柔らかい肌
  監督 : フランソワ・トリュフォー
  製作 : フランス

  作年 : 1964年
  出演 : ジャン・ドザイ / ネリー・ベネデッティ / フランソワーズ・ドルレアック

 

 

フランソワ・トリュフォー 柔らかい肌 ジャン・ドザイ フランソワーズ・ドルレアック


柔らかい肌というのはこの不埒な中年主人公が自分の欲望とその欲望をさらにも掻き立てながらそれを弾き返すかのような女の若さに仰け反りつつ(ここは溢れ返るものを押さえ込もうとする丁寧なカットバックに捉えて)横たわる女性の体を掌一杯に撫でていくその感触に由来するのは言うまでもありません。パリの一角に洒落た一室を構えて着飾った生活に手頃な裕福さを滲ませるこの文芸批評家がフランスのみならずヨーロッパ各国に招かるのも批評家としての業績以上に彼がテレビを股にかけた知識人であるためで現にこの若い恋人にしても出会う前から名前も顔も知ってはいながら著作は一冊も読んだことはないと正直なところを口にしてそれがまた不思議と男の(忘れていた)若さをくすぐります。妻があり小さな娘があって気心の知れた友人たちにも恵まれながら講演の旅行先で言わば擦れ違っただけの、この女性に夢中になっていくのも彼女の若さというより自分の(或いは自分たち夫婦の)ぼんやりと満たされた毎日に未来が描けなくなる年齢ということでしょう。本作を通して彼が妻なり生活なりにどんな不満を持っているのかはまったく明確ではなく(寧ろ不満は押し出された事態にあとからあとからこじつけている感じで)言わばなりゆきに乗って危なっかしい快楽と家庭の安定をふたつともに手にしていたいという男ながらの虫のよさも透けて見えます。しかしそんな男にたぶらかされるままあるほどこの妻もそして若い恋人も男に決断を委ねたりはしません。トリュフォーの女たちとは(『黒衣の花嫁』にしても『突然炎のごとく』にしても)立ち尽くす冷たさと押し留めようのない熱情をひとりのなかにまとって未来は勿論過去もまた自分で引き受ける強さにたじろぐことのない女性です。結局<柔らかい肌>とは男が抱く幻想の女なのであってそうわかってしまうとこの映画の語りこそ<柔らかい肌>となって私たちに迫ってきます。筋を組み上げ物語に起伏を生むためにカットを割り編集をするという映画の当たり前の語りのあり方を横目にフィルムというそれこそ<柔らかい肌>を現実の光景がなぞっていくそういう映画の物理的なそして光学的な仕組みを具現化するかのように動くことの麗しさ、動いていることを見ることの心のざわめきに開かれて視覚がひとつの感触であることを改めて思い知らされます。滑らかな粒状感に靄のように湧き上げる豊かなグレイトーンが幾重にも重なりながら主人公たちを包み込み或いは遠く輪郭を失いながら世界の息遣いのように彼らを浮き上がらせて... それにしても自ら引いた幕切れのあとその場にへたり込むこの女性の、微笑にも至らぬあの微笑は一体誰に向けられたものか。

 

 

 

フランソワ・トリュフォー 柔らかい肌 ジャン・ドザイ

 

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