二代目中村雁治郎 Ganjirou_Nakamura_Ⅱ

 

映画界をも巻き込みながら戦後の関西歌舞伎をあれほどに揺さぶったのは偏に二代目を継いだ中村鴈治郎の収まりのつかなさにあったように思います。うかうかしていたら東京を喰ってしまい兼ねない戦前の不敵なまでの隆盛ぶりからすれば歌舞伎のともしびが大阪のひとびとの心から瞬く間に遠のいていった戦後は誰もが首を傾げる謎めいた現実ですが客からしてそうであれば舞台にあった役者たちにとっては揺らぐはずのない伝統が足許を砂となって崩れていく感覚であったでしょう。当時関西を牽引していたのは双壽と謳われた阪東壽三郎と市川壽海でまあ表立つ鴈治郎の言い分からすれば他にも相応しい関西生粋の諸先輩がおられようということですし何より随一の顔であるはずの鴈治郎の名跡を継いだ自分が名前に応分の役を得ていないことの松竹の不実を詰るわけです(中村鴈治郎『鴈治郎の歳月』文化出版局 1972)。それに追い打ちを掛けるのがのちの五代目中村富十郎となる阪東鶴之助による騒動で鴈治郎の本を読んでも口のなかでむにゃむにゃやっていて要領を得ませんが察するところ楽屋裏での仕打ちをマスコミを通じて告発したらしく(これを以て扇雀と若手の人気を二分していた鶴之助は関東に移って)そんなこんなに嫌気が差して鴈治郎は歌舞伎役者を廃業すると宣言します。戦前に(いまは失われたとされる)『芸道一代男』に主演して旧知であった溝口健二を頼って大映入りを決めますが入社第一作に『大阪物語』を用意する溝口がロケハンも半ばで急逝してしまいそれでも映画は吉村公三郎に引き継がれます。不思議なのは歌舞伎にあったときの一番の不満であった市川壽海のその芸養子が市川雷蔵で(この辺りも雷蔵の梨園の見限りとそれを受け入れる壽海の人柄に彼らとて歌舞伎に立つ瀬がないとすれば一体関西歌舞伎の立て役者とは何なのかという気になりますがともあれ)その雷蔵を次世代の筆頭に何より(かつては義弟であった)長谷川一夫が待つ大映に入る鴈治郎の心根もなかなかに奥深いものです。因みに鴈治郎の愛娘玉緒も大映入りして交際を打ち明けられた勝新太郎の名前に鴈治郎は<他にもぎょうさんおるやないか、よりにもよってあんなんやのうても>だったとか。

 

 

 

勿論原因というものはいつでも錯綜しておりましょうし敗戦直後というのは東京の歌舞伎でもそれまで斯界を引っ張った大名跡が続けざまに鬼籍に入って(それが中村歌右衛門などの若手を羽ばたかせるとともに後ろ盾を失った大川橋蔵や大谷友右衛門の命運を分けることにもなって)それは魁車、梅玉、延若を失った関西でも同じことですがただこの関西混迷の遠因はやはり戦前の東宝劇団だろうと思います。夏川静江を中心に構想された東宝のこの劇団には青年歌舞伎に血潮をうねらせながら分厚い歌舞伎座の香盤を思えば若さのいまに居ても立ってもいられない(それはそれで名門揃いの)若者たちが大勢参加します。勿論松竹を足蹴にするわけですから親兄弟からは当然勘当の憂き目となりますが... のちに彼らが辿り着いた止め名で記せば八代目阪東三津五郎、十一代目市川團十郎、十七代目中村勘三郎、十三代目片岡我童という(そのときにはまだうらぶれた)面々でそのなかに市川壽海、当時の芸名で市川壽美蔵もあって(千谷道雄『幸四郎三国志』文藝春秋 1981.8、中川右介『歌舞伎家と血と藝』講談社2013.8、権藤芳一『上方歌舞伎の風景』和泉書院 2005.6)その水も滴る立ち姿に心を奪われる乙女は数知れず。しかるに劇団があえなく頓挫してみれば(まるで軽犯罪を警察に挙げられた少年たちが親に引き取られるときのように世界四方に腰を折ってお辞儀させられながら恥さらしの腕をもげるほど引っ張られて松竹に連れ戻されると)きつく灸を据えられてそれでも名門の家の出は何とか元の鞘に収まるにしてもそうではない壽美蔵と簑助(八代目阪東三津五郎)は関西へ遠く島流し(同じく流されたもしほは兄が初代の吉右衛門であってみれば程なく呼び戻されてこの辺り『平家女護島』を地で行って)、鴈治郎が壽海を頂くことに承服しないのはこういう背景があるわけです。

