穢銀杏狐月

書痴の廻廊

事は起すに易く、守るに難く、其終りを全くすること更に難し。努力あるのみ。一途に奮励努力せよ。

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日露戦争戦死者第一号・伊藤博文 ―中編―

 

 

「軍備は無論装飾である、但し美術的に於てでなく、威力的に於て装飾である」

 


 明治三十四年刊行の、橋亭主人『兵営百話』に於ける一節である。

 

 

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 模範的といっていい。少なくとも近代国家に於て、「軍」とは斯くの如き位置付けを受けるべきものだ。


 伊藤博文の軍隊観も、これとよく似たものであったろう。軍備は装飾でこそあらまほしけれ、実際に使うなどとんでもない――。


 そうしたはらから杉山の、謂うなら積極開戦論をはねつけた伊藤であったが、さりとて杉山茂丸とても一角の雄。一度はねつけられた程度で悄然として、尻尾を巻いて穴倉に逼塞してしまうほど可愛らしい性根をしていない。


 ここは一番、他の元勲の肚も叩いてみる必要があると思い定めて、まず山縣有朋の所へ行った。
 そこで山縣の語るや曰く、

 


「あの大陸軍国の露西亜を向ふに廻はすのは、支那を相手にしたやうな調子には行かない。その支那を相手にした時でもが、各国は無論日本が遣られるだらうと見てゐたのだし、日本自身でも多少疑惧の念がないわけではなかったのだからのゥ。幸ひ支那に勝つことが出来たが、まだまだ露西亜に向かって行くには力が足りない、それに支那は日本に遣られたことを残念に思って、出来れば露西亜の力を引いて、日本に当らうと考へてゐることは、何かにつけてよく見えてゐる。だから、若し此所で日本が露西亜と事を構へれば、必ず再び支那をも敵としなければならない。つまり露清両国を敵に廻はすだけの覚悟と準備とが出来ないことには、日露戦争は始められないのだ。君は政治界の裏面で活動してゐる男だからこの点はよく呑み込んで決して軽率な議論を振り廻はさぬやうにしなければいかぬ」(『熱血秘史 戦記名著集9巻』484頁)

 


 後日どう政局が転変しようが、常に言い逃れの余地を確保しておきたがる山縣らしい物言いである。
 が、それでも大陸特有の中華思想を見抜いているのは慧眼と評さねばなるまい。中国も朝鮮も、ロシアや英国、フランス等の西洋列強に敗れたところで仕方がないと存外淡白に受け入れるが、日本に敗れることだけは我慢がならない。
 眼の色を変えて復讐を企む。
 これだけは首尾一貫した特徴で、きっと未来永劫変わることはないだろう。


 名うての慎重派だけあって、「同文同種」などという空疎なスローガンに踊らされるほど甘い男でなかったのだ、山縣は。

 

 

Yamagata Aritomo

Wikipediaより、山縣有朋) 

 


 ともあれ山縣の返答も、杉山にとっては到底満足のゆくものでなく、やむなく彼は、次に井上馨を訪問した。


 が、井上馨なる男、聞多と呼ばれていた昔日は自分がそう・・であったにも拘らず、維新後の彼は書生だの浪人だのといった連中が国事を語り、政界に影響を及ぼそうと奔走するのを極端に忌み嫌うようになっており、特に伊藤を扶けて政友会設立に一役買った杉山などは、明らかにこれを憎悪していた。


 むろん、杉山茂丸のことだから、自分が井上からどう思われているかはよく知っている。


 が、状況が状況である。
 本人曰く、「此時の吾輩の国家を思ふ念は、そんなことを顧慮してゐられなかったので、大決心をして井上侯にぶつかって行った(同上、485頁)。結果井上馨の口唇から発射された罵詈雑言の激しさは、杉山のそんな大決心さえ吹き飛ばしかねないものだった。

 


「馬鹿者、何といふたわけたことをいふのぢゃ」頭から斯うである。
「お前は、戦争は空腹では出来ないといふことを知って居るか、我が国の財政状態は、今どんな風であるかといふことを、少しでも考へる者には、そんな馬鹿な議論は出来ない筈ぢゃ。お前達はさういふ馬鹿者だから困るのだ。戦争は固よりのこと、国家の政治といふものはいつも金ぢゃ、財政が苦しくては、何一つ出来るものではないぞ、それを何でも彼でも、大勢人間が寄れば出来るやうに考へるが政党屋だ。政党屋は国家の財政といふことは少しも考へず、只だ悲歌慷慨すれば政治が出来るやうに考へて、騒ぎ廻はるのだから仕様がない。それを又お前のやうな大馬鹿者が居って、裏面から煽てたり悪智恵をつけたり、碌なことをしないから、一層困るのだ」(同上)

