうか?自分はそうなんですが、阿部さんはそうでもないですか?

普通に『改善したい』と湧いてくるならそうしますし、
『逃げたい』と湧いてくるならそうするだけですね。
湧いてくるものを素直に感じ、素直に認めて、素直に起こったようにするだけ。
ここ最近だと、やったら「つかれた~」と湧いてくるので、素直に意識を合わせて
ため息出しまくりつつ「つかれた~」と思いまくってたら・・・気持ちいいんですよ、それが(笑)
「あぁ、今の心身はそれを求めてる訳ねー」とよくわかりましたね。
今日は、「なんか頭から首の左側が詰まってるけどどうすればいいかな?」
と聞いてみたら「呼吸でてきとーに抜くだけでいーよー」と返ってきたので、
素直にそうしてたら、すぐ詰まりは抜けましたし、今は首の右側ですが、
「いつも通りふつーに抜いてればOK」と返ってきたので、そうしてます。
そんな感じで、その時々で、『自分の中心』が違っていることは、よくわかりますね。

阿部さんの書かれる『存在の中心』は、どんなのかまだよくわかんないですけどねー。
こうして感じている・・・『自分の感覚』のように、そうと感じられるものでしょうか?
Posted by ただの「自分」 at 2019年08月15日 19:38
ということが、ワタシが思う所の優しさであります。
さて、

大空さん、いいですね。平常心。常に持ちたいものです。
よく原始仏教を引用されてますね。
心。heart core spirit そして mind。
こころの成長を目指すが仏道です。
心の安定が幸せなんですね。簡単に言うと。
えっなんですけどね。
その先が悟り、解脱です。

重心を書かれた方がいました。人の重心は変わります。
スモウで毎日シコを踏む。腰を落とすいいます。重心を下に持っていく
修練です。腰が浮いてる、浮き足立つは、重心が上で不安定なのです。
簡単に投げられてしまいます。
ですから、怠らず精進とお相撲さんは言います。
常に安定するためですね。
瞑想もそうでしょう。

二枚目に渡って長くなりました。
Posted by マギャクノジリキ at 2019年08月16日 06:57
今日も朝から阿部さんのブログを見てほっとしました。
力が抜けて、いい一日になりそうです。
ありがとうございます。
Posted by いつもありがとうございます:) at 2019年08月16日 06:59
航平さん
少なからず読んでくれてると言う事ですから。ましで充分です。
ワタシは、アンチではありません。
アンチって対象があってです。探求のみですので。
コメントは、お馴染みの方、でない向こう側の方々へ書いてました。
Posted by マギャクノジリキ at 2019年08月16日 07:33
おはようございます。
・・・「シャボン玉の中の風車」の風車の芯(神=悪)がぶらぶら、がたがたの常態の人々が触れ合って、ぶつかり合って、偽善をはびこらして・・ 未熟だが善良な人々に支えられているのがこの世だろう。・・・この世の息苦しさかから神を求めたものの中にこそ、その原因(悪魔)が居ることに気づいていなかったからこその今のこの世の有様である・・・良い?聖職者居る、新聞沙汰になる宗教関係者も現れるこの世の中(昔から)をみごとに二元化された仕組みは、未だに「風車の中心を突き抜けた者が現れなかった証拠である」・・
中心を掴み突き抜けれるには悪魔を見破らなければ決して中心に居られない(省略)・・悪魔とは怖い顔した者でも、凶悪犯罪者でもない。悪魔とはその正体は「ノミ」である(笑) 例えば神と悪魔を比べると「太陽とノミ」もどの違いが有ることに見抜いた。・・人は自らの中に悪魔(蚤)を飼いならして、やがて悪魔に支配されて気がつかないままに、悪魔の誘導に従いながら神に憧れて人生を終わり、又それも良しと悪魔に納得させられたまま・・
D・HUNTERは人類史上初のたった一人の仕事であります。触れ合う人々の中にある「ノミ」を消し去るお仕事ですが、仕事を伝授する事は不可能にちかいのです。なぜなら、もう既にあなたの中に「ノミ=悪魔」がいて、貴方がそれに気づかないまま私と語りあわなければいけないからです。が、先ほども言ったように触れ合う人の中の悪魔を消すといいましたが「自分の中の悪魔を見つけるという使命感」があればもしかしたら、あなたも「D・HUNTER」になれるかもしれませんね。D・HUNTERー楽しいよ~
Posted by DEVIL HUNTER at 2019年08月16日 07:46
>そうやって手放しになった時に見えてくるのが中心です。
そのように私も思います。例えば中道にあろうと意識することは、実は何も手放してはいないことだろうと思います。ぷぷっていうのは、そのことが通じていないので、しゃれで書きました。・・・って、承認されると思いませんでした。
Oさんごめんね。
Posted by チームtheドラゴン at 2019年08月16日 08:12
嫌な気分を味わい尽くすというのも人それぞれ成ればそれで良いと思う次第です。
そうやって嫌な気分に飽きれば心に余裕も生まれて来るだろうし、いつまでもそれに拘ってるのにバカバカしくなって開き直りたい気持ちも生じて来るでしょう。
そうなれば、ポジティブな気持ちへと変換するのも自然と容易になるかも知れません。
ただ自分の場合としましては、例えその気分に飽きたりして自然と手放されたとしても、いつかまた何かのキッカケで甦って来る事が有ります。

