敵の敵は味方だと、現実はそう簡単に図式通り動かない。特に政界のような伏魔殿に於いてはなおさらだ。
明治十五年に端を発する自由党と改進党の相克などは、その例として最適だろう。現政府の転覆をこそ大目標として掲げているのはどちらも同じ。にも拘らず、この在野二党の連携は、最初からまったく絶望であった。
原因は、専ら
この悪感情の根深さは、改進党草創期、同党副総理河野敏鎌が友党としての諒解を取りつけるべく自由党に脚を運んだその際の、板垣の応対ぶりを参照すればよくわかる。なんでもこの時、板垣は、
「主義綱領を同じくしながら別に党を樹てるのは、我が党の切り崩しを行わんとする敵党の態度である」
と、頭ごなしに突っ撥ねて、河野が何をどう弁解しようと一切聞く耳を持ってやらず、けんもほろろに追い返したとされている。
喧嘩腰といっていい。仮にも他党の副総裁に対して相応しい態度ではないだろう。
そうなると、大隈も直情な男である。板垣の野郎が喧嘩を売るなら、おおさいいとも買ってやるとばかりに敵意を燃やし、以降両党はともすれば、政府よりも激しく互いを憎み合い、泥沼の取っ組み合いを演じ続ける破目になる。
明治十五年四月を以って、改進党が正式に発足すると聞いても板垣は世辞の一つも贈らなかった。
そんなことは知らぬとばかりに配下を引き連れ、一ヶ月前の三月に、「自由党の地盤開拓」という名目のもと、帝都を離れて全国遊説の旅路についた。謂わば、改進党と大隈を冷然と無視した。
――彼が岐阜で暗殺されかけ、「板垣死すとも自由は死せず」という伝説的台詞が誕生したのは、このような背景に於いてである。
板垣が兇漢に襲われた――この報を受け、最も激しく反応したのは東京にいる彼の盟友、後藤象二郎であったろう。
混乱の極みに叩き込まれた自由党本部に現れた時、象二郎は既に旅装を整え、興奮のあまり首筋まで真っ赤になっていたという。
で、右往左往する党員を睨み、放った言葉が凄まじい。
「若し板垣にして落命せば、我はその屍を壇上に横たえ、弔い演説を試みて同じ刺客の手に斃れん」――。
この男らしい大風呂敷と言う以外にない。
だが大風呂敷とて、使いどころを過たなければ強力な武器になるようだ。少なくともこの場合には時宜を得ていた。
象二郎の熱狂はたちどころに党員達に感染し、決死の覚悟を固めた民権主義者が我も我もと岐阜を目指して駈けてゆく。東京のみならず美濃・尾張・三河三州の同志達もこれに呼応し、一令あらばすぐさま武装蜂起を敢行すべく用意を整え始めたために、岐阜市内の空気は急速に不穏化。明日市街戦が勃発しても誰も不思議に思わない、さながら地雷原の如き観を呈した。
(Wikipediaより、岐阜事件)
このあたりの消息は、後藤新平に於いて詳しい。
なにしろ彼こそ名古屋から態々駈けつけて、遭難した板垣を診察、治療に当たった「主治医」に他ならないからだ。
後藤が娘婿の鶴見祐輔に語ったところによると、
「俺が板垣さんの部屋に入って見ると、床の間に病人を洋服のままで臥かして、三四人の自由党の領袖が、その部屋のうちに大きく陣取って坐って、はア、はアと応対してゐる。俺はこれを見て、これはいかん、と思ったね。今まで来た医者はみんな板垣さんとこの自由党の政治家とに威圧されて、本当に診察しきってゐないんだね。そこで俺は、この連中の前を、ずーっと通りぬけて、いきなり病人の前にいって、洋服の胸をあけて、鞄の中から、鋏を出して、ざりざりざりと、血のにじんだラッコの毛皮のチョッキを切ってしまったんだね。さうして、ついでに下着のシャツも何もみな切って、胸をあけて診察したんだ。何、疵は大したことはなかったんだね。刺客の短刀をもぎ取らうとして、刃をつかんで揉み合ったときに、右手の指を深く切ってゐた。之が重い疵であとは大したことは無かったんだね。
前に来た医者だって、その位のことは解らないわけはないんだが、何しろ天下の板垣さんといふのと、周囲の先生方におぢけてしまって、碌に診察しきらなかったんだね。
だから俺は、いきなりそのラッコの毛皮のチョッキを、ざりざりと切ってやったんさ。附添の自由党の連中が、びっくりして、目を見張ってゐたっけ、アッハッハハハハ」
と、彼は大きい體を揺って笑った。
「つまりね、患者医師に勝てば凶、医師患者に勝てば吉さ。医者が気後れをしては、患者の病気など診察の付くものぢゃないよ」
さう言った。
その片言隻語のうちに、彼の人生観が躍動してゐる。(昭和十一年刊行、鶴見祐輔『読書三昧』348~349頁)
前任の医師らが思わず診察を躊躇うほどに、場の雰囲気は物々しかった。
そうした空気を一切読まず、鋏を取り出し、やるべきことをどんどんやった後藤の胆の座りようも尋常ではない。下手をすれば取り巻きの中から、貴様その光物で板垣サンになにをする気だと暴発する輩が出てもおかしくないのに。
前任者たちを怯ませたのは、実際そうした危惧であろう。だから遭難時の服のまま寝かせておくなどという馬鹿な所業が罷り通る。
幸い岐阜事件そのものは事なきを得て終息したが、このとき岐阜を中心に展開された、革命前夜の如き景色は多くの関係者の心胆を寒からしめた。
滑稽なのは、その「肝を冷やした関係者」の中に、当の板垣退助さえも含まれていたことである。
このままでは暴走する自由党員に引き摺られ、西郷の二の舞を演ずる破目になる――そのような危惧があったからこそ、板垣は同年十一月に周囲の反対を押し切ってまで、無用としか思えない外遊の旅に出たのだと、そう主張する声が古くからある。
個人的にも、この説にはかなりの説得力を感じている。過熱しきってしまった時勢というのはどうにもならない。佐賀の乱に於ける江藤新平、西南戦争に於ける西郷隆盛を見るがいい。いずれも本人たちは今事を起こすのはまずいと重々承知していながらも、暴走する「下」を抑えきれず、ついにあのような悲運の沼にはまり込んでいったのではないか。
こうした「先達」の失敗例から、板垣は学ぶところがあったのだろう。神輿として担がれる前に、自分を隔離しようとした――遠く海の向こう側まで。
ところがその板垣の背に、嬉々として漫罵を投げつけたのが改進党。彼らは板垣のこの外遊費が、その実政府の財布から賄われているという風聞に目をつけ、
「これは自由党の自滅と改進党の孤立とを目論む政府の一大陰謀であり、板垣はみすみすその手に乗った」
「彼は志を売り渡した卑劣漢なり」
といった調子の煽り文句で盛んに攻撃、いつぞやの鬱憤を存分に晴らした。
が、自由党とて黙っていない。この一件で更に改進党への憎悪を募らせた連中は、やがて「偽党撲滅・海坊主退治」の大旆をひっさげ、岩崎弥太郎率いる三菱への攻撃に乗り出してゆく。
改進党を後援する三菱王国を叩くことで、謂わば彼らの糧道をぶった切ろうとしたのであった。
まこと、現世は無限闘争の修羅場であろう。
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