釈迦がコーサラ国を遊行して、祇園精舎へやって来た当時のことだ。とある一人のバラモン僧がこれを聞きつけ、前々から釈迦の存在を目障りに思っていたこともあり、どうれひとつ彼奴めの説を粉々に打ち砕いてくれようずと腰を上げた。
さて、祇園精舎を訪ねてみると、折しも釈迦は大衆に囲まれ説法をしている最中である。
ところがこのバラモン僧が入って来るのを認めるや、釈迦はたちどころに説法を中断してしまった。胡乱な視線も彼の口を開かせるに及ばない。釈迦は沈黙したままである。焦れたバラモン僧がどうか我にも法を聞かせてたもれと声を上げると、はじめて釈迦は口を開き、
「バラモンよ。汝は内に
要するに、今のお前さんにいくら語り聞かせても効果は無いよ、だから私は沈黙するのだ、エネルギーの無駄だからね、話が聴きたきゃまず聴く姿勢を整えておいで、と真っ向から両断しにかかったのだ。
これは味わい深い言葉である。なんといってもあの仏祖釈迦牟尼でさえ、端から議論する気がなく、屁理屈を捏ね、言いがかりをつけ、論点をずらし揚げ足を取り、ひたすら相手の神経を疲弊させてやろうとしか考えていない手合いには、沈黙するしか術がないと半ば匙を投げているのだから。
この説教によりバラモン僧は大いに感に打たれてしまい、改心して無事宗門に下るのだが、そこが
どころか逆に、
――なんのかんのと言いつのっても逃げ口上に他ならぬ、結局はわしに論破されるのを恐れているに違いない。されば化けの皮は剥がれたわ。やはり釈迦など、所詮口先だけの小才子よ。
と嘲笑し、一方的に勝利宣言を突き付けてのっしのっしと去ってゆくに違いない。そして方々で、
――わしは釈迦に勝った。なあにあんなのは一皮剥けば、見掛け倒しのろくでなしに他ならなんだわ。
と、大いに脚色された「武勇伝」を吹きまくるのであろう。幸せなものだ。
こうした幸福の形態を、夏目漱石は豚的幸福と呼んだ。
強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場は遥かに下落してしまう。不思議なことに頑固の本人は死ぬまで自分は面目を施こした積りか何かで、その時以後人が軽蔑して相手にしてくれないのだとは夢にも悟り得ない。幸福なものである。こんな幸福を豚的幸福と名づけるのだそうだ。(新潮文庫『我輩は猫である』336頁)
流石は漱石、卓見である。
とかく人間が理屈っぽくなってくると、この豚的幸福の謳歌者まで増加してくるのは困ったことだ。如何に豚に等しい輩であっても本物の豚でない以上、まさか屠殺してやるわけにもいくまい。
そう考えると、まだ本物の豚の方が始末がいいのか。獣の領域まで堕落した人間は、生粋の獣以上に始末が悪い。『Bloodborne』で学んだ教訓が、まさかこんな処にまで活きてくるとは。
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