相手の意見には共感できなくても、
『共感して欲しい』という気持ちのほうに共感したら、
ちょっとは楽なんじゃないかってお話をしましたが。

でもこれって、
相手の話が自分とは関係なく、
なおかつ、一方的な悪口や下品な話じゃない。
に限定すると思うんですね。

そっちにまで共感していたら本当に流されちゃうっていうか、
自分がないっていうか、
やっぱり人間関係疲れるわ~ってなりますね。

あと、悪口系の話が変な方向に行き、誰かを傷つけたり、自分が悪者になったりさ。
q(*゚ε´*){  なんで そーなるんだよっ!?)
と驚くことが起きるのが、またミステリー。
人間界の七不思議であります。


昔、友人に言われたこと。

「○○ちゃんは、人に気を遣いすぎだと思うよ。
もっと本心を言って欲しい。」

その頃やっと人に合わせようと、合わせることができはじめたかな~ってときだったんで。

(;´゚д゚`){  ええ~~??)

となりましたね。

だってさ。
本心のまま行動したり話したりしたから、空気読めず、
人と上手くやってけなかったんじゃないの?
人に合わせつつ自分の意見言えって、どうやるんだよぉ。

… しかし、その友人もふくめ周りを見てみると。。
場の空気を読みつつも、自分の意見を持ってないってわけじゃないんですね。
自分の意向はあるていど示しつつ~の、周りにも共感したり空気読んだりしてる。


(   」゚Д゚)」
{    ハァーーッ!
     ほんとお上手 !
どうしてそんな風に生きられるん ?
どこでその処世術、教わった~ !?  )

(*  ・ω・){   心の叫びはそれくらいにしとけ。
で??)


そこで私が実感しているのは、

自分の意見は言う。
けど、いったん肯定してからが吉 !ってことです。

友人が私を、人気のスポットに誘ってくれたとする。
とりあえずディズニーランドということで。

(о´∀`о){  ねえ、今度一緒にディズニー行こうよ~。)

私はこういうとき、「う~ん、ディズニーねぇ… 。」といつも言葉を濁していた。
とっさには、
『私  行きたいのかな  行きたくないのかな』
さえわかっていないのだと思う。
時間が経つうち、あんまり行きたくない気がしてきたとして。。

その気持ちを察してもらうべく、どっちつかずの態度をとり続けてしまうのだ。
それを友人は、なんとなく察してくれていた。
(めんどくさいだろうな、笑)
いっつもこんな感じだと、優柔不断だし、『本心は!?』となるのもしょうがないね。

私は反対意見を言うのが、かなり苦手なのです。


まず、急には自分の意見が出てこないってこと。
反対意見を言うとなれば、
『私は行かない』
だけで済ますため、相手の顔色が変わるというか、さみしそうになるのだ。
さみしい気持ちにさせちゃった罪悪感にたえられない。
だからって、嫌々行くって選択肢もとりたくない(そうなることも少なくなかったが)。
だから、『う~ん 』になる。


誰かと友人なり恋人なりの関係を結ぶうえで、
相手の意見を全部受け入れるなんて不可能な話。

だけど罪悪感からか、断るのが面倒なのか、
できるだけ聞こうとして疲れはて、関係性が壊れるなんてこと、良くあると思うのです。
これって相手との相性もあるし、しょうがない部分もあるけど、
自分がちょっと何かを変えるだけで、保てたケースもあったんじゃないかなぁ。


だから、、

やりたくないと自覚していることは、無理してやらなくていい。

でも相手の意見を一度は受け入れる。

誘ってくれたことは嬉しいし、

誘ってくれた内容を否定してるわけじゃないと。

断るのはそれからで。


そうすると、相手の意見にそえない罪悪感みたいなものが和らぐし、
相手をただ単に拒否してるわけじゃないってのも、理解されるんじゃないですかね。


( ・∋・){  あ~、ディズニーランドいいよね。
○○ちゃんと行ったら楽しそう。(肯定  受け入れ)
だけど私って、どうしても人混み苦手でさぁ。
もうちょい静かな所で遊びたいな。(自分の
意見))


