刻のエンピツと木の精ポチカ8
「元気そうだけど」
「うん、でもきっとすごく痛いと思う。――痛いっていうのと、違うかもしれないけど」
ポチカはイワナの身体を洗いながら、静かにいった。さっきのとは別のトンボが二人の近くをしばらく飛んで、どこかへ離れていった。向こうでは、渉と優がどちらが先に釣れるかを競っているみたいだ。
それからもイワナは流れのなかでゆらゆらと漂うだけだった。真琴は近くに落ちていた大きめな葉っぱを拾って、ポチカに渡すと、ポチカはイワナを水から揚げて葉っぱに包んだ。
「ちょっと葉っぱも濡らしておこう」
真琴はポチカの包んだ葉っぱに川の水をかけた。
別の場所でも釣り糸を垂らしてみたけれど、ポチカが釣った一匹以外は全然魚はかからなかった。かえって、針が川底に引っかかってしまったり、エサの虫だけがなくなってしまったりして、実際に釣りができている時間のほうが短かったかもしれない。
竿を貸してくれた父親さん達は、やっぱり慣れているのか、けっこう魚を釣り上げていた。流れにひたした網のバケツのなかに、何匹も魚が入っている。
「これも貸してやればよかったな、さっき釣ったの弱っちゃっただろう。でも――な、店とかに比べれば釣ったばかりだし、大丈夫だぞ。後でもっと欲しかったらおいで」
父親さんは今日の釣れ具合に納得している顔でいった。
「はい、ありがとうございます。これ、ありがとうございました」
真琴とポチカは釣竿を返した。思ったよりも時間が経っていて、太陽が山の尾根に近づいている。そういえば、川の流れる音に加えて虫の声も大きくなってきた気がする。
「――おれのほうがデカいって、ワタルのこんなじゃん」
「いいよ、それでも。いいっていってる」
「でもちゃんと認めてないだろー」
優が釣竿を脇にはさんで、両手で魚のサイズを示しながら渉と一緒に歩いてきた。渉は面倒くさそうにうなずいている。二人が持っている網にも数匹の魚が入っていた。
「あれ、もう帰んの? いくつ釣れた?」
ポチカに向かって優が訊いた。
「さっきの一匹だけだよ。すぐるくん達は?」
「かなり釣れたぜ。この川の魚、釣りつくしたんじゃないか」
待ってましたという顔で優がいうと、父親さんがちょっと厳しく、
「全部釣っちゃったらダメだろう、魚がいなくなったらおまえ達も楽しくない。魚に遊んでもらってるんだ、むしろ」
「おれは遊びじゃない、マジのバトルだ」
「いや、普通にしてていきなりバトルされても魚も困んない?」
渉が突っ込むと「確かに」といって優は大笑いした。まだ釣り足りないという様子で、川のほうを見る。
「最後一回」
「動物たちにも残しといてやれー」
父親さんがエサの箱を渡してあげると、優はまた自分が探し当てたらしいポイントへ跳ねるように走っていった。
「真琴君は釣れたの?」
「全然。でもまあ、いいです」
渉に首を振ってみせてから、真琴は笑った。食べ物は持ってきているし、川からあんまり魚を取りすぎてもいけないような気がした。
「そうだな、それもいいな。蒸し焼きしたら身がほぐれやすくなる。けど、葉っぱだけだと燃えるからアルミホイルも巻くといい」
父親さんがイワナを包んだ葉っぱに目をやったので、ポチカがちょっと持ち上げたら水が滴った。
「塩焼きもいい。魚の味が正面から分かる。――じゃあ、君らは戻るかい?」
「はい、いろいろとありがとうございました。がんばってください」
「ん? 釣りを? ああ、ありがとう」
真琴が挨拶をすると、父親さんは優しく笑ってうなずいた。真琴とポチカが広場への坂を登ろうとしたとき、後ろから渉と優が「じゃあなー」と手を振ってくれた。
「面白かったね」
