パラオに観光旅行(4)

はじめに

この旅行記では10月に行ってきた5日間のパラオ観光旅行をご紹介しています。この記事では4日目(観光最終日)のペリリュー島戦跡ツアー(後編)をご紹介しています。

1~2日目の出発~パラオ社会・産業見学の記事については「パラオに観光旅行(1)」に掲載しています。

3日目のロックアイランドクルーズ観光の記事については「パラオに観光旅行(2)」に掲載しています。

4日目(観光最終日)のペリリュー島戦跡ツアー(前編)の記事については「パラオに観光旅行(3)」に掲載しています。

4日目(観光最終日)~ペリリュー島戦跡ツアー(後編)

バスはアメリカ軍が最初に上陸作戦を始めたオレンジビ-チヘと向かいます。

オレンジビーチ

オレンジビーチは1944年9月15日にアメリカ軍が最初に上陸したペリリュー島の南西部の海岸です。オレンジビ-チの名前の由来はアメリカ軍が海岸に付けたコードネームです。

ペリリュー島の南西の海岸に北の方からビーチ・ホワイト・ワン、ビーチ・ホワイト・ツー、ビーチ・オレンジ・ワン、ビーチ・オレンジ・ツー、ビーチ・オレンジ・スリーと命名されていたようです。

   

内陸からオレンジビーチと海を見た様子(左)とビーチから内陸側を見た様子(右)

現在はある程度木々や草が生えていますが、アメリカ軍の上陸作戦が始まった頃は、上陸前の3時間にも及ぶ艦砲砲撃や爆撃機による爆弾投下でこの地域一帯は焼け野原になっていたと思われます。

アメリカ軍が上陸作戦を行ったこのビーチでは日本軍の砲撃がすさまじく、アメリカ軍の上陸艇がたくさん撃破されたとのことです。

オレンジビーチの北側を望んだ風景

オレンジビーチから海のほうを望んだ風景(アメリカ軍の艦船が迫ってきた方向)

オレンジビーチから南のほうを望んだ風景

オレンジビーチは上の写真にあるように現在はとても静かな美しい海岸です。海も湖のようにほとんど波がありません。激戦が行われたとはとても思えない場所です。

52型零式艦上戦闘機(ゼロ戦)

ペリリュー島には最盛期にはゼロ戦が200機ほど配備されていたようですが、アメリカ軍の上陸作戦が始まった頃には10機程度しか残っていなかったようです。

下の写真のゼロ戦は森の中に隠されていたものを終戦後発見してこの場所にもってきたもののようです。

   

ゼロ戦が置いてある場所へ続く道(左)と52型零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の残骸(右)

ゼロ戦は燃費や飛行性能の向上のために極力軽く作られていて、たとえばパイロットの椅子の背中の装甲はとても薄かったといわれており、背後から敵機に射撃を受けると致命傷になることが多かったと聞いています。

そろそろお昼のランチタイムになり、トイレやベンチがある近くの広場でお弁当をいただくことになりました。バスでオレンジビーチから南側に見えていた小さな半島の先あたりへ移動しました。

そこには2015年4月に天皇皇后両陛下がペリリュー島を慰問で訪れたときにご休憩された建物がありました。

   

お弁当を食べたベンチから見たオレンジビーチ(左)と天皇皇后両陛下の休憩所(右)

   

その半島の先端にあったアメリカ軍の記念碑(左)と記念碑のプレート(右)

アメリカ軍の記念碑にはここで命を落とした第一海兵師団と陸軍第81歩兵師団などの兵士へ向けての祈念であることが書かれていました。

ペリリュー平和記念公園

ペリリュー島のほぼ最南端にペリリュー平和記念公園があります。ここは西太平洋戦没者の碑が建立されていて世界平和を祈念して作られた公園です。

ここから南西約10Kmのところにはやはり太平洋戦争で日米の激戦となったアンガウル島があります。日本統治時代にはリン鉱石の採掘が行われて旧日本軍の重要守備ポイントになっていました。

   

ペリリュー平和記念公園のモニュメント・献花台(左)と献花台の様子(右)

皆で平和を祈念してお祈りを捧げました。

献花台の下には雲の上に矢印が載っているレリーフがあります。この矢印は故郷日本を指し示しているとのことです。

  

モニュメント側面上のシャコガイの雨水受け(左)と遠くに望む激戦地アンガウル島(右)

ペリリュー平和記念公園を後にしてバスで次の見学スポットへ向かいました。

 途中バスの車窓から典型的なマングローブの木々が見えてきました(左)。

またアメリカ軍の水陸両用戦車と装甲車が置いてありました(下)。

左側が水陸両用戦車で右側が水陸両用装甲車です。このような水陸両用車は旧日本軍にはなくアメリカ軍の近代兵器・装備の一角だといえます。

   

