近代日本演劇の記憶と文化 7 興行とパトロン
  作者 : 神山 彰

  出版 : 森話社
  作年 : 2018年

 


森話社を牙城に映画とその周辺の気鋭の研究本を上梓し続ける両雄、岩本憲児と神山彰の、こちらは神山の編である『近代日本演劇の記憶と文化』シリーズの一冊で、題名に「興行とパトロン」と聞くだけでも思わず手が伸びます。映画も勿論興行ですがやはり歌舞伎に文楽、浄瑠璃を古株に新派、曾我廼家喜劇、浅草オペラが台頭してくるそこに映画が突き刺さるわけです。本著と同様に幾人もの論者を寄せ集めて一冊の論攷とする試みは数あれど論者の粒が揃わずとんだ乱杭歯のありさまにちょっと映画を聞きかじった者からすると今更のあれこれを蒸し返してややもすると午睡にまどろこともしばしば... それからすると本著は多彩な書き手ががっちりと歯並びに粒立ってまさに<ててくう>意気込みに待ち構えております。編者である神山からしてが川島雄三監督『天使も夢を見る』(松竹 1951年)に触れて自社の野球チームの存続に消極的どころか廃部を決定する(まあ唐変木な)社長に直談判すべく鶴田浩二が押しかけると出てくる社長が河村黎吉です。江戸弁に口舌の味を見せる河村が何ともよたよたと上方言葉を使うのが見ていて煙に巻かれる思いなのですがそれを解き明かして当時スポーツ事業への参入に積極的な東宝に対して一応はプロリーグに野球チームを保有していた松竹ではありますがしかるにお芝居(と商売)のこと以外はからっきしという大谷竹次郎からすればややお荷物にも思われて... それを背景にしたあの設定であって上方言葉のあの社長こそ大谷そのひとを引いて河村のあの芝居であり川島の演出であるなどまさに目の覚める指摘です。さてこのまま神山の一編「松竹と東宝」に分け入るとのっけから鋭い手刀が振り下ろされます。昨今タカラヅカから(のみ)小林一三を捉える論者たちが小林の(延いては東宝の)成功に彼の先見性と独自性を見るのは言わば小林の掌に転がされているのに等しく東宝の短時間での成功は端的に松竹を模倣し踏襲した故であるとします。そもそもこんなことになったのは山口昌男が『「挫折」の昭和史』(岩波書店 1995年)で白井鐵造に渡欧までさせてその芸術家の開花を支えた東宝のスマートな経営を讃えるのに取って返してエノケン喜劇を粉骨砕身で生み出し続ける菊田栄を(渡欧など以ての外)絞れるだけ絞るに任せたと松竹をまさに金の亡者と罵倒したためです。しかし山口のこの偏向がそのまま両経営者が遺した著作の比なのであってそもそも良家の生まれで慶応出身、銀行を振り出しに鉄道、デパート、観光、土地開発、劇場... と多岐に渡るその人脈に支えられた小林には本人、周辺の膨大な著作に証言、記録が残されて一方芝居小屋の中店の息子で本人曰く<金貸し以外には頼らず>働いて働いてのし上がった無学の大谷にはわずかな文献しかありません。山口のような博覧強記の文献の虫が本の紙魚を辿ってくれば自ずと小林から見る世界に吸い寄せられるのはわかりきったことでそれを見越して長大な著述と度重なる自叙伝を用意したとすれば山口を諌めるべきか小林一三に恐れ入るべきか。それにしても東宝と言えば(実際に撮影所にいたひとも事務方のひとも口を揃える)民主的で開放的な会社であってまさに小林が標榜した<清く正しく美しく>ですが、それを小林の明とすると暗を受け持ったのが小林の異母兄弟である田辺家のひとたちであるとは本著の踏み込むところで先のスポーツ事業にしても彼らに負うところ大でしていやはややっぱり出てくるんですよ、興行界の強面のあの方たちが。

 

 

 

 

小林一三 ichizo_kobayashi

 

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大谷竹次郎 takejiro_otani

 

 

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