元・喪女航海日誌

元・喪女が大海原へ漕ぎ出し四苦八苦しているブログ

クリスチャン・ボルタンスキー展:Lifetime感想

絵画のために美術館に足を運ぶことはままあるのですが、現代美術と聞くとピンとこない。谷川俊太郎展に行った時のイメージしか頼りがなかったのだが、クリスチャンボルタンスキー展、こちらも同様に非常によい。よかったのでアウトプットしておく。
(乃木坂は国立新美術館にて、9/2までです。ぜひ。)

 

先ず入場するや否やカーッペ!と声がしたと思ったのだが、どうやら喀血音だったらしい。これは短い映像作品で『咳をする男』
現代美術(1969年制作の作品でも現代と言うのか)の洗礼に驚く内に、男の足にばたばたと血が垂れては染まる。
フィルムは切り替わり、頭部を丸々包む(ゴム?)マスクから舌だけを覗かせた男が、女の人形を這う。『なめる男』。よく見ると袖から覗く手も無機物で、意味は分からずとも何処か人間的に見える行為との対比が、エロティックだった。…エロティック。そう思う己の倒錯に雑念と嫌気がさしたので(己のエロティックアンテナには日々ほとほと呆れている)2週目に入るところで映像を後にした。

 

洗礼を受けこれから見せられるものに大体の覚悟は出来たのですが、展示は目玉、大広間向かうあたり。どうやらこれは東京展の為に作られた新作らしいのですが。『幽霊の廊下』
左右に白く薄いカーテンが張られた廊下。モービルの様な影が、各々カーテンに模様をつけるように照らし出される。モチーフは人の横顔や、骨格だろうか。
不気味では無いものの(寧ろ安心するのだが)そこには死の湿度があって、異なる世界を繋ぐための廊下なのだろうと漠然と感じた。感じたのだ。これが重要で、絵画と違い体全体を覆う作品というのは視覚以外に振りやすいことに気が付いた。これはいい。邪念まみれの私から解き放たれる。脳に余白が出来る。
面白かったのが、これから先は死後の世界なのかと思うと後ろから追い抜いていく人が虚ろに見えてくるということ。観客までも作品の一部にしてしまった。こういった体験は始めてだった。

 

広間に出ると無印良品に売っていそうなシンプルで洒落た帽子掛の様なものが点々と立ち惚けている。どれもまたシンプルな黒いコートを着ており、頭の代わりにライトを擡げていた。
頭の下あたりに立つと、丁度心臓の辺りから声がする。「おしえて、光が見えたの?」「きかせて、一瞬だった?」「おしえて、祈ったの?」「きかせて、意識があったの?」展示中盤ではホロコースト、つまり大量虐殺や死について語られたが、ここ終盤はその先、死後の世界といえるだろう。
黒いコートは私であって私でない死者に向けて問い掛ける。どのように死んだのか。それすら知ることの出来ない死というものもあるのだ。痛かったか?。人の死を想う時多くは安らかにと願うだろう。
また死者を悼む者の納得しようのない、私に話しかけている様で話しかけていない呪い疲れて虚空を見つめた、抜け殻にも見える。作品名『発言する』

 

これは題名から恰好がよい。『アニミタス(白)』。(白)というのがかっこよくて良いとおもう。セガサターンだってそうだ。
ただただ白い世界に細い木々のようなものが沢山立ち並んで、枝と垂れ下がる風鈴のようなものは風に吹かれて一斉に喋り出す。死者のことばか、我々には理解できない言葉だが、チリンチリリと非常に耳障りのよい音で、スクリーンの下に転がる大量の丸めた紙は寝るには丁度良さそうだった。
枝に人が吊られていそうな、木々の隙間から人が歩いてきそうな、居ない者を探してしまう感覚。確かに居ないのだが。なんとなく、やはり現実に幽霊は居ないなと思った。ひとは死んだらお〜わり!というのが私の、私が教祖の宗教である。

 

全ての展示を見るにはかなりのHP,MPを要した。前情報ゼロで向かった為、こんなに、こんなに死と命の話をされるとは思っていなかったので。形はどうであれ私は必ず死ぬし、お前もそうだぞ。「え…いや分かってるよ…」と目を背けたくなるような世界があり、一方で死は恐れるものではない、地続きであると私の宗教に即した感覚が得られて非常に満足度の高い展示であった。