日本軍防空壕・大砲跡

バスは少し上り坂を登り日本軍防空壕・大砲跡へ行きました。そこは少し広場になっていてアメリカ軍の装甲車が置いてありました。砲塔には大砲ではなく機関砲(または重機関銃?)が備えられていました。

かなり大型の車両で現在でも歯車の一部が動くようですが、これは地元のパラオ人がときどき油を指しにきてくださっているとのことです。理由はこの展示物を長持ちさせて世界の人々に平和のありがたさを知ってもらいたいからだということだそうです。

   

装甲車を前方から撮影したもの(左)と後方から撮影したもの(右)

その広場の先に急坂がありそこには階段がありましたが、その上った先に日本軍大砲跡と防空壕があります。

   

上に行く階段(左)と大砲跡(右)

この大砲の裏にアリの巣のように掘られた防空壕があります。この大砲はアメリカ軍が上陸したオレンジビーチとは逆の方角を向いていたために戦争中は使用されなかったとも言われています。そのためにほぼ無傷で残っていたのでしょう。ちなみに砲弾の到達距離は約6.5Kmだったと言われています。

広場の横の林の中に鉄骨の柱が何本か残っていますが、これは当時アメリカ軍が日本人捕虜を収容していた建物の跡だということです。

最終的には日本人捕虜は200名ほどになったようですが、上陸作戦当初は第一海兵師団の損害が甚だしかったのでアメリカ軍は積極的には捕虜はとらなかったとも言われています。

ペリリュー神社

1934年に天照大神を祭神とするペリリュー神社が建立され、現地の日本人居住者は従来よりペリリュー島の繁栄を祈願してきたそうです。

ここにはアメリカ軍のニミッツ提督より旧日本軍の兵士に対する賛美の詩文碑があります。

   

ペリリュー神社(左)と日本国家「君が代」に詠われているさざれ石(右)

ペリリュー神社の右奥にはアメリカ軍の記念碑がありました(左)。

皆この記念碑に向かって戦闘で亡くなったアメリカ兵に対してもお祈りを捧げました。

ブラッディ・ノーズ・リッジ(大山)

ブラッディ・ノーズ・リッジ(大山)は標高98mのペリリュー島内の最高峰の山です。この頂上からはオレンジビーチを始め島内すべてが見渡せます。この山を中心として麓にかけて広がっていたのが旧日本軍の複郭陣地で中川大佐率いる旧日本軍兵士が最後まで戦った激戦地です。

今日は崖の中腹の洞窟前に設けられたペリリュー島守備隊隊長・中川大佐自決の石碑を訪れます。

麓にバスを止めて徒歩で山を登って行きますが、入り口付近には大きな注意書きのたて看板がありました。そこには「まだ不発弾や地雷の撤去処理が終わっていない場所があるので十分に注意すること」などと書かれています。

要するに各所に白と赤の2色に塗られた杭が打ち込まれていて、白の側は処理済、赤の側は未処理のままという意味だそうです。私たちは安全な杭の白の側を歩いて行きました。

   

安全喚起の注意書きの看板(左)と地面に打ち込まれた安全境界を示す杭(右)

  

薄暗いジャングルの中の小道(左)と途中にある旧日本軍に対する顕彰碑(右)

道の途中には旧日本軍のペリリュー島守備隊全員に対する顕彰碑が建てられていました。顕彰碑のプレートには守備隊の全部隊名が記されていました。

   

崖のあちらこちらにたくさんの洞窟が見られます。旧日本軍兵士はこれらの洞窟と中でつながっている通路を活用しアメリカ兵に対してゲリラ戦を仕掛けたとのことです。このような洞窟はこのあたりの山岳地帯に500以上も作られていたということです。

   

中川大佐自決の石碑(左)と最も過酷な激戦があった谷間(右)

現地ガイドさんが準備してくれていたお線香をいただき皆それぞれ中川大佐自決の石碑にお線香を手向けました。

ここの複郭陣地は、旧日本軍がペリリュー島のその他の地区で全滅した後、最後に残った1,000名ほどが立て篭もった場所です。

その頃には日本軍も弾薬が少なくなってきて、必ずアメリカ兵を倒せる場合にのみ発砲するというような戦法に変わってきたそうです。兵士全員が狙撃兵になったようなものです。

このあたりの場所は固い石灰岩の断崖がたくさんあったのでアメリカ軍は戦車や装甲車を投入することが困難で、兵士は歩いて進むしかなかったようです。

そのため特に谷間などでは多くのアメリカ兵があちらこちらから狙い撃ちになり多大な損害を蒙ったといわれています。

また日本軍はできるだけ距離が接近する白兵戦に巻き込み武器・弾薬の不足を補おうとしていたようです。一例として、アメリカ軍の小隊の一番最後に歩いている兵士をできるだけ音を立てずにナイフで次々に倒していったと伝えられています。

