戦前の映画本ではジャクリーンは<ジャックリン>、ハンマーシュテインは<ハンマアシタイン>で音で拾ったこちらの方が実際の音に近いとは言え字面のすっきり感がどうもいまひとつなのは否めません。外国語にあっても音をそのまま文字にして日本語のなかに取り込める片仮名はわが国文字表記の画期的な発明品ですが、アルドリッチかオルドリッチか、ビーティかベイティか、片仮名の国の悩ましさです。一字一音、五十音に倹約する(まさに贅沢は敵だの)日本語の発音に多彩な母音と子音を組み合わせて(ついでに鼻の穴に抜いたり響かせたり破裂させたり喉チンコも震わせて)数百から数千にのぼる外国語の発音を押し込めるんですからそもそも無理があります。挙句に日本語独特の聞き取りにくさも加わって...  例えばわれらがボギーはハンフリー・ボガー<ド>でしょうか、ボガー<ト>でしょうか、日本語のなかに現れる片仮名のボギーは(うっかりとするとこんがらがってくるゲッ<ぺ>ルスかゲッ<ベ>ルスか同様)なかなかの曲者でして、まあ本国に送還しますとBogart、一目瞭然です。そうなると気になってくるのが『召使』(ジョゼフ・ロージー監督 1963年)や『できごと』(ジョゼフ・ロージー監督 1967年)に主演するもうひとりのボガー<ド>、ヘンリー・フォンダを思わせる目許がしゃちほこばった二枚目でヨーロッパ的な暗鬱に沈み込む彼はまさしくDirk Bogarde、<ト>の肩に濁点が燦然と輝いて(金馬の、呑助が酒の相手に店の小僧さんをからかってお品書きを読み上げさせながら濁点に空とぼけて小僧さんに講釈させると、なら<え>に濁点を打って読んでみろ、<や>でやってみろとけしかけ挙句に小僧さんの顔にほくろを見つけてここにも濁りが打ってある、こりゃ<かお>じゃない、<がお>だよと囃し立てる「居酒屋」を何とはなしにボガードの相貌に思い出しますが)、ともあれ今回のお話はなおなおなまぎらわしい。

 


ジョゼフ・ロージー 召使 ダーク・ボガード Dirk Bogarde

 


ライアン・オニールというと私ぐらいの年齢ではまだ腰にまとわりつくようだった彼の娘と共に中年というには早すぎるそんな宙に浮いた男を健気に演じていた姿が思い浮かびます(ピーター・ボグダノヴィッチ監督『ペーパームーン』)。娘は程なくテータム・オニールとして父をとっくに抜き去る人気を得ますがよくある通り子役で破格の成功を収めたひとの、しょっぱいその後が娘だけでなく父ぐるみで待っていて近年名前を聞くのも薬物、発砲、暴露自伝と何ともアメリカ的な人生の駄々のこね方です。何というのか彼ら親子は『ペーパームーン』の、あのもの侘しい日だまりのなかにいまだに本当の自分たちを探しているような切ない一生を感じさせて... そんな私の感傷が串刺しにされるのがこのライアンの母がパトリシア・オニールであると知ったときで(先に言いますけれどとんだ早とちりに)私の映画史的な記憶がとめどない湧き水となって私(とこのオニール親子のいま)を垂直に呑み込んでいって母のあの報われない恋の終わりがひとり母のみならず息子と孫娘のいまにまで亀裂を走らせていたのかと運命の痛苦に蹲る思いです。そのパトリシア・オニールが1949年に『摩天楼』(キング・ヴィダー監督)で共演したひとこそゲーリー・クーパーでこのふたりの道ならぬ恋は世の許すところとはならず況してや親子ほどの年齢差は世の常とは言え若い女性の方にふしだらな風評を書き立てて恋は彼女ごと揉みくちゃにされて人生に大きな陰影を折り込みます。その後に結婚をし子供を設けそれはそれで成功した家庭を築きながら心にはクーパーという揺るぎない墓標を抱いたままとあってはパトリシア・オニール... うぅん? パトリシア・<オ>ニール?  な、何たること、すっかりひと違いに親子三代の運命の悲歌を奏でてはオニール親子に見ず知らずのスターの醜聞を練り込むところで(自分のおっちょこちょいは奥歯に苦く噛みしめるとして)まぎらわしく寄り添うふたつの名前の、こちらはパトリシア・ニール。お詫び方々彼女のその後をひとつご披露しますとニールが結婚した相手というのがロアルド・ダールで『007は二度死ぬ』(ルイス・ギルバート監督 1966年)の脚本であってみれば日本にはふたり連れ立ってやって来ていたと若林映子が当時を振り返ります(中村深海『永遠の東宝映画俳優』くまがい書房2014.8)、まあその後に離婚するふたりではありますけれど。

 

 

 

 

トッド・ヘインズ監督『ワンダーストラック』(2017年)は1920年代と1970年代のふたつの時代の、ともに聴覚を持たない少女と少年が50年という月日とその間を手探りのように伸ばしていくひとびとの運命を織り成す映画です。とりわけ70年代の少年には森の夜に自らの息遣いを蹴散らすように疾駆する狼の夢に苛まれていてこの記憶とも予知ともつかない、どちらにしても自分を強く導く夢の足音を追って遠くひとり旅に出ます。母が亡くなったいま(未婚のまま父を強く思っていた母からの)わずかな手掛かりを握りしめて巨大なニューヨークに降り立つ少年の目の前には私たちに懐かしい70年代の光景が開け(勿論予算の大きく隔たるにしても白石和彌監督『日本で一番悪い奴ら』がほぼ同じ時期をほぼ同じ現代から描きながら主人公の髪型ぐらいしか時代の風俗を引き込めないのに比べて)少年が思わず駆け出す通りには看板から店構え、ガラスの向こうの商品に行き交うひとひとりひとりに個性的(で雑多)な時代のファッションが犇めき熱気となって押し寄せ気怠く波打っていてヘインズが時代に寄せる深い愛着を感じます。父を探す少年が行き着くのは彼がこの世に生まれ落ちるまでの、ふたりの若い男女の絆で父はわずかに切り絵の写真にその姿を映して... エンドロールにわずか写真のみのこの父親役にJohn Boydの名前を見つけたときには単に事物の再現ではない、作品に行き渡った70年代というものへの捧げものを見る思いがして胸が熱くなったわけです。『真夜中のカーボーイ』(ジョン・シュレシンジャー監督 1969年)に始まって『キャッチ22』『コンラック先生』『帰郷』『チャンプ』と続いていくジョン・ボイドの70年代であって...  うぅん、ジョン・ボイ<ド>?  確か彼はボイ<ト>では... そう田舎では牛や馬と横並びの横溢した男性的な精力を都会でもっとあからさまな金銭の打出の小槌にしようと満面の自信でニュークヨークに乗り込んでくるあの青年はまさにVoight、挙句にジョンの方もJonであってみればあのチカチカと青年の欲望を疼かせる<MONY>のネオンそのまま、映画はなおなおまぎらわしい。

 

 

 

 

トッド・ヘインズ ワンダーストラック オークス・フェグリー

 

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ジョン・シュレシンジャー 真夜中のカーボーイ ジョン・ボイト

 

 

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