 


 かつて西郷隆盛から、


 ――三井の番頭サン。


 と揶揄された井上らしさが躍如としている。
 これより以前に尾崎行雄が、三国干渉で沸騰している世論に向かって、


「日本の歳入は二億五千万円、ロシアのそれは二十億円である。その大国と軍備競争をしても勝てる筈のないことは、軍人諸君の算盤でも判るだろう」


 と冷や水をぶっかけようとした事があったが、それと軌を一にするものでもあるだろう。


 まあ、根っからの官僚気質で政党嫌いな井上と、「憲政の神様」の異名を得る尾崎とでは、意見が一致したからといって互いに喜ぶはずもなかろうが。

 

 

Inoue Kaoru

Wikipediaより、井上馨) 

 


 畢竟するに、長州系の元勲で、日露戦争に賛成だった者など一人たりとておらなんだというわけである。


 ――これア、駄目かな。


 さしもの杉山茂丸も、ある種の諦観を覚えずにはいられなかった。


 いや、杉山は不屈の精神を持っている。


 対露戦そのものを諦めるつもりは毛頭ない。ないが、しかしながらその実現は相当先になるだろうと覚悟して、それまで色々、水を腐らせぬ工夫を凝らす必要があると、そちらの方向へ思考をシフトさせずにはいられなかったというわけだ。

 

 

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 ところが事態は意外にも、そう間を置かずして急転直下を遂げるに至る。

 


 まず、第四次伊藤内閣が組閣から一年持たずの、明治三十四年六月二日にぶっ潰れた。


 政党嫌いにかけては井上に勝るとも劣らない、山縣有朋が策動した結果、すなわち長州系元勲どもの同士討ちである。


 さてその後始末に元老会議が開かれて、後継内閣を誰にやらせるかということになったが、困ったことに一向候補者が決まらない。


 ここ数年、短命内閣が多過ぎた。


 それも伊藤、大隈、山縣ときてまた伊藤という順番で、位人臣を極めたはずの大元勲の方々が内閣総理大臣の任についてなおこの有様というのだから、誰もやりたがらなくなるのは当然であろう。


 ――火中の栗を拾いに行くようなものではないか。


 そう警戒して、皆が尻込みしたのである。


 窮余の一策として元老会議はともかくも、井上馨を奏薦したが、大臣のなり手・・・に欠乏し、一ヶ月経っても内閣を組閣できなかったため井上はついに辞退の旨を表明。
 このあたりの消息を、杉山は次のように解いている。

 


 政治家といふ者は、自分一身のことを考へるのになかなか敏感なものであるから、難局であり、短命が見え透いてゐる内閣へは、よほど大臣病の熱に浮かされてゐる者でない限り飛込んで来ない。現今では聊かこれと趣を異にしてゐるやうであるから、どんな内閣にでも大臣の椅子を狙って割込運動が甚だ猛烈である。それは政権を取った上で、政権と金権とに依って、手段を選ばず、如何なる方法を講じても寿命を延ばしてかじりつく、又それが或る程度まで成功するのが実情であるから、その間に思ふ存分利権を振り廻はして党勢を拡張する。これが現今の状態である。日露戦争前後とは政界の事情も、政治家気質も余ほど変って来てゐる。(同上、490頁)

 


 ともあれ内閣総理大臣が指名されても、それ以下の大臣のなり手に一向目処が立たないという、杉山曰く「明治政界特有の現象」の効果によって井上内閣は流産を遂げた。


 これを受け、元勲世代からの総理大臣擁立はもはや困難と判断した元老会議は、山縣の強力な推しもあり、陸軍大将桂太郎に大命を降下させるに至る。


 この桂が、杉山と児玉で組織した、例の秘密結社の会員であった。

 

 

写真で見る日本陸軍兵営の食事

写真で見る日本陸軍兵営の食事

 

 

 

 


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