ポチカはイワナを大事に持ったまま、にっこりした。
少し坂を登って振り返ると、渉と優が一緒にポイントを探していたり、別な場所で父親さんがひとりでゆったりと釣り糸を垂らしているのが見えた。途中から姿が見えなくなったと思っていた母親さんも、かなり下流のほうから釣竿を背負って歩いてきていた。
陽も傾き始めているから、渓流の水が橙色に輝いて、川べりの空気も薄赤くきれいな靄がかかったようだった。広場へ向かって川を離れるにつれ、水の音が小さくなって、何も聞こえなくなる瞬間があった後で、周囲の虫の声や草が風になびく音がよみがえってきた。
「ポチカ、そのイワナ、塩焼きがいい?」
真琴は自分が土を踏む足音を聴きながらいった。ポチカはちょっと疲れたのか、ぼんやりしているみたいだったけれど、
「まことくんの好きなほうでいいよ。ポチカ、どっちも食べたことないし」
「僕もないよ。――けど」
食べてもいいのかな、という言葉を真琴は飲み込んだ。午前中に見た鹿の骨の印象が強く残っている。でも、もうイワナは動かなくなっているし、川へ戻すわけにもいかない。
「お母さんにどっちが美味しいか聞いてみよう?」
ほほえんでポチカがいった。
「うん」
真琴は自分がはっきりしない何かを考えているような気もちで答えた。そういえば、お母さんは丸のままの魚を触るのが苦手だけれど、大丈夫だろうか。
坂を登り切って広場に出ると、野原にはもう真琴達のブルーシートはなく、お父さんもお母さんもテントに戻ってしまっていた。遠くにまた別の家族がいるようだけれど、それ以外には誰もいない。夕陽で芝生や木々に陰影が付いたのもあって、いやに広々とした場所に感じられた。
「うん、でもきっとすごく痛いと思う。――痛いっていうのと、違うかもしれないけど」
ポチカはイワナの身体を洗いながら、静かにいった。さっきのとは別のトンボが二人の近くをしばらく飛んで、どこかへ離れていった。向こうでは、渉と優がどちらが先に釣れるかを競っているみたいだ。
それからもイワナは流れのなかでゆらゆらと漂うだけだった。真琴は近くに落ちていた大きめな葉っぱを拾って、ポチカに渡すと、ポチカはイワナを水から揚げて葉っぱに包んだ。
「ちょっと葉っぱも濡らしておこう」
真琴はポチカの包んだ葉っぱに川の水をかけた。
別の場所でも釣り糸を垂らしてみたけれど、ポチカが釣った一匹以外は全然魚はかからなかった。かえって、針が川底に引っかかってしまったり、エサの虫だけがなくなってしまったりして、実際に釣りができている時間のほうが短かったかもしれない。
竿を貸してくれた父親さん達は、やっぱり慣れているのか、けっこう魚を釣り上げていた。流れにひたした網のバケツのなかに、何匹も魚が入っている。
「これも貸してやればよかったな、さっき釣ったの弱っちゃっただろう。でも――な、店とかに比べれば釣ったばかりだし、大丈夫だぞ。後でもっと欲しかったらおいで」
父親さんは今日の釣れ具合に納得している顔でいった。
「はい、ありがとうございます。これ、ありがとうございました」
真琴とポチカは釣竿を返した。思ったよりも時間が経っていて、太陽が山の尾根に近づいている。そういえば、川の流れる音に加えて虫の声も大きくなってきた気がする。
「――おれのほうがデカいって、ワタルのこんなじゃん」
「いいよ、それでも。いいっていってる」
「でもちゃんと認めてないだろー」
優が釣竿を脇にはさんで、両手で魚のサイズを示しながら渉と一緒に歩いてきた。渉は面倒くさそうにうなずいている。二人が持っている網にも数匹の魚が入っていた。
「あれ、もう帰んの? いくつ釣れた?」
ポチカに向かって優が訊いた。
「さっきの一匹だけだよ。すぐるくん達は?」
