海外旅行回想録(9) ー ベルギー

はじめに

この記事のシリーズでは三十数年前に行った海外旅行を中心に特に思い出に残っている観光の回想録をご紹介しています。

この記事ではベルギー旅行の体験をご紹介したいと思います。

9.ベルギー

三十数年前に個人旅行でヨーロッパの鉄道を利用してオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、ドイツの4か国を巡りました。ベルギーは2番目の訪問国です。

以前日本在住のベルギー人とほんの少し交流はありましたが、ベルギーについては、EU本部がブリュッセルにあるということ以外は日本でもあまりニュースなど情報が入ってこなかったのでほとんど知りませんでした。子供のころから唯一お馴染みだったのはチョコレートで有名なゴディバです。

ベルギーは日本の九州ほどの面積の小さな国ですがオランダ、ドイツ、ルクセンブルク、フランスに囲まれて昔からヨーロッパの要衝に位置する国でした。

昔から大国に囲まれていたということもあり国内には大きな戦争の戦場になった場所があります。特に有名なのはあのナポレオンの最後の激戦地となったワーテルローや第二次世界大戦終わり近くで勃発したアルデンヌの戦いでの激戦地バストーニュです。

今回の観光旅行では、当時日本人観光客に認知され始めた美しい世界遺産の古都ブリュージュ、有名な古戦場であるワーテルローおよびアルデンヌの戦いの中心地バストーニュを訪問することが主な目的でした。

下のベルギーの地図(Google地図)にあるように首都ブリュッセルの北西にブリュージュ、すぐ南にワーテルロー、南東の方向のルクセンブルクに近いところにバストーニュがあります。

ブリュッセル

ブリュッセルでは街の中心部を回り近郊のいくつかの古城を観光しました。

世界で最も美しいといわれる広場「グランプラス」が観光の中心地です。1998年に世界遺産にも登録されています。広場の周囲には豪華で装飾豊かな歴史的建築物が立ち並び多くの観光客で賑わっていました。

グランプラス広場に面した位置にある王の家(現在は市立博物館)

上の写真はブリュッセルの市街中心部にあって2つの塔が特徴的な荘厳なゴシック建築の教会「サンミッシェル大聖堂」です。縦幅114m、横幅57m、高さ64mという壮大な教会は13世紀初めに建築が始まり約300年後に完成したそうです。

当時は残念ながら修繕工事中でした。

ブリュッセル近郊の古城をいくつか訪問しましたが下の写真はガースベーク城です。

   

ガースベーク城の入口付近(左上)と綺麗に整備が行き届いた中庭の様子(右上)

ガースベーク城は、ブリュッセル郊外のベルギー・フランダース地方のどかな丘陵地帯に農園が続いている場所にあります。1240年頃建てられた歴史ある建物だそうです。

この辺りはいわゆる「ブリューゲル街道」の一角であり、中世ヨーロッパの風景や農民の情景を好んで描いたオランダの画家ピーテル・ブリューゲルが多くの作品を描いた場所でもあるということです。

ブリューゲルの最も有名な作品は1563年制作の「バベルの塔」です。この題材では3点の作品があったそうですが2点が現存し、この1563年の作品のほうが良く知られています。以前ウィーンの美術館で実物を初めて鑑賞した時は予想以上の迫力で思わず絵に引き込まれそうになる感覚を覚えました。

「雪中の狩人」や「農民の婚宴」も有名な作品です。素朴で絵本のようなタッチで親しみやすい絵画を描いています。

下に観光バスの窓から見たのどかな田園風景の写真を1枚掲載しておきます。

ワーテルロー

フランス皇帝ナポレオンとワーテルローは小学校時代から世界史の教科書などで何度も耳にしてきた言葉でした。

今回のベルギー旅行でようやくワーテルローというあまりにも有名な古戦場を実際に訪れる機会を得てとても楽しみにしていました。

ワーテルローは近くの村の名前で実際は少し離れたモン・サン・ジャンというところが古戦場になります。いずれにしても交通の便があまりよくない所ということでブリュッセルから直接タクシーに乗って行くことにしました。ブリュッセルから南に約18Kmほど離れた場所です。