「人生万事塞翁が馬」として、DNAには我々の潜在意識(集合無意識)として人生が初期設定されてるんだと思う分けです。
人間殆どが同じ様な螺旋配列であり、もしも体内時計みたいなものが有るとすれば、お互いが遭遇する時間なども全て決まってるかなと。
万象に人間の集合無意識が関係しているとすれば、この世の全ては我々人間の成す業とも言えるのではないかと。
人生には謎が二つあり、それは「私とは誰か!」であり「この世界とは何か!」だと思われます。
https://www.youtube.com/watch?v=nv7WQqJLru0
「この世界は仮想現実!?」

で、何度も言ってしまうのですが、嫌な気分を味わい尽くすのは人に寄りけりかもで、トラウマに成り兼ねない場合も有り、それにもしも心霊スポットなどに行って恐怖を感じたとしてもその場に留まればどうなるかです。汗
憑りつかれて精神が異常をきたさないとも限らなくて、僕なんか自爆霊とは何時まで経ってもハグなんて出来ない状態です。苦笑

でありますから、嫌な気分はいい気分に変えてやれば己の心(インナーチャイルド・無意識の自我?)も喜ぶんじゃないでしょうか。
では僕が初期設定で遭遇する嫌な出来事や対人関係をいい気分に変えるにはどうしてるのかです。
Posted by 緑のたぬき (三  ̄(ェ) ̄;三) at 2019年08月16日 11:24
続きです。

我々人間には生存欲というか本能というか、自分の身心を守る機能が備わってると思う分けです。
なので物事に対して反射的に警戒をしてしまう分けで。
つまり、自分の身に起こる現象に対しての心身の防御対策として、不安や恐怖や怒りなどの感情が反射的に出てボイコットしてしまう分けでしょうか。
車の予測運転みたいなものかもで、我々は常にそのような緊張に晒されてないとも限らないかと。

しかし、常にいい気分を心掛けていると緊張感は薄らぐんだと思う次第です。
けどまぁ、一人で居る時は簡単なのですが、嫌な出来事や嫌な相手と遭遇した場合、あっけなくいい気分が崩れてしまいます。笑
それはまた、運命に負けると言うことであり敗者とも言えます。

けど、それを逆にいい気分に変換したい場合、相手がこちらを怒らせようとする行為に対していい気分を心掛けていると、それがこちらを勝者の気分に変えてくれる分けです。
そしてまた、相手は自分の策略が通じない為にイラつき、それがまたこちらの勝者の気分を増長させてくれます。
(相手が嫌味な口撃をして来るのは意識してないだろうけど、こちらを敗者にしたい為であり、相手の口撃に乗らねば逆に相手はイラつく分けで、そうなればこちらが勝者だと言ます。)

イライラしててもいい気分でいても同じ現状は分けで、ならばいい気分でいるに限ります。
いい気分でいながら徹底的に応戦しても良いし、気分が落ち着けばブラックジョークでもを嚙ませれば、それでもう気持ちは晴れて来る次第です。
しかしそのような考え方を自覚してないと、他人の態度や過去の記憶などにも我々は直ぐに反応してしまい怒りが蘇って来ないとも限りません。
でも、いい気分でいようとする心掛け(意識)がイライラに気付かせてくれて、我々が勝利者と成るのを手助けしてくれます。

では、対物の場合はどうするかですが、例えば机の角で頭を打った場合、「痛った~っ、この野郎!!」と思うはず^^;
しかしそこで、机の角に八つ当たりしても意味ないと諦めるんじゃなく、机を擬人化してその箇所を率直に蹴とばす。苦笑
男性の場合ならそれでスッキリして痛みは半減する分けです。爆

なので、愚直と成って身も心もいい気分にサレンダー出来ないようなら、このように自我の理解を得る工夫をしてみるのもまたしかりではないかなと。
ほんにつまらぬ呆弁でスイマセンでした、人それぞれと言う事であしからずです(*´ω`;)ゞ
Posted by 緑のたぬき (三  ̄(ェ) ̄;三) at 2019年08月16日 11:25
ちゃんと読んでますよ、以前マギャクノジリキさんの見解に阿部さんが回答されてたと思いますが、解釈が違う場合のやり取りの方が読み手にとっては勉強になるし、理解が深くなることもあります。
ここが微妙な所ですね(笑)
Posted by 航平 at 2019年08月16日 17:57
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