グリーフケア(悲嘆のケア)の話が載っていた。
世田谷一家殺人事件2000年の大晦日に家族4人が惨殺され、
いまだに犯人が捕まっていない事件でのお姉さんにあたる方が
主催されているグリーフケアを考える集いだ。
殺害された妹さんご夫婦のお隣にお母さんと同居され、第一発見者が
お母さんだったようだった。
現在は亡くなられているようだったが、生前は事件や大事な家族の思
い出からも目を背け、悲嘆の気持ちを持ち続けながら亡くなったそう
だ。
その方は語られる。
母を苦しめていたもの、母に沈黙を強いた力は何だったのか?
母は自宅にひきこもり、友人との交流も一切絶った。同居していた家族にも被害者の遺族だと知られないように口をつぐむことを求めた。
『事件とのかかわりを世間に知られると住む場所を追われる。仕事
がなくなる。子どもも学校でいじめられ、就職や結婚も閉ざされる。
そんな母の強い懸念を前に、沈黙
せざるを得なかった。』
と振り返り、
母が家族のことを話せた相手は、連日尋ねてくる警察官だけだった。
けれど、それも月日と共に来なくなると話し相手は家族だけになっ
た。
『辛いという話ばかりで、相手をするのが大変な時期があり、楽しい思いで話や笑える失敗談も話せなくなり、他のコトへの興味もなくなり、家族で一緒に楽しんだこともできなくなるという状態だった。』
お母さんは事件後涙も出なくなった。
泣きたくても泣けない。夢で逢いたくても夢の中にも出てこなくな
り、亡き人との出会い直しが、叶わなくなってしまったことも、もっ
と苦しかったのではないか?
それと、もう一つ亡くなった末っ子には発達しょうがいがあり、生前から受け入れてなかった。
『母の世代では“恥”として受け止め、今でこそオープンに語られるようになったが、当時はどういうモノかもわからず、できたら人には言いたくないと考えられいていました。』
きょうだいの亡くなった後の嘆き方にも『温度差』があった。
『下の子の障がいが原因で事件を起こされたのかも・・・』
と憶測でモノを言ったり、最終的には
『亡くなっても仕方なかった』
と言ったとき激怒して『あなたとは違う生き方を選ぶ』
と母に告げ『母と精神的に決別した』
と振り返る。
自分の中で、すっきりしない気持ちを抱えながら出会った
2018年10月、議員の『生産性がない』発言を受けて東京大学先端科学技術研究センター当時者研究分野準教授の熊
谷晉一郎さんが『スティグマ(負の各印)』について語った講演からヒントをもらった。
『自分の中の内なるスティグマが
自分を苦しめているのではないかとはっきりした。子どもの障がい
も犯罪被害者遺族になったこと
も“恥”と受け止めていた。私はそ
の“恥”の意味を自分の中の内なる
スティグマなのだと理解した。』
『熊谷先生の話の中でスティグマの解消には当事者の語りが役立つとあった。ああ、そうかと自分の体験を自分の言葉で語りなおすことでスティグマをほどいていっているのだと、意味を見出せた。』
2016年7月相模原事件が起きたとき、改めて母や自分が抱えてきた苦悩に直面させられた。
『なんて・・・ひどい事件なんだ。と言いながらも、もしかしたら自分の心の中にもそういうカケラがあったのではないかと』
相模原事件では、当初遺族が被害者の名前や顔を伏せたがっていたと
いうのも話題になった。
『よく考えてみれば悪いことをし
ているわけじゃあない。それなの
に母は、今まで築いてきたものが
すべて壊れてしまったという捉え
で、妹の家族にしょうがいを持っ
て生まれてきた子どもに対しても
同じ世間の評価に対して持ってい
た恐れが自分の中にも住み着いて
しまった。』
母の気持ちを忖度して生きてきた自分にも気づく。
『私自身母に肯定されようと否定
されないように生きてきたんだ
な、母にとって受け入れられる子
どもとそうでない子どもがいて、
私はそこそこ受け入れられるよう
に生きてきた。』
事件後、目の病気が進んで失明した母は自分のことを
『お荷物な存在』ととらえ自殺未遂までし、否定の刃は最終的に自分自身に向かった。
もっともっとたくさんのコトが書かれてあった。
私にも重なった部分がたくさんあった。
自分のスティグマ・・・
語るのは・・・また・・・明日
今日は、自分自身のスティグマをしっかり見つめなおし
考えてみるとしよう・・・
みなさんの中には・・・そんなこと・・・って
ありませんか???