『カーヴの隅の本棚』(文藝春秋) 著者:鴻巣 友季子


玉響(たまゆら)の批評的享楽

次々と意欲的な翻訳の仕事を手がける著者の、ワインに寄せる愛情の深さに驚かされた。単に好きだとか、詳しいといった域をはるかに超えて、味わいつつ研究し、その香りや味の背景を探求せずにはいられないのである。その思索がおのずから、文学や翻訳をめぐる思考を引き出す。そんな風に、自らの資質、好みと正面から向き合うことで編み出された、真摯で豊饒な批評が繰り広げられている。

本文中の美しい表現を借りるならば、それは「魅惑に対する深い身の処し方」を追求する批評と定義できるだろう。自己を魅了するものの核心を摑み取ろうと願うとき、どうしたって人は「享楽の内側」から外に出、至福の境から降りてその境地を解説するという逆説に挑まなければならない。本書の言葉には、魅せられた者として、あえてそうした試練に身をさらすのだという爽快な決意がみなぎっている。

そこには著者の主体性がくっきりと刻印されているわけだが、面白いことに収録された文章はいずれも、著者の思考を一元的に展開するのではなく、むしろ引用の織物といった様相さえ呈するほどに、他人の文章への参照、言及を多く含むのである。たとえば、気象とそれに対する感受性が時代によってどう変化してきたかを論じた一文を見てみよう。するとポオの引用から始まって、フローベール、マルセル・ブリヨン、アラン・コルバンと続き、一転してBordeaux、Bourgogneのワイン温暖化の影響が論じられ、また文学に戻ってイヴリン・ウォーが引かれ、コルバン、フローベールで締める、といった離れ業が、心地よいスリルをかもしだしながら演じられている。

「文學界」初出時にも、これだけ多彩な内容が見開き二ぺージに収まっていることを、いぶかしくすら思ったものである。毎回、優に力作評論に展開されうるだけの素材が集められているのだ。このたび、ひょっとして増補がなされたのかと字数を数えてみても、一回分四百字詰め換算で約八枚という枠に変わりはないらしい。限られた紙幅に豊かな材料を盛り込み、明快なテーマを設定した上で引用とともに思考を跳躍させ、鮮やかに着地して終わる。実にドラマ性のある批評的エッセーなのだ。

とりわけ唸らされたのが、楊逸氏の作品に対する論評である。著者は何と、「ワンちゃん」の一節に「名訳の誉れ高い」村岡花子訳の『赤毛のアン』を接続して引用する。その仕掛けを明かされなければ、読者はつなぎ目など意識せずにつるりと読んでしまうにちがいない。そんなマジックを用いて、著者は「日本語の表現として未熟」という「ワンちゃん」に対する批判に疑義を呈し、楊逸作品の示す「翻訳小説で出会う日本語の手ざわり」を擁護するのである。

こうした見事な批評が、鴻巣氏の翻訳家としての立場と緊密に結びついて可能となっていることはよく実感できる。「世界をつなぐのは、同一性ではなくむしろ相違性だ」というメッセージに強く共感をおぼえつつ、今更ながら、同一性と同一性のあいだに身を置く翻訳家という存在の役割を思った。世界の文化がこれだけ盛んな交通の中に投じられ、混淆し合う状態となった現在、「相違性」のただ中をさまよい歩くのが習い性となっている翻訳家が、その経験を通して身につけてきた「共鳴と共振」の術には、時代の要請に応える部分があるにちがいない。何しろワインでさえ、故郷を遠く離れた土地で「新訳」され「訳し重ね」られて、味わいを日々、更新する時代なのだ。

そのワインに関しての深遠な議論は、実のところ、スーパーの棚に並ぶ数百円のワインを常用しているぼくのような人間にくちばしを突っ込める次元のものではない。だがありがたいことに、そんな人間にも実に興味深く読めるのである。現代ワイン業界を揺るがす大問題の数々を取り上げる著者の巧みな筆遣いは、門外漢にとっては空想的な興味をいたく掻き立ててくれる。