ワーテルローは英語読みで「ウォータールー」なのでタクシーの運転手に最初そのように行き先を告げたらよく分からないという素振りを見せました。そこで「ワーテルロー」というと分かってもらえました。

ベルギーでよく使われるオランダ語、フランス語、ドイツ語では「ウォータールー」よりは「ワーテルロー」に近い発音になるようでした。

ワーテルロー古戦場は1815618日にナポレオン率いるフランス軍72,000人とイギリスのウェリントン将軍率いるイギリス、オランダ、プロイセン連合軍116,000人がヨーロッパの覇権を賭けて戦った最後の場所です。

朝10:00~11:30頃から戦闘が始まりその日の夜更けまで続いたようです。その間絶え間なく壮絶な戦いが繰り広げられてそれぞれで35,000人~40,000人の死傷者・捕虜・行方不明者を出したそうです。

ライオンの丘

現地には現在ライオンの丘という記念碑が築かれています。これは1826年に当時のオランダ・ベルギー軍の指揮官オラニエ公王子が名誉の負傷を負った場所を記念して造られたものだそうです。

この丘の構築には戦争当時イギリス軍戦線中央部があった尾根の地域の大量の土が削られて利用されたそうです。このため現在は戦場の地形が少し変わってしまっているということです。

ライオンの丘は高さ約40mの丘で、頂上にある高さ4.5mの台座に、重さ約30tのライオン像があります。そのライオン像はフランスの方向を向いて吠えている姿勢をしているそうで、ナポレオンが撤退した後に残されていた大砲をリエージュの近くの工場で溶かして鋳造したそうです。

ライオンの丘は226段の長い階段を上って頂上まで行くことができ、頂上からは広大な古戦場の全景を眺めることができました。下の写真は階段の途中から古戦場を見た風景です。手前の日陰になった斜面がライオンの丘の急こう配の斜面です。

上の写真はライオンの丘の頂上からの眺望です。過去に大きな戦闘があった場所にはとても思えないほどのどかな田園風景が広がっています。

   

ライオン像を見上げて撮った写真(左上)と頂上からの風景(右上)

ライオンの丘の麓にはパノラマ館があります。ここでは全長110メートルものパノラマキャンバスで当時の戦闘場面が臨場感あふれる迫力で再現されるようになっています。

ナポレオンのここでの敗戦を境にヨーロッパにおけるナポレオンの時代がついに終わりを告げたと考えると、この緩やかな丘を有する広大な歴史に残る地域を特別な感慨をもって眺めることができました。

ナポレオンの敗因

ところでワーテルローの戦いで何故ナポレオンが敗れたのかという原因は昔から多くの人が色々な説を唱えてきているようです。自分なりの考えを含めて整理すると次のようになると思われます。

まずナポレオン敗戦の最も大きな原因は「開戦前夜にその地域に土砂降りの大雨が降った」ことです。このことでナポレオンにとっては次のような3つの不都合が降りかかったと思われます。

①地面が少し乾くのを待つことで開戦時間が遅れたために連合軍側であるプロイセン軍48,000人の参戦が間に合った

2日前にリニーで起こったリニーの戦い(ワーテルロー前哨戦)でナポレオン軍はプロイセン軍を破り、グルーシー元帥に兵33,000人をもって残存のプロイセン軍を追撃するよう命じました。しかしグルーシー元帥はプロイセン軍の現在地さえも把握できずに追撃に失敗し、再編成されたプロセン軍48,000人がワーテルローへ急行しうまく参戦に間に合い形勢を逆転しました。

