囲碁漂流の記

週末にリアル対局を愉しむアマ有段者が、さまざまな話題を提供します。初二段・上級向け即効上達法あり、懐古趣味の諸事雑観あり

古より師を選むを肝要とす

2020年12月03日 | 雑観の森/心・幸福・人生

 

向井去来「旅寝論」より

 ~ よき師匠を選び、師事することが大事

 ~ 然るに、よき教師、一日にしてならず の巻】

 

 


「師によらず、流派によらず、数多く作句して

絶えず進歩しようとする人が上手くなる

というから、師匠の伝授など不要ではないのか」

との質問があった。

 

去来は、答えて展開する。

「師はのごとく、

弟子はのごとし。

ゆがむ時はゆがむ。

此故に古より師を選むを肝要とす」

 


続けて、

よい先生に巡り合ったとしても

本人が努力を怠り

現状に安住すれば進歩はない。

きのふの我に飽く、という

心構えが大事なのだ、と説いた。

 


芭蕉の下で育った弟子たちの多くも

師の没後に自己の立場に安住してしまった。

師の真意を理解した者が少なかったのである。

 

 

向井去来(むかい・きょらい、1651~1704年) 江戸前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。武芸に優れていたが、若くして士分を捨て、京都・嵯峨野の落柿舎に棲む。芭蕉はここで「嵯峨日記」を執筆した。

 

 


今年、本拠地碁会の余興で、級位者向け勉強会を企画した。

会の高手たちに講師を依頼するも、軒並み辞退されてしまう。

あるツテで非会員の五段免状取得者が協力してくれることになり、

不肖 漂流男が司会と講師補佐役を務めることにした。

 

級位の頃を思い出し、あれこれ調べてはテキストを手作りした。

ところが、参考にした級位者向けの問題に、しばしばつまづく。

ちょちょいのちょいと出来るはずが、そう甘くはないのだ。

「基本のキ」が出来ていないことを思い知らされる。

 

師匠は弟子の十倍二十倍も知らねば、務まらないもの。

まして高い席から講釈を垂れ、質問に詰るようでは恥さらし。

教えるための調べものが、自分の勉強になっていった。

ブログ執筆もそうだが、アウトプットがインプットの原動力になる。

勉強したいなら受講者より講師になるに限るとしたものだ。

こんな旨い話はそうない。来年も、やるぞ。


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