ワイン評論の常套句とは、「暴れる諸要素を堅固なストラクチャーがおさえこむ」といったものだという。安ワインを飲んで暴れるならばともかく、ワイン自体が暴れる諸要素を抱え込むとは知らなかった。その比喩から著者は、「ほとばしりでるエネルギー」VS「堅牢なフレーム」という拮抗関係を取り出し、それが『嵐が丘』の「構造的特徴を表現している」として、『嵐が丘』論になだれ込む。英語論文の簡潔な紹介を挟んで、さらに廣瀬純氏の『美味しい料理の哲学』を援用しつつ、エネルギーフレームの二項対立を「肉」VS「骨」の構図に読み替えたあげく、ついには『嵐が丘』はカツ丼であるという結論が導き出されるのだ。その一部始終が、まさしくダイナミックな「メタモルフォーズの過程」そのもので、じつに読み応えがある。

おそらく、そうした「骨肉の争い」に対する注視、あるいは固定的ではなくつねに「質的な変容」をはらむものとしての創造過程への理解とは、ことばとことばのあいだの根本的な不一致、相克にたえず悩まされながら、そこに「堅固なストラクチャー」を与えようと腐心する翻訳者が、日々の仕事をとおして養っている能力なのではないか。少なくとも著者の場合、凄腕の翻訳家としての力量が、複眼的な批評の実践をしっかりと支えているのだ。

そんな鴻巣氏のしなやかな思考が折にふれて示す、表現の新鮮さも、本書の大きな魅力となっている。ワインと文学を併行的に論じるにあたり、氏は冒頭でこう述べる。

この二つは人間の創造物のうちでもいたって相性がよく、かけあわせることで、なにかが玉響(たまゆら)に垣間見えることがしばしばある。

たまゆらとは、辞書によれば、玉の触れ合うようにかすかなさまが原意である。異質のものが触れ合って立てる妙なる音色に満ちた著者の文章に、耳をそばだてずにはいられない。

【書き手】
野崎 歓
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授。1959年新潟県生まれ。東京大学文学部卒、東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。フランス文学研究のほか映画評論、文芸評論、エッセイなど幅広く手がけている。著書に『ジャンルノワール 越境する映画』(青土社、サントリー学芸賞)、『赤ちゃん教育』(青土社、講談社エッセイ賞)、『フランス文学の扉』(白水uブックス)、『谷崎潤一郎と異国の言語』(中公文庫)、『異邦の香り――ネルヴァル「東方紀行」論』(講談社、読売文学賞)、『フランス文学と愛』(講談社現代新書)、『翻訳教育』(河出書房新社)、『アンドレ・バザン――映画を信じた男』(春風社)、『夢の共有――文学と映画と翻訳のはざまで』(岩波書店)など。訳書にトゥーサン『浴室』(集英社ベルギーフランス語圏翻訳賞)、バルザック『幻滅』上・下(共訳、藤原書店)、ジャンルノワールジョルジュ大尉の手帳』(青土社)、サン=テグジュペリ『ちいさな王子』、スタンダール『赤と黒』、ヴィアン『うたかたの日々』、プレヴォー『マノン・レスコー』(いずれも光文社古典新訳文庫)、ウエルベック『地図と領土』(ちくま文庫)、バザン『映画とは何か』(共訳、岩波文庫)など多数。

【初出メディア
新潮 2009年1月号

【書誌情報】

カーヴの隅の本棚

著者:鴻巣 友季子
出版社:文藝春秋
装丁:単行本(139ページ
発売日:2008-10-29
ISBN:4163706607
カーヴの隅の本棚 / 鴻巣 友季子
『風と共に去りぬ』翻訳者がワインに寄せる愛情の深さ


(出典 news.nicovideo.jp)


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