②開戦時間を遅らせたものの地面はまだ十分に乾いてはおらずナポレオン軍が得意としていた大砲などを最大限活用できなかった

地面がしみ込んだ雨水でぬかるんでいると重い大砲は車輪が土に埋まってしまい機動性を欠いてしまいます。また発射された砲弾の着地点がぬかるんでいるとその攻撃効果が薄れてしまいます。大砲を敵の軍隊よりはよりうまく活用してきたナポレオンですがその優位性が失われたことになります。

また大砲部隊、騎馬隊、歩兵隊をバランスよく組み合わせてタイミングよく戦術をこなすことが必要ですが、ぬかるみは大砲だけでなく馬の歩行にも影響を与え、ナポレオンの本来秀逸な戦術を十分に展開できなかったのだと思われます。

③プロイセン軍の到着前に戦いを終わらせるべく気があせっていた

そもそも朝9時頃に戦闘開始の計画だったようですが、地面がある程度乾くまで待たざるを得ず、結局先鋒部隊の突撃開始が朝の10~12時になり、本体の攻撃開始も13時頃というようにかなり遅くなってしまったようです。

プロイセン軍がいつ到着するかもわからないという不安な状況で、ナポレオンや参謀幹部などが戦闘の決着を急ぐあまり、戦闘の経過に応じて柔軟にとるべき最適な戦術の選択を何度か誤ってしまったと思われます。

ナポレオン敗戦のもう一つの大きな原因は「イギリスのウェリントン将軍率いる連合軍の有利な布陣」だったと思います。ウェリントンは小高い尾根の向こう側に横長く本隊を配置し、ナポレオン軍から布陣が見えないよう工夫したそうです。

このような布陣ですとナポレオン軍に適切な戦術を選ぶ情報を十分に与えないことになり、またナポレオン軍からの砲撃の効果を削ぐことができます。さらに丘を進軍して登って来たナポレオン軍が尾根の頂を超えたあたりで尾根の向こう側から突如現れて攻撃を仕掛けることにより不意を突く形になったと思われます。

さらに当時この尾根の直ぐ向こう側には凹型の道が横に伸びていて、この道は連合軍の格好の輸送路として使われると共に、ナポレオン軍が尾根を越えて進軍してきた時には、少なからずの兵士や馬が尾根から道までの急な崖を体勢を崩してなだれ落ちたということもあったそうです。

またウェリントンは元々戦場にあった館、農家、小集落など幾つかの場所をあらかじめ要塞化しライフル部隊などを配置していたそうです。一般に要塞を攻める側は守る側の数倍の兵力が必要だと言われています。そのためナポレオン軍はそれらの要塞攻撃で多大な損害を被りまた時間をも浪費することになったようです。

ところで余談ですが「世界三大古戦場」という言葉があるのをご存じでしょうか。

あまりなじみのない言葉ですがこれは日本の岐阜県関ケ原町で作られた言葉だそうです。「世界三大古戦場」とはこのワーテルローの戦い、アメリカの南北戦争のゲティズバーグの戦い、そして日本の関ケ原の戦いだそうです。現在これら三カ所で古戦場同盟なるものを結んでいるとのことです。

ブリュージュ

ブリュージュはブリュッセルから電車で北西方向に約1時間の場所にあります。

ちなみに「ブリュージュ」はフランス語読みで「ブルージュ」は英語読みになります。旅行業界ではどちらも使われていますが私はブリュージュの方が響きが素敵なのでこちらを使っています。

ブリュージュは13世紀から14世紀にかけてハンザ同盟の中核都市として毛織物の交易で繁栄を極めました。しかし15世紀後半に北海から流入した土砂で重要な運河が埋まり中世の町並みを残したまま衰退しました。

しかし19世紀末にベルギー出身の詩人・作家のジョルジュ・ローデンバックの小説『死都ブリュージュ』がフランスのフィガロ紙に掲載されたことでブリュージュはベルギー有数の観光地として再びよみがえったとのことです。

