[ お話は 前回 から引き続いて ]


風雲急を告げる太平洋の雲行きを睨みましても『早わかり映画法解説』の書き手が示唆していた如く映画法の目指すところは不良会社の一掃、新規参入の停止に留まらず残された粒選りも更にふたつ、三つにまで統合する運びとなります。会社の規模、名前からしても松竹、東宝、日活というところでしょうが、ご承知の通り(松竹、東宝はすんなりと決まりながら)日活、大都、新興キネマを合併して何故か大映となったことで新興キネマの永田雅一の暗闘が囁かれることになります... ただこの時期映画製作を格段に充実させていた新興キネマはそう見劣りする相手でもなく(渡邉武男『巣鴨撮影所物語 天活・国活・河合・大都を駆け抜けた映画人たち』西田書店 2009.1)寧ろ昭和十年代に入ると松竹と東宝の激しい鍔迫り合いの、まさにその草刈り場となって内紛の堪えなかった日活よりも勢いに勝ります。その上げ潮あってのラッパのうっちゃりなのでしょう。因みに大映と言えば永田ですが彼が社長に就任するのは戦後でしてそれまでは菊池寛を頂いてこの何とも不穏な呉越同舟を上から押さえます。やがて50年代に入るとくっつけたはずの日活がふたたび独立へと動き始めますがその経緯に触れておきますと、そもそも大映社内にあって旧日活は配給に押し込められ映画製作は永田に握られます。当時日活には独立プロを破綻させた阪妻、千恵蔵、アラカンがあってそれに新興キネマの右太衛門を一手に収めるわけですから差し詰め剣戟オールスターの華やかで戦中には彼らを一同に揃えた大作が鳴り物入りで作られます。その大映作品と戦後にはGHQご推奨の外国映画を交えて配給を保ちますが敗戦直後に沸騰した外国映画の人気がやがて翳り挙句に輸入割当でも松竹、東宝らの後塵に廻されますといよいよ死活の一線に立たされて江守清樹郎や堀久作にうずうずと製作再開の気運が高まります。(谷川建司『戦後映画の産業空間 資本・娯楽・興行』森話社 2016.7) 同じ頃1950年に新東宝が独立、1951年には東映が創設されて時系列に置き直しますと彼らが居ても立ってもいられなくなる気分がうねりとなって伝わってきます。1952年には新東宝から合併の話が齎されますが東宝の反対で叶いません。しかし日活復活を当事者たちに強く押し出したのは東映でして創立以来低迷を続けていよいよ店じまいも囁かれていた東映が『ひめゆりの塔』の記録的な大入りでようやく日本映画の青雲に離陸していきます、1953年のことです。その後背を臨みつつ1954年に日活の復活とあいなるわけですがそれはまた別のお話。

 

 

 

 

ともあれ映画法下の映画をひとつ、ふたつ見て参りましょう。まず(製作などという生易しい呼称では飽き足らず)総指揮と堂々と掲げた永田雅一による大映の剣戟オールスターの大作、牛原虚彦監督『維新の曲』(1942年)です。先述の通り千恵蔵、右太衛門、アラカン(どころかいるわいるわ、沢村国太郎、羅門光三郎、大友柳太朗、女優たちも市川春代、糸琴路、梅村蓉子、橘公子)という絢爛たる配役を束ねて主役は勿論阪東妻三郎、題名の通り徳川幕藩体制を打ち破って明治の夜明けをもたらさんとまさに決死の御一新に命を捧げる男たちの物語です。アラカンが徳川慶喜なのは何ともしゃくれた割り振りですが千恵蔵が西郷隆盛、水際立つのを信条とする右太衛門は桂小五郎で阪妻は坂本龍馬、いっかな映画法とは言え龍馬のよく知られた命運を生き延びさせるには至りませんが隠れ宿にしていた二階を襲撃されると中岡慎太郎ともども斬りつけられ斬り刻まれて(暗殺者たちが引き上げて冷え冷えと狼藉が静まり返ったなかを)龍馬は絶命している、と思いきや動けばぽとりと落ちてしまいそうな線香花火ほどの余命を引きずっていよいよ今際の際に何をするのかと思えばいざる体の向きを変えさせて開け放つ障子の向こうに御所を遥拝すると<おいとまを申し上げる>と事切れるんですから何とも忠烈忠勇な最期です。尤も映画法を遡る1926年にも新撰組と凌ぎを削る火消しの頭領にあって無念に惨死する阪妻は同じく御所に拝跪して絶命しますから(安田憲邦監督『乱闘の巷』阪妻プロ)阪妻お得意の芝居ではあるんですが。さてもう一本、マキノ正博監督『織田信長』は茶筅髷に縄帯で闊歩するお馴染みの大うつけがやがて時代の変革者としてその切っ先へと上り詰めていく風雲一代の物語です。織田信長には片岡千恵蔵で映画法がたなびくのは信長が(まだまだ尾張の小大名にあって)天下平定を自分の道に見定めると何ゆえそれを為さんとするかその目的を説いて...  どうしたことかこの映画では信長と家康は四歳違いの史実を大きく飛び越して中年の千恵蔵が子役の家康を馬上で懐抱きするとこれまた遠く京の都を指差して<国の御柱を安んじ奉るためじゃ>。破天荒な生きざまにこの取り澄ました皇国臣民ぶりが目にちかちかと眩みます。