アメリカ軍は戦闘終盤、新兵器であった100メートルは届く強力な火炎放射器を備えた装甲車の投入や爆撃機によるナパーム弾投下により日本軍陣地を次々と焼き払っていったとのことです。

これで今日のペリリュー島戦跡ツアーは終了です。

またバスでペリリュー島の港まで戻ります。途中で休憩したホテルの庭に綺麗な花が咲いていましたので撮影しました(下)。

   

港に到着すると私たちのスピードボートがすでに岸壁で待っていました。ここから再び約1時間かけてコロール島まで戻っていきます。

   

私たちが乗り込むボート(左)と出港してすぐの場所に生えていたマングローブ(右)

       

途中またコバルトブルーの綺麗な海を楽しむことができました。

その日の夜はコロールのレストランで夕食をいただきました。パラオでの最後の夕食ということでコースディナーでした。

   

マグロのお刺身の前菜(左)とココナッツの香りがするスープ(右)

   

貝と海老のシーフードパスタ(左)とチキン料理(右)

   

デザートのケーキ(左)とパラオの人による素朴なダンスショー(右)

日本への帰国

帰国便の都合で深夜の移動となりました。パラオ発が深夜2時くらいで、早朝5時頃にグアムで乗り換え、朝に成田に到着というフライトスケジュールでした。グアム空港ではまたユナイテッド航空のラウンジを利用し、今回はヨーグルトと果物だけいただきました。

左の写真はグアムから成田に到着したユナイテッド航空の飛行機です。

空が少し曇っていましたのでまだ薄暗い感じでした。

最後に

今回は5日間の旅程でパラオ観光旅行を楽しんできました。内容は、パラオの文化・産業の見学、世界遺産ロックアイランドのクルーズ観光、そしてペリリュー島の戦跡ツアーでした。

パラオの文化・産業の見学ではパラオの歴史や文化、産業の一端に触れることができました。よりパラオに対する理解が深くなったと思います。特にノニジュースやタロイモ焼酎の製造では、空調もないような小屋のような場所で人手で素朴に作っていたことが興味深かったです。

ロックアイランドのクルーズ観光では、予想以上のたくさんの観光スポットを巡る事ができてとても満足しています。とにかく紺色、青色、空色それぞれのコバルトブルー、緑色のエメラルドグリーン、ミルキーブルーなど非常に変化に富んだ海の美しさに感動しました。

ペリリュー島の戦跡ツアーでは、ある程度テレビのドキュメンタリー番組などで事前の知識はありましたが、やはり実際の現場に自分の足で歩いていって見ることでその臨場感、緊張感を十分に感じることができました。

パラオはダイビングなどのマリンスポーツだけでなくそのほかの面でも十分楽しめる観光地だと認識しました。ただし、日本からの直行便、または深夜ではなく昼間に移動・乗り換えができるフライトがあればありがたいと思いました。

また観光立国を目指すのであればせめて観光地のトイレをもう少し整備したほうが良いと思います。

またペリリュー島の戦跡ツアーですが、訪れる人たちにここで何が起こったかをより深く・正確に知ってもらうために、20~30分程度のペリリュー島の戦いについてまとめたビデオ(当時の実写の写真や映像を含む)を作製し、戦跡ツアーの出発前に見てもらうようにすると良いと思われます。

なお、ペリリュー島での激戦を含む太平洋戦争を描いた米国のテレビドラマ「ザ・パシフィック」が米国では2010年3月から、日本では2010年7月から放送されました。実際に現地で戦いに参加した3人の米国海兵隊員の記録をもとに約200億円という巨費を投じて作成されたそうです。

このドラマのパート5はオレンジビーチ上陸、パート6は飛行場攻略,7はブラッディ・ノーズ・リッジ(大山)での激戦をそれぞれ描いています。

ペリリュー島での戦いがあまりにも激しく、第一海兵師団第一海兵連隊等が壊滅的な損害を受け、結局陸軍第81歩兵師団と交替せざるを得なかったというようなことは表面的には表現されていません。

しかしガダルカナル上陸作戦以来の歴戦の勇士であった第一海兵師団のベテラン軍曹がブラッディ・ノーズ・リッジ(大山)での激戦の最中に精神的にダメージを受けて国へ帰還した様子が描かれています。

ペリリュー島での激戦では米国軍兵士数千名が精神的な病気になったと言われていますが、このドラマではその様子がかなり具体的に描かれています。

またかなり前になりますがNHKでも「NHKスペシャル 狂気の戦場 ペリリュー 忘れられた島の記録~」が放送されています。実際に従軍したアメリカ軍と日本軍の元兵士のインタビューが含まれたドキュメンタリーです。これは現在DVDレンタルとして借りて見ることができます。

パラオはとにかく時差がない海外のとても美しい南国リゾートですのでまた気軽に何度か訪れる機会はあると思っています。

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