岡田裕介 Yusuke Okada

 

東映会長であり東映社長でもあったときの岡田裕介に私が思い出すことはほとんどなくてたまに見かけるその姿にありしながらの面差しを懐かしむぐらいで... そう言えばもう随分の前のこと、すっかり洋画に押された(というその言い草自体が何かもう歯噛みするほど新しみもなく聴き馴染んでしまった)日本映画のいまに物申さずにおれぬ面々が揃って夜更けのテレビ番組を侃々諤々賑わしているところに製作、配給を司る側の言い分が挿し込まれてそれが久しぶりに見る岡田裕介、既に東映の重役という肩書です。何分古い話で言ったところを正確に思い出せませんがいまの日本の俳優には客を呼べるひとが乏しいだったか気概がないだったかともあれ現状には俳優にも応分の原因があるという分析に弾かれたように立ち上がるのが(まあお察しの通り)山城新伍で眉を八の字に逆立てて岡田茂の昔から語り起こすと(俳優は腕が鳴る思いで待っているのに)映画会社こそ製作に腰を据えているかと腕を捲ります、とは言え岡田はVTR出演ですから喧嘩にもなりませんが。どちらの言い分もそれぞれ立場の正論でここが噛み合わなかったからこそ60年代後半の日本映画の雪崩もあったわけで根っこはそこからでしょうが、しかし正否はともあれいまから見ればどちらも日本映画と洋画という仕切りに俳優も製作も仕切られていて何とも行き止まりの話ではあります。

今回岡田裕介の訃音に接して添えられた遺影は丸みのある年齢の風格に佇んで勿論近年のものでしょうが、紛れもなく俳優であった頃の岡田の面影を浮かべて私にまっさきに思い浮かぶのは森谷司郎監督『赤頭巾ちゃん気をつけて』(東宝1970年)です。庄司薫のこの小説の(はるか田中康夫に先行して風俗と社会を記号的に引き込む)強かな戦略については幾重にも論評されてきたところでそもそも明かされる小説の構想が四神の色を題名に隠し入れた四部作でその口火を切る本作が<赤>です。作者である庄司薫がそのまま作中の主人公であり東大闘争の煽りで入学試験が中止となったその年のその一日を(大学受験の帰趨をさ迷いつつ)饒舌に語りますが実際には作者はとっくに東大を卒業した十年来の小説家です。主題(の目的とその崇高さ)に託す通常の作家と主人公の関係よりもはるかに錯綜させて誠実さを敢えて宙吊りにすることで1969年という時代の、切実さと軽薄さが互いに互いを呑み込む終わりのない相を描いていきます。それにしても石坂浩二を思わせる知的で甘ったるい二枚目ですが石坂が根っからそこに踏み止まって(そうでありながら加藤泰監督『花と龍』では止せばいいのに流れ者の博徒でありそんな親子二代をふた役で演じるといういやにかぶれたところを見せてこちらの背中に冷たい汗が流れますが)言わば自分の足許だけで俳優を貫くのに対してまるで優男の自分の風貌を借り物であるかのように役にゆらいで見せて(芝居に技巧がないことも、ないことを特に繕う気もないことも印象よく)不思議な魅力があります。

 

 

森谷司郎 赤頭巾ちゃん気をつけて 岡田裕介

 

 

岡本喜八監督『にっぽん三銃士』2部作(1972年、1973年)は元帝国軍人、焼跡闇市派、戦後生まれの三人がそれぞれ1970年代の世知辛い自分の境遇に落ち込みつつ三人が三人ともにそれぞれの事情に三つ巴に絡み合って最後はすべてをうっちゃって新規蒔き直しに東京を後にするという活劇です。(何となくウィリアム・ワイラー監督『我等の生涯の最良の年』を思い浮かべてしまうのは日本がずっと<戦後>を生き続けていて60年代から70年代のこの変わり目が戦後の、戦後であるからかもしれませんが)。言うまでもなく戦後生まれの役が岡田裕介でまるで<薫クン>のその後を見るような広告会社の社員であり(自分でこそ時代の先端に腰を据えていると思いながら)どこへ向かうでもなくただ力が渦巻く現代の社会に目が眩んでいます。そんな岡田裕介の一本を考えたとき、俳優であった始まりとやがて製作側に身を転ずるその交差に置かれて製作に初めて名前を掲げた岡本喜八監督『吶喊』(喜八プロ・ATG 1975年)を挙げることに致しましょう。大勢は決したとは言え日本全土が新時代を迎えるにはまだまだ抜刀のぎらつきと硝煙に揺れる奥州です。世は間もなく明治の名乗りを上げようというそんなふたつの時代が剃刀の薄刃に隣り合って新政府と旧幕派、のみならずいまや新政府の口先と現実もまた際立って本当も嘘もない、ただただ目まぐるしく変わる情勢にせめて自分の生き筋をつけることを目指すひとびとです。土方歳三役でカメオ出演の仲代達也は負戦を貫くのは理屈に合わないことに抗いたいからだと嘯きますし本作で大人の流儀に翻る高橋悦史も箍の外れ掛けたいまに通すべき義を自分の死にどころとするでしょう。一方で燻った百姓暮らしに若さを持て余すのが本作の主人公とも言うべき伊藤敏孝で村を出れば見るもの聞くもの面白くて堪らず挙句にいままで身分制に這いつくばっていなければならなかったのがいまでは身分を串刺しに出来るとあっては刀に誘われるまま鉄砲に誘われるまま戦闘に明け暮れています。その伊藤とひとつの影をふたりで生きているようなのが岡田裕介で郷士だか足軽上がりだかどのみち故郷では頭を押さえつけられてそんな世の中が上を下へとひっくり返るのにうまく乗っかってたんまりお宝をせしめようというのが彼の意気地、鵜の目鷹の目で軍用金のありかを探っておりますよ。お気づきの通り『赤毛』(1969年)を旧幕派から辿り直すような物語でやがて『ジャズ大名』(1986年)に駆け抜けていく岡本喜八の、切れっ端に外縁、落伍者で綴る明治維新です。そこにはこの世にもしや生きるに値するものがあるかというあえかな(それが例え大枚であれ遊女からの解放であれ誰もが平等に生きられるという口約束であれ)その一線に体を張る生きざまが(滑稽とすれすれのところで)溢れていて本作でもまんまと官軍の軍用金を頂戴しながら雨霰の砲弾のなかで物語から姿を消す岡田裕介は次なる時代を望み通りに生きられたものか、それとも時代の狭間に閃光となって消えてしまったか。

 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

岡本喜八 吶喊 岡田裕介

 

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