みたいな感じで。

そんなことかいな!って思われるかもしれないけど、
私は案外これをやってこなかった。
なぜかって、

《どうせ相手の言う通りには出来ないのに

意見だけ肯定したってしょうがないじゃん》

って考えがあったからです。
それってただの言い訳でしょ?
言い訳=  ずるい  みっともない  意味なし  なのだ。


けれど、あるていど年齢をかさねて感じるのは、

言い訳って必要なんだな!

ということ。
誰に対して必要なのか。
もちろん自分のためでもあるけど、相手のためにも必要なんだと思う。

『こういう理由で、あなたの意向にはそえないの』
と伝えるのは、みっともないことでも意味ないことでもなく、
そうやって相手に溜飲を下げてもらうのは、こちらが考えているより、もっと大事なことかもしれない。

人々は、我らに説明を求めているのです。

おそらく。
(∩´∀`)∩{   説明求む!! )


これは、私自身が過去に感じたこと。

昔付き合っていた人が、どうも私の料理が口に合わなかったらしく。。
でも言い出せなかったんでしょうね。普通に食べてましたよ~。
その事実を知ったのは別れる間ぎわの暴露。
そのとき、思った。

Σ(;゚∀゚)ノ{  いやいや、言ってくれよマジで!!
なぜガマンしてまで食べてたのよ~。)

(* ・ω・){  … まずいと思われる料理を作ったおまえも悪いが。きついな…  。)


はっきり断られても、そんなことでわたしゃ怒りませんでしたよ、ホントに。
(私は普通に問題なく食べていたけど、自分の味覚が人より鈍感らしいっていうのは、なんとなくさとっていた。
そのうえ手先が不器用 … 。)

だけど 。と考えるのです。
もしも、『もう作んないで』なんてヒトコトしかなかったら、
やっぱり『え? 』となるかもしれない。
食べたくないんだろうなと察しはつくものの、納得しづらいというか、軽く傷つくかも。
(気持ちがわかるぶん、怒るまではしないけどね。)


(´・д・`){  きみが料理を作ってくれることは嬉しいんだ。ありがとう。(肯定 フォロー )
でもぼくの口には合わないみたいで、今後外食にするか、味付けを変えてみて欲しい。(自分の意見)

みたいに伝えてくれていたら、私も助かっただろう。
これでも傷つく人はいるかもしれないけれど、
ずっとまずいと思われながら料理を作る方が、キツいと思うんだ、うん。
たとえ数年でも、こちらの努力が相手の迷惑にしかならなかったって、なんだか悲しいことだと思う。
それこそ意味ないしね。

こうなると、
自分の意見はある程度言わなくちゃいけない、
プラスちょっとした肯定要素を付け加えるのも大事。
ってのをしみじみと実感できたわけです。
(  ^∀^)ハハハ…   乾いた笑い。


自分の意見を言うとき、相手へのフォローもかかさない。
いちいち考えなくても、みんな自然とやっていることかもね。
しかし私は、相手の意見にしたがうか(辛い)、ぶった切るように断るか(傷つける)というキョクタン野郎だった。


時には、無理してでもやったほうがいいケースもありますよね。
やらなければ、あとで後悔するだろう、
多くの人に迷惑をかける事態になるだろう、とか。
だけど私たちが我慢している事柄の中には、
自分が生きやすいように考えて良いケースも、思うより多くひそんでいるのでは?
と感じる今日この頃。


自閉症スペクトラムの場合、
まず自分の気持ちが良くわからないってのがあると思いますが、
あきらかやりたくない、あきらかこうしたいと自分で自覚したときの話。
そんなとき、

もっと柔軟に融通をきかすことで、

自分も楽になれる道がありそうですね!