「北のベニス」または「ベルギーのベニス」とも呼ばれるブリュージュは、旧市街全体がユネスコの世界遺産に指定され、さらにその内部で鐘楼やベギン会修道院など2つの世界遺産を有しています。 運河、石畳の道、中世の建造物や史跡が建ち並びその芸術的な景観は「屋根のない美術館」とも評されています。

ブリュージュは現在ベルギーで最も人気のある観光地だそうですが、三十数年前は日本人観光客にはまだほとんど知れ渡ってはいませんでした。

当時例えばフランスやイタリアの有名な観光地に行けばあちらこちらで多くの日本人観光客を見かけましたが、今回ブリュージュを1日観光する中で日本人観光客らしき人達には一度も遭遇することはありませんでした。

私たちが街を散策していると自転車に乗った若者3~4名が急に私たちの方に近づいてきて自転車をすぐそばに止めました。

何かあったのかなと思っていると、その中の一人が日本語で「日本の方ですか? 日本から観光でいらっしゃったのですか?」と声をかけてきました。実は現地にしばらく住んでいるという日本人の青年でした。当時日本人観光客がとても珍しかったのでつい声をかけてきたそうです

さてブリュージュの観光ですが、旧市街全体が中世の雰囲気で溢れていて同じ運河の街のベニスよりははるかに木々が豊かでどこをとっても絵になる素敵な風景ばかりでした。

下の写真はブリュージュの歴史地区の中心「ブルグ広場」です。ここはブリュージュ発祥の地で人々が最初に居住した場所だそうです。

一番右側の大きな建物はブルッヘ市庁舎で真ん中の小さな建物は公文書館です。

     

ブルグ広場のブルッヘ市庁舎(左上)と聖血礼拝堂(右上)

ブルッヘ市庁舎はまるでおとぎ話にでてくるような素敵な造りです。聖血礼拝堂は、十字軍の遠征に参加したフランドル伯が持ち帰ったとされるキリストの聖血を収めている教会です。ロマネスク期に建設され、その後上部がゴシック様式に改修されているそうです。

訪れた日はお天気もほぼ完璧な晴天で、石畳の道をあちらこちらをゆったりと気持ちよく散策しましたが、どこにいっても装飾豊かな見栄えする歴史的建造物が並んでいて飽きることがありませんでした。

下の写真は違う角度から撮影した「聖母教会」の見事な塔です。

   

「聖母教会」は13世紀から15世紀にかけて建設されたゴシック様式の教会で、塔の高さは122メートルになりブリュージュで最も高い建物です。またレンガ造りとしては世界でも2番目の高さだと言われています。

教会内部の右側奥の祭壇の中央に有名なミケランジェロ作の「聖母子像」があります。

高さ128cmの彫刻で、座った姿勢の聖母の両足の間に幼いキリストが立っています。

ミケランジェロの作品はイタリア以外ではフランスのルーブル博物館(「瀕死の奴隷」と「反抗する奴隷」のニ点のみ?)、ロシアのエルミタージュ美術館(「うずくまる少年」の一点のみ)とこのベルギーのブリュージュの「聖母教会」の3カ所にしかないということで大変貴重な一作品だということになります。

ミケランジェロはサン・ピエトロ大聖堂にある「ピエタ」を製作した後、1501〜1504年にこちらの「聖母子像」を製作したと言われています。

この作品は一目でミケランジェロという天才の作品であることが実感できるほど絶妙なバランスの見事な出来栄えだと思います。落ち着いた静寂、平穏な喜びと慈愛が溢れていて彫刻とは思えないようなオーラを放っているかのようです。

ブリュージュを訪れるときはこのイタリア以外ではまれなミケランジェロの作品である「聖母子像」を是非見にいくことをお勧めします。

ブリュージュ観光ではハイライトである運河クルーズも楽しみました。街に張り巡らされた運河を比較的小型のオープンボートに乗って遊覧観光をします。

街中の石畳の道を歩くのとは違って、白鳥やカモなど多くの水鳥が戯れる緑豊かな風景が広がります。古風な建物の壁には至る所びっしりとツタが絡まっています。さわやかなそよ風を浴びながらのとても快適なクルージングでした。