「かなり釣れたぜ。この川の魚、釣りつくしたんじゃないか」
待ってましたという顔で優がいうと、父親さんがちょっと厳しく、
「全部釣っちゃったらダメだろう、魚がいなくなったらおまえ達も楽しくない。魚に遊んでもらってるんだ、むしろ」
「おれは遊びじゃない、マジのバトルだ」
「いや、普通にしてていきなりバトルされても魚も困んない?」
渉が突っ込むと「確かに」といって優は大笑いした。まだ釣り足りないという様子で、川のほうを見る。
「最後一回」
「動物たちにも残しといてやれー」
父親さんがエサの箱を渡してあげると、優はまた自分が探し当てたらしいポイントへ跳ねるように走っていった。
「真琴君は釣れたの?」
「全然。でもまあ、いいです」
渉に首を振ってみせてから、真琴は笑った。食べ物は持ってきているし、川からあんまり魚を取りすぎてもいけないような気がした。
「そうだな、それもいいな。蒸し焼きしたら身がほぐれやすくなる。けど、葉っぱだけだと燃えるからアルミホイルも巻くといい」
父親さんがイワナを包んだ葉っぱに目をやったので、ポチカがちょっと持ち上げたら水が滴った。
「塩焼きもいい。魚の味が正面から分かる。――じゃあ、君らは戻るかい?」
「はい、いろいろとありがとうございました。がんばってください」
「ん? 釣りを? ああ、ありがとう」
真琴が挨拶をすると、父親さんは優しく笑ってうなずいた。真琴とポチカが広場への坂を登ろうとしたとき、後ろから渉と優が「じゃあなー」と手を振ってくれた。
「面白かったね」
ポチカはイワナを大事に持ったまま、にっこりした。
少し坂を登って振り返ると、渉と優が一緒にポイントを探していたり、別な場所で父親さんがひとりでゆったりと釣り糸を垂らしているのが見えた。途中から姿が見えなくなったと思っていた母親さんも、かなり下流のほうから釣竿を背負って歩いてきていた。
陽も傾き始めているから、渓流の水が橙色に輝いて、川べりの空気も薄赤くきれいな靄がかかったようだった。広場へ向かって川を離れるにつれ、水の音が小さくなって、何も聞こえなくなる瞬間があった後で、周囲の虫の声や草が風になびく音がよみがえってきた。
「ポチカ、そのイワナ、塩焼きがいい?」
真琴は自分が土を踏む足音を聴きながらいった。ポチカはちょっと疲れたのか、ぼんやりしているみたいだったけれど、
「まことくんの好きなほうでいいよ。ポチカ、どっちも食べたことないし」
「僕もないよ。――けど」
食べてもいいのかな、という言葉を真琴は飲み込んだ。午前中に見た鹿の骨の印象が強く残っている。でも、もうイワナは動かなくなっているし、川へ戻すわけにもいかない。
「お母さんにどっちが美味しいか聞いてみよう?」
ほほえんでポチカがいった。
「うん」
真琴は自分がはっきりしない何かを考えているような気もちで答えた。そういえば、お母さんは丸のままの魚を触るのが苦手だけれど、大丈夫だろうか。
坂を登り切って広場に出ると、野原にはもう真琴達のブルーシートはなく、お父さんもお母さんもテントに戻ってしまっていた。遠くにまた別の家族がいるようだけれど、それ以外には誰もいない。夕陽で芝生や木々に陰影が付いたのもあって、いやに広々とした場所に感じられた。
真琴とポチカがテントへ戻ると、お父さんとお母さんが金属の大きなカゴのなかに薪を入れて、キャンプファイヤーの準備をしていた。近くの森から取ってきた木で、キャンプ場の人が事前に干して乾かしてくれたものを利用できることになっていたのだ。
「ちょっと大きいの頼みすぎたか? 温暖化に貢献しちゃう」
「いつも使ってる車のほうがそうでしょ」