 

牛原虚彦 維新の曲 阪東妻三郎

 


さて映画法の解き明かしに始まってながながとお話して参ったのは実に単純なことを言うためでして検閲が求めたものは映画には映らないということなんです。映画に映るのは求められたものにどう応えたかという自分の姿です。検閲という如何にも抑圧的な体制ですからついついその制度を主体的な側に捉えて検閲する側とされる側を主従へと分けますが国策映画の各場面各場面何を以て国威発揚とし戦争称揚とするか(まさか1940年代の成熟した日本映画がただ言葉尻だけでそれらをそらふくわけにはいかず)形を生み出していたわけで先の、宮城遥拝する龍馬や国体安寧を口ずさむ信長などはまだしも例えば阿部豊監督『燃ゆる大空』(東宝 1940年)ではどうでしょう。陸軍飛行学校の同窓4人は熱烈な青年たちですが苛烈な中国戦線でひとりはすでに散華しひとりは墜落した生き残りとして重傷の上官を背負って敵中横断の道半ばで絶命、いよいよ敵陣地に一撃を加えんと隊列を為して出撃して(まあ当然ながら)大戦果に沸き立つなか一機が帰還しないというのが結末です。まだ見えぬ機影に一同じりじり待ち続けますが実は敵機と交戦中に被弾しその手負いのなかで敵を深く追い落としてふらつく機体で懸命に基地を目指します。やがて昏酔のなか強行着陸した機体から救い出されると絶命に追いつかれようとしながらも懸命に戦況を報告する月田一郎の姿は感動的なのですがいよいよ死期を悟って仲間に上体を起こさせると取り囲む一同を前にして軍人勅諭を諳んじます。一同直立不動のなか二重写しに日の丸が翻って月田は息絶えるという演出はやはり(検閲する側よりも)検閲される側が生み出したものという気がします。ただそれを以て検閲される側も戦争の加害に加担しているという(そんな判で押したような)ことには私の言い分も興味もありません。そんな加害被害の一線を軽く越えて映画が自ら生み出した形が戦争映画のなかを反復していくその軽やかさに映画の躍動と同時にその罪深さを覚えるということなんです。見たように戦前の阪妻映画にあった死を前に御所に遥拝する火消しという形が映画法下の1940年には果敢な航空兵の末期の軍人勅諭へと転生しいよいよ1942年の阪妻の坂本龍馬を以て堂々たる形に仕上がって意図して繋がったわけではないでしょうに映画の形が形として成長していくかのようです。そしてこれが罪深いところですが前の形が持った意味の重さが次の形を彩る綾となって重々しさの儀礼的な仕草は増す一方で引用する側の気持ちの負担はどんどん軽くなっていきます。より重いものがより軽くなるというあっけらかんとした矛盾がやはり戦争というものの引力ではないかと思うわけです。

 

 

 

阿部豊 燃ゆる大空 月田一郎

 

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