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深呼吸をして「あのとき」を

2020年08月07日 | 読書
 読書のマイブームというのは、時々やってくる。小説などは続けて何冊も読みたくなる作家に何年か一度は出逢っている。今回は詩人、長田弘。去年からの小さな波が、続けて寄せてくる。ずいぶん以前からその名前は知っていたが、あまり読んでこなかった。絵本の中の言葉に惹かれて、きっかけができた。

 『深呼吸の必要』(長田 弘 ハルキ文庫)



 なんと単行本は1984年刊である。散文詩、それも一行が20字という原稿用紙形式となっている。「あのときかもしれない」「大きな木」という二章立て?になっていて、特に前者は素晴らしいと感じ入ってしまった。「きみはいつおとなになったんだろう」という問いかけから始まる、その詩群は9つで構成されていた。

 無謀というか、不遜というか「引用だけ」でやや要約っぽく組み立てれば、こんな感じになる。

いったいいつだったんだろう。
子どもだったきみが、
「ぼくはもう子どもじゃない。もうおとななんだ」
とはっきり知った「あのとき」は?

歩くということが、きみにとって、
ここからそこへゆくという
ただそれだけのことにすぎなくなってしまったとき。
もう誰からも「遠くへいってはいけないよ」
と言われなくなったことに気づく。そのとき。

「なぜ」と元気にかんがえるかわりに、
「そうなっているんだ」という退屈なこたえで、
どんな疑問もあっさり
打ち消してしまうようになったとき

きみがきみの人生で
「こころが痛い」としかいえない痛みを
はじめて自分に知ったとき。



 ひらがな中心に「子どものきみ」へ宛てて書いている形だが、明らかに「大人」に向けている。子どもから大人になる過程で喪失しただろう、あるいは体感できるようになっただろう典型的な出来事が語られている。似たような経験を思い起こす者は多いはず。深呼吸をして、「あのとき」を思い出す絶好の機会となろう。


 「あのとき」まであったものが無くなり、それまでなかったものに気づく。それは成長の一つの形であり、誰しも受け入れてきたことだ。今を生きるために肝心なのは「あのとき」を時々振り返ることではないか。詩人の言葉は長い間放って置かれた「あのとき」を照らし、目の前に浮かび上がらせてくれる気がした。


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