お父さんとお母さんは普通に話をしているみたいだ。声の感じからしても、仲直りしたのかもしれない。
「あ、来た来た。――それ何?」
お母さんがイワナの入った葉っぱを見ていった。
「イワナです、川で釣ってきました。いっぱい魚がいました」
「え、すごい! ――どうやって? 入って捕まえたの?」
驚いた声を出して、お母さんは真琴達のそばへ寄ってきた。お父さんはその様子をちらりと見て、薪を詰める作業を続けた。
「釣り釣り。下に他のお家が来てて、釣る道具とか貸してもらった」
真琴は帽子を取って、片方の手にパタパタとかぶせながらいった。お母さんは感心したように、
「へえ、すごいじゃん、知らないお家の人とすぐ仲良くできたんだね。えらい」
「ていうか、まあポチカがね」
ポチカがあの父親さん達に声を掛けに行ってくれたので、真琴も初めて釣りを体験することができたのだ。真琴ひとりだったら、たぶん緊張してしまっていただろう。
「焼くと美味しいっていってました。塩焼き」
「あれ、やっぱポチカ塩焼きがいいの」
真琴が笑うと、ポチカもにっこりしてうなずいた。
「なんかずいぶん通だなあ。お父さんもパーキングとかで買って食べたことしかない、まるまる塩焼きなんて」
お父さんが作業を終えて、話に入ってきた。
「一匹だけ? じゃあ昼に使った串で刺して、キャンプファイヤーのとき焼いてみるか、こう火の脇で地面に、雰囲気出して」
「それいいね」
その場面を想像して、真琴は楽しみになった。お父さんとお母さんもだいたい普通の様子だ。
「あれ準備できたから、夜食べたらやろう。雨も降らないらしいからよかった」
首で薪の詰まったカゴを指して、お父さんが笑った。するとお母さんがその横にいくつも残った薪を見て、
「そっちに置いてあるの何?」
「入り切らなかったから。後で焼けてきたら、足せばいいかなと思って」
「一回で入りきらないの? そんなことあるかなぁ。ここの人もちょうどいいくらいの分量を用意してくれると思うけど」
「長く楽しみたい人もいるからなんじゃないの?」
お父さんの返事に、お母さんは「ふーん」と納得するつもりのない声で答えた。やっぱりまだくすぶっているみたいだ。
ポチカが残った薪に近寄って、欠片になっているものをひとつ抜き出すと、その上に葉っぱに包んだイワナを置いた。
「ここに置いていいですか」
「うん、――あ、やっぱり大きいね。うわ、目が合っちゃった」
お母さんはポチカと一緒に葉っぱを少し開くと、首だけ離すように引いていった。それを見て、お父さんは「もう死んでるよな」と真琴につぶやいた。真琴は、
「夜ご飯は?」
「ロッジに頼んである。あっちでレストランになってるとこがあるから。そろそろ行くか、ちょっと遅れたかもしれないよ」
アウトドア用の文字が光る腕時計を確認して、お父さんはテントのなかへ入った。「あれどこだっけー? 鞄ー」とお母さんに呼びかけると、お母さんも面倒そうな顔をしつつテントへ入って何かお父さんと話している。
ポチカはもう一度丁寧にイワナを葉っぱで包んでから、真琴にいった。
「まことくん、あの日記帳とエンピツある?」
「ん? 何か書くの?」
「いまはまだいいけど、後で使いたいかも」
真琴はうなずいた。
「すぐ分かるとこに入れてあるよ」
ポチカはにこっとすると「ご飯どんなのかなー」といいながら身体をゆすっていた。だんだんと辺りも暗くなってきて、昼間は目立たなかったキャンプ場のロッジの窓明かりが、駐車場の近くに見えた。
お父さんとお母さんが話す声がテントから漏れているけれど、それ以外はほとんど音がしなくなった。虫も鳴くのを休むタイミングなのだろうか。夜の空気で湿った草や土の香りが心地よい。