映画ひとつ(づり)、伊丹万作『静臥雑記』
  作者 : 伊丹万作

  出版 : 国際情報社出版部
  作年 : 1943年



<序>で明かされる通り『影画雑記』に続く伊丹万作の第二著で昭和12年の前作からこの方折々に書きつけた文章をまとめるように誘いを受け(まあ本人も苦笑いしておりますが時節を思えばそんな奇特な申し出に割当となっている大事な紙を使ってまでこんなものを出版してよいのかなどと殊勝なことを言っていたのも最初だけ自分の本が形になってくるとやはりいい紙は使いたいし見窄らしい装幀も嫌なわけではるばる貴重な上質紙を見つけに発行人が駆け巡りその甲斐あって)なかなか立派な本に仕上がります。序に記された日付は昭和17年12月8日、大東亜戦争は2年目に突入です。前作との間に横たわるのは勿論映画界自体が近代的な産業へとのし上がっていったそういう変動であって(溌溂としたスタープロは次々と尾羽うち枯らして大資本の軍門に下り個人商店の製作プロも敢えなく店仕舞い、熾烈な引き抜きがあわや全面抗争まで緊張を高めて... )映画法も施行されそれを読む伊丹の呟きがおかしいのはいまや新規に監督になろうと思えば内務省の試験に合格する必要がありしかもその試験には脚本の執筆が必須とあってはいまをときめく大監督の溝口健二にしても内田吐夢にしても阿部豊を以てしても時期が違えば不合格の憂き目にあっていたかもなどと... あの気難しい溝口が監督昇進試験を前に書けない脚本にうんうん唸っている姿はそれはそれで微笑ましいですが。まあ伊丹が言う通り脚本は脚本家の仕事であって監督にわざわざそれを求める条項が付け加わったのには松竹でそれを励行し続ける城戸四郎の一家言でしょうか。伊丹の目は別の仕業も見逃しません、映画法でわれらが職業名が監督ではなく演出者となっていることを見咎めてあれは東宝一社の呼称であり(宝塚を初め広く劇場経営を傘下に置く東宝からすれば合理的でしょうが)承服はしかねると、たかが呼称ですが戦後に改めて問題とされてやっと<監督>に統一されるんですからされど呼称なわけです。目次を見渡してやはり心引かれるのは「人間山中貞雄」と題された一編でどこかの山の噴火を新聞に探している目に山中の陣中死の記事が飛び込んできてそのことを<腹立たしいほどのあっけ無さ>だと書きつけずにはいられない伊丹です。山中とそう濃厚でもなかった付き合いが語り起こされますが世に才気煥発と謳われた山中の映画を自分はあまり買っていないという幾分ひねくれた伊丹の追悼は戦地に没しようとする山中が漏らした<紙風船が遺作とはチト、サビシイ>と何と絡み合っていることか。さて思わぬところをあと二つ三つ拾いまして締めくくりと致しましょう。李香蘭をひと目見たさに十万の群衆が押し寄せたことを引いて(さすがに李香蘭と名前こそ出しませんが)彼女は<日本で生産し、満支で加工したもの>と都新聞にはっきり書いています。驚くべきは昭和15年の『朝日グラフ』に寄せて映画はテレビと結びついて初めて十分な普及力を見ると述べていることでテレビなんてアメリカでも放送を開始したばかり日本ではまだまだ遠い話でしてしかもテレビに映画の死活を乗っけるなんて60年代のハリウッドの選択であれば結核の気怠い病床から見上げる伊丹がずっと戦後を見据えているのがわかります。一方で世評高い豊田四郎監督『小島の春』(東京発声 1940年)の描く癩病者を批判して芸術として取り上げながら人生のどん底に触れないまま叙情に流すのは許されることなのかと詰め寄ります、しかしながら故郷四国の遍路の道々に彼らの姿を見てきたとする伊丹が(珍しく激情に)主張するのは断固たる隔離であってやはり時代の軛に繋がれてもいます。

 

 

国立国会図書館デジタルコレクション・伊丹万作『静臥雑記』

 

こちらをポチっとよろしくお願いいたします♪

 

 

伊丹万作 Mansaku_Itami

 

 

関連記事

右矢印 72年後の、『陸軍』 : 頭、右。

右矢印 映画と映るもの : 応答 : 仕立て屋の手並み

 

 

山中貞雄 Sadao_Yamanaka

 

 

前記事 >>>

「 役者の山脈 : 永遠の二枚目 : 鴈治郎 」

 


■ フォローよろしくお願いします ■

『 こけさんの、なま煮えなま焼けなま齧り 』 五十女こけ