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桜と絵本と豆乳と

穴のあいた季節に考える

2020年03月26日 | 教育ノート
 今の災禍により卒業式が出来なかったり、縮小されたりしたことが全国共通なので、「ずっと経ってから、2020年春の卒業生だったよと言うと(同じ境遇の人と)仲良くなれるかもしれない」とTVバラエティで発言した若い子がいた。そんなふうに振り返られたら幸せだろう。もちろんこれ以上の拡がりは望まないが…。


 さて、私ぐらいの世代を念頭に置くと、個人的に大学入試で高校の卒業式は出ていないし、大学の式にも参加した記憶がない。周囲もそうだった。それでも小学校や中学校はやはり別だ。やや細かい場面や練習で覚えていることもある。教員経験者としては、その経験の価値は換えがたいという思いはずっと持ってきた。


 卒業担任は4度しか経験がない。その時々で思いは異なったが「卒業式は集大成」という気持ちに変わりはなかった。大半の教員がそうだと思う。小学生の場合、儀式という行事にいかに正対できるか、姿勢・発声・歩き方…緊張する場をくぐり抜ける成長を求めた。意識して参集する通過儀礼の始まりとも思える。


 メインは「呼びかけ」だろう。ただ、改めて客観視すれば、それが漫才のネタにもなるようなステレオタイプが多い。しかしその同様さは、学校教育が安定した基盤で着実に価値のあることを積み上げることが出来た証左でもあるだろう。今回突発的と言える事態ですっぽり抜けたような穴で、関係者はどう考えたか。


 「○○は本当に必要だったのか」という問いは浮かぶかもしれない。こういう機会にこそ真剣に考えるべきだ。つまり、子どもにとってこんな価値があると明確にすることだ。「教室で授業を!」と考える者がいても当然だ。腹を割って話し合いをし、判断し、揃って実践するからこそ、全ての活動が価値を持つのだ。


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