どこの風景も素晴らしく写真を撮るのに夢中になりました。それらの写真の中からごく一部だけ次にご紹介します。

水鳥と木漏れ日が素敵な情景を醸し出しています。運河の向こう側は世界遺産に登録されたベギン会修道院です。右手奥の方の石橋の向こう側にある白い建物がベギン会修道院の入口です。

      

ガイドブックやパンフレットによく使われる最も人気の撮影ポイントが上の写真です。世界遺産の鐘楼、レンガの古風な建物、運河、ツタや木々など要素が一通りそろっているというのがその理由のようです。私たちも現地ガイドさんに「最も良い撮影ポイントはここですよ!」と案内されました。

   

右上の写真はレンガに生えたツタが綺麗に紅葉している風景です。

   

上の写真2枚は運河クルーズのボートの乗場付近の様子です。それぞれ2~3台の白い色の観光ボートが待機しています。ボートは頻繁に出ているのであまり待たずに乗れるようになっています。

ブリュージュではまるまる一日観光を楽しみました。とにかく運河の水、味のある古風な建物、そして木々の緑と心安らぐ素敵な風景がいたるところで見られます。

私は趣味でパソコン絵画を楽しんでいますがこの時訪れたブリュージュの風景が大のお気に入りで、ここをモチーフにしてすでに2枚の絵を描いています。まさにどの風景を切り取っても「絵になる」風景でした。このような場所は世界でもまだ他にはほとんど遭遇していません。

単に歴史的な街・建物などが好きな人はもちろん、風景画を描く人や風景画に興味がある人はこのブリュージュは外せない訪問場所だと強く感じています。

バストーニュ

バストーニュはベルギーの南東の端、ルクセンブルクから12Kmの距離にある街です。

まず少しびっくりするようなバストーニュの街角の写真を次に掲げておきます。ごく普通の街角の広場の一角に何とアメリカ軍が使っていた実物のM4シャーマン戦車が置かれていました。観光バスでバストーニュの街に入った頃見つけて慌ててシャッターを切りました。

ここは第二次世界大戦中に連合軍とドイツ軍が熾烈な戦い(「バストーニュの戦い」)を繰り広げた激戦地です。この戦いはよく知られている「バルジの戦い」(「アルデンヌの戦い」や「ラインの守り作戦」とも呼ばれている)の中の一部です。

まず少しバルジの戦いにふれておきたいと思います。

バルジの戦い

1944年6月6日から開始された連合軍によるノルマンディー上陸作戦は一時フランス国内で快進撃を続けパリを開放しドイツ国境に迫っていたもののその後ドイツ軍の抵抗にあい前線は停滞していました。

ノルマンディー以降敗戦が続いていたドイツは戦局を大きく挽回すべくバルジの戦いを計画しました。

ベルギーにまたがるアルデンヌの森から大規模な攻撃を開始し短期間の間に連合軍の重要な兵站基地があったベルギーのアントワープを占領し、連合軍を北部で分断して戦局で優位に立ち、最後は連合国との和平交渉に持ち込もうとしていたようです。

バルジの戦いはドイツ軍約20万人が動員されたノルマンディー以降で最大かつ最後の大規模な戦いで1944年12月16日から1945年1月27日まで続きました。進撃開始後数日間はドイツ軍は不意を突いて破竹の勢いで連合軍を破っていっていましたが、連合軍が予想以上に素早く部隊を投入して対応してきたので1か月強程度でドイツ軍が敗れて敗走しこの作戦は終了しました。

