木曜レジオ

恥の多い人生ですね(達観)

女性医師とフェルマーの最終定理

夏、マッチング

夏ですね。六年生の僕的にはマッチングの季節。そんな中、小論文対策で医療にまつわることなどをやはり改めて考えることになる。そういう意味でマッチングはいい機会でかもしれない。医学生に真面目に医療について考えさせる契機になると言うか。そこで少し考えたことを久しぶりのその2つは並べんだろっってのを敢えて並べる「並列怪論」の記事として書き散らしてみる。

前回の並列怪論

マウントと占い師 - 木曜の医師国家詩篇

 

今回のお題は300年の長きにわたり証明されなかったフェルマーの最終定理と未だその解決の糸口が見えぬ女性医師に絡んだ問題である。

女性医師

ツイッターの医療関係者界隈で度々話題になるのが、女性医師の出産とその負担が男性医師含むその他のひとに負わされる話だ。女性医師より男性医師を増やせ、という話にもつながってくる話でもあるようだ。男女平等の考えに基づけば医師になりやすさに男女差があるべきではないだろう。だが必要である、という勢力も一定数いる。この2つの対立する立場が和解する道はあるのか。

 

アンドリュー・ワイルズ

さてフェルマーの最終定理の事はもちろん聞いたことはあるだろう。僕もその中身はよく知らないが存在は知っている。高校生の頃、若干背伸びして数学関係の書籍を意味もわからずに読んでいた時期があった。カッコつけだったのだ。自慢する友人もいなかったが。だってかっこいいじゃん、最終定理。

 

 (確かこの本だった)

その中でフェルマーの最終定理に挑んだ人たちの本も読んだ。その内容のほとんどは忘れてしまったが日本人もその解決に関わっていたというのは意外だったので覚えている。確かその本の冒頭でフェルマーの最終定理を証明したアンドリュー・ワイルズについての話が紹介されていた。彼は一度証明を間違えた。大々的に証明したと発表した後、彼の証明にたったひとつ、しかし致命的な欠陥があることが示されたのだ。ワイルズは当然再証明をすることになる。その時の彼を例えた一節が確かこんな風に描かれていた。

 

彼は四角い部屋に、三角形のカーペットを隙間なく敷こうとしているかのようであった。ひと隅を寄せれば他の隅が空いてくる。それを何度も繰り返す。そんな作業を続けていた。

 

足りないカーペット

僕が思うに、雑に言えば人類の半分を占める女性が選択の余地があるとはいえ、取りうる行動のひとつを想定していないかのようなシステムがそもそもおかしい。現在の少なくないシステムが永らく男性社会の中で構築されてきたものを援用してるにすぎないことに我々はもっと自覚的であるべきではないか。とは言え、問題はそこではないと思う。

 

ぶっちゃけた話単純に医者が足りない。もっと言うととっくの昔にこの国の医療は破綻していてその崩壊の中を止まることもできずに走り付けているだけなのではないか。

 

正直なところ、政府の人間は医療の最大の利用者で患者である高齢者が寿命で消えるまで逃げ越せればいいと思ってるんじゃないかと思ってしまう。そこまで崩壊させながらも走らせ続けられればそこから再建するつもりなんじゃないかと勘ぐっている。

 

医療におけるカーペットはあまりに小さく無理矢理に広げようとしてすでに張り裂けている。そんな状況の中で犠牲になるのが「まだこの世に影も形も生まれてもいない赤ちゃん」という最大の弱者なのではないのか。などということを思う。

 

ワイルズは最終的にかつて諦めたアイデアを再び拾い上げることで証明を完成させた。全く新しい何かをしたわけではない。医療にまつわる問題の解決もまた、きっと劇的ではない。