 

 

 

 

事態をというか人間関係をもうひとつややこしくさせるのは東京から関西に流れた役者に阪東鶴之助があって(先述の鶴之助の実父ですが)彼が大阪の大名跡<中村富十郎>を襲名するというんですから居並ぶ役者たちが心穏やかにいられるはずもありません。鶴之助が関西に活動を求めたのには羽左衛門の娘と駆け落ちしたためで(先述の鶴之助の実母ですが)それがやがて弟子と更に駆け落ちして(この辺り踊りの宗家の人妻が弟子と奔放な恋に陥るのは藤間紫と猿之助と同様でこの吾妻徳穂にしても藤蔭静樹にしても舞踏の女性たちの何とも<こんちきしょう>な生きざまで)、戦後に息子の鶴之助が鴈治郎を告発するのは先に見た通りですが独り身の富十郎の後妻となっていたのが鴈治郎の妹である中村芳子なんですから何ともこんがらがってきます。さてその鴈治郎を主演に小津も彼には何かと気遣いを見せて『浮草』では大歌舞伎と大書しつつドサ廻りの座頭である鴈治郎には(三度の舞台場面のある京マチ子とは違い)歌舞伎の演目を演ずるところは音声のみで映像はありません。また杉村春子にも容赦なく駄目を出しては<はいもう一回>と何度でも本番を繰り返させ挙句に<二回前の方がよかった、あれをもう一回>などと淡々と責め抜いて香川京子によればさすがの杉村も何十回に及ぶ撮り直しに青ざめていたと言いますが度重なる撮り直しに鴈治郎が不審がるのに<あなたの芝居を何度でも見たいから>と取りなすんですからあの垂れ下がるべっこう飴みたいな厳しい顔つきが更にもにたっと崩れるのもわかります。『炎上』『雁の寺』『破戒』のそれぞれ味わいの違う(とは言えどれも腰まで色欲に呑み込まれた)住職も忘れ難いところですが鴈治郎の一本となると(何せのちに人間国宝となるのを知っている身としては)今村昌平監督『「エロ事師たち」より人類学入門』(日活 1966年)でしょうか。地位の高い低いに拘わらずひとが否応ない色事のちまちまとしたところに泥濘むのを手助けするのが主人公の小沢昭一です。彼とねっとりとしたモノクロームに煙って喫茶店の奥だかでひそひそと語り合うのが鴈治郎で要するに本物の女子高生で痴漢がしたいというのです、何ともはや。ただここが難しいところで仕込みがなければ即犯罪ですしかと言って仕込みがわかり切ってしまえば面白みがなく、そこで小沢への依頼となるわけです。ちゃんと言い含めた本物の女子高生という約束に小沢が用意したのが... おかあちゃん、女子高生いうてうち子供ふたり産んでんねんで、わからへんわからへん。その三十路に手のかかった女子高生をそうとも知らず感に堪えない喜びに震えてのちの人間国宝が漏らす<えかったぁ>の湿った余韻がいまも響いて。

 

 

 

 

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小津安二郎 浮草 京マチ子 中村雁治郎

 

 

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