最初連合国は当時すでにドイツには大規模攻撃を仕掛けるだけの兵力も武器・弾薬も残ってはいないと楽観視していたようです。またドイツの攻撃開始地点であるアルデンヌの森は連合軍が最も攻撃される可能性が少ない地区の一つだと判断してごく少数の部隊しか配備していなかったようです。

当時すでに制空権を奪われていたドイツ軍は、連合軍の航空機による監視や攻撃を回避するために、最も気候が悪い冬の時期を選んだということです。

ところでバルジの戦いについてはそれを題材にした「バルジ大作戦」という1965年製作のアメリカ映画が最も有名です。

この映画はドイツ軍北部攻撃隊の先鋒部隊であったパイパー戦闘団の進撃を軸にして描かれています。パイパー戦闘団は約5,000名の兵士と当時世界最強と言われたティーガーII(キング・タイガー)戦車20両を含む戦車約100両などの車両合計約600両が参加した装甲師団相当の部隊でした。

この映画を見て初めてバルジの戦いの詳細を知ることになりました。映画の中では話を面白くするために事実とは異なる出来事を色々と脚色したと勘違いしていた箇所が3つほどありました。

①当時世界最強のドイツ軍戦車に対して連合軍の戦車では歯が立たなかった

映画では、ドイツが誇るティーガーII(キング・タイガー)重戦車がアメリが軍のM4シャーマン戦車と対峙した場面で、シャーマン戦車の放つ砲弾はタイガー戦車の装甲に跳ね返されていました。一方タイガー戦車の主砲が放った弾丸はシャーマン戦車の前部装甲を打ち破り1発で大破させました。

実際タイガー戦車は装甲も主砲もかなり強力で前部装甲は傾斜装甲でしかも厚さ180mmの鋼鉄だったそうです。戦争に使われたタイガー戦車を調べたところ装甲を貫通され、破壊された戦車は一台もなかったそうです。この話は事実のようでした。

②アメリカ軍の兵士(MP)を偽装したドイツ兵が連合軍支配地域にパラシュートで降下・潜入して連合軍を混乱させた

映画では、アメリカ軍兵士に偽装し、米語を流ちょうに話すドイツ兵士を連合軍支配地にあらかじめパラシュート降下で送り込み、主要交差点の道案内立札を撤去したり、あるいは方向を変えたりしていました。またその場に残り、進軍してきた連合軍に故意に誤った道案内をしていました。

また橋や連合軍燃料保管所の確保の任務も行っていました。これはいかにも映画での作り話のように思えましたが、事実でした。偽装した兵士は捕まるとスパイと見做されて銃殺が許されていたということですが、ドイツがいかにこの作戦に賭けていたかが分かるようです。

ちなみにこのことで連合軍内でかなり混乱が起き、各所で連合軍部隊が敵か味方かの合言葉によるチェックをせざるを得なかったそうです。

③ドイツ軍の車両が必要な燃料は連合軍の燃料補給所を奪って使う計画だった

映画では、パイパー戦闘団が進んだ先では持参した燃料では足りずに、所々にある連合軍の燃料補給所を奪って燃料補給することをあらかじめ予定していました。このようなリスクが高いことを前提とする作戦はやはり作り話かなと思いましたが、これも事実でした。

戦闘車両約600両の部隊では長距離を進軍すると膨大な量の燃料を必要とします。たとえばキング・タイガー戦車の燃費はガソリン1リットルあたりわずか約150mほどだったと言われています。

先鋒隊として突き進んだパイパー戦闘団でしたが、連合軍に次第に周りの橋を破壊され、攻め立てられて結局燃料がなくなって、現地に車両をそのまま乗り捨てて敗走したそうです。

このバルジの戦いに興味がある人はこの映画「バルジ大作戦」をご覧になることをお勧めします。とてもリアルで迫力ある映像がとても印象的な作品になっています。

さてバストーニュの戦いに話を戻したいと思います。

バストーニュの戦い

ドイツ軍の大反撃を悟った連合軍はバルジの戦い開始2日後の12月18日にはアメリカ第101空挺師団などの部隊をバストーニュへ向けて送り出しました。バストーニュはアルデンヌ高地の7つの道が交わる重要地点で、ドイツ軍、連合軍もそこをぜひ確保したいと思っていました。

バストーニュ周辺では熾烈な戦闘が繰り返され、ついにバストーニュに通じる7本の道は12月21日正午までにはドイツ軍に寸断され、バストーニュを守るアメリカ第101空挺師団はドイツ軍に完全に包囲されてしまいました。

補給路を断たれた第101空挺師団は、冬の最悪の天候が続く中、航空機による支援攻撃、弾薬・食料・衣料・医薬品などの物資の補給も容易には受けられずとても厳しい状況にさらされたそうです。

当時ドイツ軍からバストーニュに立てこもっている第101空挺師団に投降の勧告がありましたが、これを第101空挺師団はきっぱりと拒否しています。

12月26日になってあの有名なアメリカ軍のパットンの機甲部隊がバストーニュにたどり着き初めてドイツ軍の包囲を破ることに成功しました。その後ドイツ軍は1月13日にはバストーニュ周辺から撤退することになりました。

先ほどの街角に置かれた戦車は当時アメリカ軍がバストーニュの戦いを含むバルジの戦いでたくさん使っていたM4シャーマン戦車です。バストーニュはこれを街角に設置することでアメリカ軍を中心とする連合軍への感謝と永久平和を祈念しているものと思います。

バストーニュ観光では、バストーニュ歴史博物館を訪問しました。

この博物館ではバストーニュの戦い、バルジの戦いの様子が詳しく分かるように、連合軍とドイツ軍の武器、装備品、軍服、各種資料などが展示されていました。

   

博物館横に置かれたアメリカ軍戦車(左上)とドイツ軍装甲車(右上)

近くには立派なアメリカ軍記念碑が建っていました。この戦争に参加した部隊の名前が書かれていました。

   

芝生の奥の方にパットン将軍の顔のレリーフがある広場(左上)とアメリカ軍記念碑の屋上から見たバストーニュの街並み(右上)

なお、バストーニュの戦いについては、それを題材とした2001年制作のアメリカのTVドラマ「バンド・オブ・ブラザース」の中の一つのエピソード「バストーニュ」(日本語版では「衛生兵」)があります。そこでは包囲されたバストーニュにおけるアメリカ第101空挺師団の苦闘が詳しく描かれています。

今回訪問したバストーニュはのどかで静かな田舎の街という感じでした。ここで第二次世界大戦中に上で書いたような大規模な激戦が繰り広げられたとはとても思えないような場所でした。

一度訪れると長く記憶に残る場所だと感じました。

最後に

ベルギーは、ヨーロッパの小国でフランス、ドイツ、オランダ、ルクセンブルクと国境を接し、使う言語もオランダ語、フランス語、およびドイツ語と複雑で、文化もラテン文化とゲルマン文化が交錯しているようです。

私が訪れた三十数年前もそうでしたがどうも現在でも日本人観光客はフランス、イタリア、ドイツ、イギリスなどの国に比べてかなり少ないようです。

日本政府観光局(JNTO)がまとめた2017年のヨーロッパへの日本人訪問者数のランキングではベルギーはドイツ(1位 約58万人)やフランス(2位 約48万人)などよりはるか下位の16位 約68,000人だったそうです。

ヨーロッパの交通のかなめに位置することからEU本部など重要な役割も果たし、昔から色々な文化に影響されてきた独特の美しい街並み、美食、スィーツなど楽しめる要素はたくさんあって、ヨーロッパ観光の穴場とも言われているそうです。

今回の観光旅行では、世界的にみてもトップレベルの素晴らしい歴史的町並みを誇るブリュージュ、交通の要衝のゆえに歴史に残る戦場となったワーテルローとバストーニュなど見応えのある印象的な観光地を回ることができて大変満足しています。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする